『ドイツ亭』アネッテ・ヘス|ホロコーストの風化を阻止した歴史的裁判
かつて、ドイツ国民の多くがホロコーストや絶滅収容所を知らず、過去を見ないようにしようとする時代があった。
現代ドイツでは、国民は皆、ナチとホロコーストの歴史を学び、ホロコースト否定やナチ礼賛は犯罪と見なされる。
この姿勢から、ドイツは過去と向き合う国家だ、との印象があるが、こうなるまでのドイツは戦後20年近く、うやむやのままに過去を水に流そうとしていた。
『ドイツ亭』は、ドイツ国民にホロコーストと絶滅収容所を知らしめた歴史的な裁判、1960年代の「アウシュビッツ裁判」を描く。
なにが歴史的なのかといえば、ドイツ人がみずからの手でナチ犯罪を裁いた最初の裁判で、ドイツの歴史観や司法に決定的な影響を与えた裁判だからだ。この裁判なくして現代ドイツはありえない、といっても過言ではない。
舞台は、第二次世界大戦から20年近くが経った、1960年代ドイツ。
町の小さな食堂の娘エーファが、偶然のなりゆきで、アウシュビッツ裁判におけるドイツ語=ポーランド語の通訳を頼まれる。ホロコーストも虐殺も知らず、興味といえば恋人と結婚のことだけだった彼女は、アウシュビッツ生存者の証言に激しい衝撃を受け、虐殺と歴史についてもっと知ろうとする。
エーファがホロコーストに関心を高める一方、両親や恋人をはじめとした周囲の人々は、裁判に関わる仕事に反対する。家族や恋人との関係が不穏になっていく中、裁判によって次々と埋葬されていた事実が明るみに出てくる。
ゼーバルトが『空襲と文学』で「ドイツの集団的記憶喪失」と呼んだ、過去を見ないようにしようとする空気が、本書には満ちている。
戦後復興のために生きよう、過去を掘り起こすなんて無粋はやめよう――。一見すると前向きな言葉の裏には、都合の悪い過去を忘れて埋葬しようとする、後ろめたさが隠れている。
特に、エーファが裁判の通訳を受けてからの周囲の変化は、うすら恐ろしい。なぜか皆、過去を知ろうとするのをとめようとするが、その理由は名言されない。
読者はもう、その理由を知っている。多くの一般ドイツ人が、ナチ犯罪に加担するか黙認していた歴史を知っている。だがその事実を知っていてもなお、この不穏さは薄気味悪いものがある。
過去を隠したがるドイツ市民の行動は、過去を知ろうとするエーファと対照的だ。彼らの迷いと沈黙は、人間らしい弱さゆえだと思う。
熱狂に浮かされてナチを礼賛した人はいただろうし、ナチの犯罪を知っていたとしても、家族や命など大事なもののために流された人もいただろう。ナチとユダヤ人差別に加担した一般市民があまりにも多かったから、「お互いに見逃そう」という空気がうまれた。
だからこそ、この空気を切り裂いた、アウシュビッツ裁判は歴史的だったと思う。国をあげての集団的記憶喪失、歴史の強風に抗おうとする司法の執念は、すさまじいものだったとわかる。
テーマと著者の意思がはっきりしているゆえか、ややご都合主義のプロット展開ではあるものの、実際の裁判記録をもとにした裁判シーンや、ドイツ市民の揺れ動きは力強い。描きたいテーマをきっちり描いた、一点突破の小説だと思う。
時が経つほど、過去を知らない人が増え、歴史修正主義がはびこる。世の中には、繰り返し、伝え続けていかなければならないことがある。
アウシュビッツ裁判を描いた作品
『ドイツ亭』と同じくアウシュビッツ裁判を描いた映画。『ドイツ亭』の主人公が市井の人だったのにたいして、映画は検察官が主人公のため、違った雰囲気がある。フリッツ・バウアーはアウシュビッツ裁判を起こした人物で、裁判に至るまでの追い詰め方と執念がすさまじい。
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