ボヘミアの海岸線 - 海外文学の感想

海外文学/世界文学/ガイブンの書評と感想ブログ。昔の名は「キリキリソテーにうってつけの日」

『海の乙女の惜しみなさ』デニス・ジョンソン|地すべりしていく人の隣に座る

今になってみれば、これから生きる年数よりも、過去に生きた年数のほうが多い。これから楽しみにすることよりも、思い出すべきことのほうが多い。 ――デニス・ジョンソン『海の乙女の惜しみなさ』 デニス・ジョンソンは、麻薬常用者としての人生を驚くべきフ…

『居心地の悪い部屋』岸本佐知子編|日常が揺れて異界になる

Hにつねにつきまとっていた、あの奇妙な無効の感じを、どう言葉にすればわかってもらえるだろう。 ――岸本佐知子編『居心地の悪い部屋』 言葉は、未知の世界を切り開いて照らす光であり、既知の世界を異界に揺り戻す闇でもある。『居心地の悪い部屋』は、日常…

『優しい鬼』レアード・ハント|傷つけられ続けて鬼になる

かんがえる力をつかってじぶんをどこかよその場所につれていくやり方はクリオミーとジニアから教わったのだった。…… 「よその場所って?」とわたしは訊いた。 「そこでない場所どこでも」とジニアは言った。 「きれいな場所」とクリオミーが言った。 「あん…

『私はすでに死んでいる』アニル・アナンサスワーミー|「自分は自分だ」と思えない人たち

「コタール症候群は、地球に立ちはだかる巨大な黒い壁みたいなもの。そこから土星をのぞこうとしても、見えるはずがないのです」 ――アニル・アナンサスワーミー『私はすでに死んでいる』 「私は自分にとって永遠の異邦人である」と、アルベール・カミュは書…

『酸っぱいブドウ/はりねずみ』ザカリーヤー・ターミル|シリアを生き抜く鬼火たち

ファーリス・マウワーズは頭なしで生まれた。彼の母は泣き、医者は恐怖のあまり息を呑んだ。彼の父は恥じ入って壁際に身を寄せ、看護師たちは病院のベランダへと散り散りになった。 だが医師たちの予想に反してファーリスは死なず、長生きした。何も見ず、何…

『セミ』ショーン・タン|セミは悲しきサラリーマン

しごと ない。 家ない。 お金 ない。 トゥク トゥク トゥク! ――ショーン・タン『セミ』 鮮やかだ。あらゆる意味で鮮やかな書物である。 夏だからセミの話をする。主人公はセミだ。大企業でまじめに働いている。だが、報われない。灰色のスーツを着て、灰色…

『洪水の年』マーガレット・アトウッド|暗黒企業、エコカルト、世界の終末

光がなければ、望みはないが、闇がなければ、ダンスはない。 ――マーガレット・アトウッド『洪水の年』 巨大企業、エコカルト、世界の終末 旧約聖書の物語「ノアの洪水」は、世界滅亡の話だ。世界を150日間の洪水が襲って、箱船に乗ったノア夫婦と動物以外は…

『オリクスとクレイク』マーガレット・アトウッド|人類の絶滅を語る、世界最後の男

“エクスティンクタソン(絶滅マラソン)。モニターはマッドアダム。アダムは生ける動物に名前をつけた。マッドアダムは死んだ動物に名前をつける。プレーしますか?” ――マーガレット・アトウッド『オリクスとクレイク』 人類の絶滅神話を語る、世界最後の男 …

『共食いの島』ニコラ・ヴェルト|生産的でない人を共食いさせた国家

いや、ちがう、同志、われわれはうまくやらねばならないとしても、春までには連中全部がくたばるように行動する必要がある。なにか着せるにしても、死ぬ前に少しばかり森の伐採をさせるのに間に合えば十分だ。 ――ニコラ・ヴェルト『共食いの島』 生産的でな…

『私の名前はルーシー・バートン』エリザベス・ストラウト|実家への割り切れない感情

バートン家という5人の家族がーーだいぶ常識はずれの一家だったがーーいわば屋根のような構造物になっていて、そうと気づいたときには終わっていたのではなかったか。 ――エリザベス・ストラウト『私の名前はルーシー・バートン』 実家への割り切れない感情 …

『ピダハン』ダニエル・エヴェレット|神を信じない民と宣教師の30年

伝道師としてピダハンの社会を訪れていた最初のころ、私が村に来た理由を知っているか、ピダハンに尋ねてみたことがある。「おまえがここに来たのは、ここが美しい土地だからだ。水はきれいで、うまいものがある。ピダハンはいい人間だ」 ――ダニエル・エヴェ…

『ピラネージの黒い脳髄』マルグリット・ユルスナール|世界、この開かれた牢獄

「デンマークは牢屋だ」とハムレットがいう。「しからば世界も牢屋ですな」と気の利かぬローゼンクランツが言い返し、黒衣の王子をこの一度だけやりこめる。ピラネージがこの種の概念、囚人たちの宇宙という明確なヴィジョンをもっていたと想定すべきだろう…

第五回 日本翻訳大賞の最終選考5作品を読んだ

第五回 日本翻訳大賞に、ウィリアム・ギャディス『JR』(木原義彦訳)とジョゼ・ルイス・ペイショット『ガルヴェイアスの犬』(木下眞穂訳)が選ばれた。2作品の受賞、おめでとうございます。 JR 作者: ウィリアム・ギャディス,木原善彦 出版社/メーカー: 国…

『奥のほそ道』リチャード・フラナガン| 生きて、死んで、そしてまた

見るのはつらい、だが見ずにいるのはもっとつらい。 ――リチャード・フラナガン『奥のほそ道』 生きて、死んで、そしてまた 突き詰めていけば私の関心ごとは、生と死とそれら不可避の事象をめぐる感情であるように思う。私の心をえぐり爪痕を残していく文学は…

『ガルヴェイアスの犬』ジョゼ・ルイス・ペイショット|宇宙につながる小さな村

誰にだって、運命の場所ってもんがあるのさ。誰の世界にも中心がある。あたしの場所はあんたのよりましだとか、そんなことは関係ないの。自分の場所ってのは、他人のそれと比べるようなものじゃない。自分だけの大事なもんだからね。 ――ジョゼ・ルイス・ペイ…

『JR』ウィリアム・ギャディス|僕はアメリカ!

−−できることでもやったら駄目なんだ…… −−何で? −−向こうにいるのは生きた人間だからだ、それが理由さ! ――ウィリアム・ギャディス『JR』 僕はアメリカ 全940ページに1.2kgというその異形ぶりから、2018年末の読書界隈を震撼させた怪物、ウィリアム・ギャデ…

『蜂工場』イアン・バンクス|荒野と呪術の子供たち

どの人生も象徴をかかえこんでいる。人の行為はどれをとってもひとつの宿命の波紋に属していると、ある程度は言えるだろう。…<蜂工場>はそうした宿命の波紋の一環だ。なぜなら、それは生の一断面であり――むしろそれ以上に――死の一断面だからだ。 ――イアン…

『自転車泥棒』呉明益|誰にも話せなかった傷と痛み

「まあ、ふたりとも、自分の人生のねじをどこかで落としてしまったんだろう。自分のことが、自分でもわからない」 「会話のスイッチが壊れているんだ」 「そう、壊れている」 ――呉明益『自転車泥棒』 話せなかった傷と痛み 痛ましい出来事によってうまれた傷…

ブログの名前を変えた

ブログの名前を「キリキリソテーにうってつけの日」から「ボヘミアの海岸線」に変えた。 キリキリソテーという名前に愛着はあるが、この名前でブログを書いて11年になるし、長いし(Twitterでつぶやくと長いなといつも思う)、そろそろ変えてみてもよいかな…

『死体展覧会』ハサン・ブラーシム|ナイフと脳髄が飛んでゆく

「君は震えているな」 ――ハサン・ブラーシム『死体展覧会』 暴力と殺戮と幻視 イラク生まれの作家ハサン・ブラーシムは、混濁したイラクの日常を煮詰めて、澄み切った暴力の結晶として描く。暴力の結晶たちが赤黒い光を放って乱反射して、血と脳髄とナイフが…

『ジーザス・サン』デニス・ジョンソン|麻薬中毒者は祈る

何をしたらいいのか、こいつにはどうやってわかるのか? 俺の目の端に映る美しい女たちは、俺がまっすぐ見ると消えた。外は冬。午後には夜になる。暗い、暗いハッピーアワー。俺にはルールがわからなかった。何をしたらいいのか、俺にはわからなかった。 ――…

『こびとが打ち上げた小さなボール』チョ・セヒ|人間扱いされない世界

天国に住んでいる人は地獄のことを考える必要がない。けれども僕ら五人は地獄に住んでいたから、天国について考え続けた。ただの一日も考えなかったことはない。毎日の暮らしが耐えがたいものだったからだ。 ――チョ・セヒ『こびとが打ち上げた小さなボール』…

『野蛮なアリスさん』ファン・ジョンウン|最低な世界は最低だ

まだ落ちてて、今も落ちてるのだ。すごく暗くて長い穴の中を落ちながら、アリス少年が思うんだ、ぼくずいぶん前にうさぎ一匹追っかけて穴に落ちたんだけど……そんなに落ちても底に着かないな……ぼく、ただ落ちている…落ちて、落ちて、落ちて……ずっと、ずっと………

『菜食主義者』ハン・ガン|境界の向こうに行った人

ふとこの世で生きたことがない、という気がして、彼女は面食らった。事実だった。彼女は生きたことがなかった。記憶できる幼い頃から、ただ耐えてきただけだった。 ――ハン・ガン『菜食主義者』 境界の向こうに行った人 人間という業の深い生物にうまれ、不幸…

『すべての、白いものたちの』ハン・ガン|白をたぐりよせて葦原へ

顔に、体に、激しく打ち付ける雪に逆らって彼女は歩きつづけた。わからなかった、いったい何なのだろう、この冷たく、私にまっこうから向かってくるものは? それでいながら弱々しく消え去ってゆく、そして圧倒的に美しいこれは? ――ハン・ガン『すべての、…

『はるかな星』ロベルト・ボラーニョ|彼は怪物の詩人

誰にも見られずに落ちていく星はあるのだろうか。 ――ロベルト・ボラーニョ『はるかな星』 怪物の詩人 「誰にも見られずに落ちていく星はあるのだろうか」。フォークナーの詩から始まる『はるかな星』は、チリの詩人たちにまつわる物語だ。チリは「石をどけれ…

『ピノチェト将軍の信じがたく終わりなき裁判』アリエル・ドルフマン|チリに満ちる悪の惨禍

チリの誰もが気づいていた。本当に何が起きているのかを知っていた。近くの地下室で遠い砂漠で、果てしなく起きていることを知っていた。果てしなく起きる。これが抑圧の病的ロジックである。止むことなく続くというのがテロルの定義なのだ。 −−アリエル・ド…

『チリ夜想曲』ロベルト・ボラーニョ|悪は沈黙する

チリよ、チリ。いったいどうしてお前はそんなに変わることができたのだ?…お前はいったい何をされたのだ? チリ人は狂ってしまったのか? 誰が悪いのだ? ――ロベルト・ボラーニョ『チリ夜想曲』 沈黙、語りたくなかったもの ボラーニョの小説はドーナツの穴…

『凍』トーマス・ベルンハルト|人間の形をした液体窒素

きみは恐れているのか。違うって。どっちなんだ。人類をか。観念をか。 ――トーマス・ベルンハルト『凍』 人間の形をした液体窒素 『消去』を読んで以来、トーマス・ベルンハルトには、遠い異国に住んでいる親族に寄せるような、淡い親近感を抱いてきた。 世…

『火を熾す』ジャック・ロンドン|命の炎が燃え上がる

犬の姿を見て、途方もない考えが浮かんだ。吹雪に閉じ込められた男が、仔牛を殺して死体のなかにもぐり込んで助かったという話を男は覚えていた。自分も犬を殺して、麻痺がひくまでその暖かい体に両手をうずめていればいい。そうすればまた火が熾せる。 ――ジ…