ボヘミアの海岸線

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『アメリカ大陸のナチ文学』ロベルト・ボラーニョ|継承されたナチズム


その教訓は明白だ。民主主義の息の根を止めなければならない。なぜナチはあれほど長生きなのか。たとえばヘスだが、自殺しなければ、百歳まで生きただろう。何が彼らをあれほど生きながらえさせるのか。何が彼らを不死に近い存在にしてしまうのか。流された血? 聖書の飛行? 跳躍した意識?

ーーロベルト・ボラーニョ『アメリカ大陸のナチ文学』

繼承されたナチズム

ギリシャのアテネに滞在中、厳戒態勢に遭遇したことがある。町の中央にあるシンタグマ広場に向かおうとしたが何度試しても鉄道が駅を通過してしまう。駅員に理由を尋ねても「Go home. Go home」と地球外生命体のように繰り返すばかりなのでTwitterで検索してみたところ、極右政党「黄金の夜明け」の信望者が対立者と衝突を起こし、爆発事件を起こし、広場が路上も地下鉄も完全封鎖されていることを知った。

「黄金の夜明け」はネオナチ政党とも呼ばれ、強烈なナショナリズムと排他主義を掲げ、経済状態が極めて厳しいギリシャで議席を伸ばしている。

21世紀になっても、ナチ思想は生き延びている。ギリシャでも、アメリカ大陸でも。


アメリカ大陸のナチ文学 (ボラーニョ・コレクション)

アメリカ大陸のナチ文学 (ボラーニョ・コレクション)

 


  『アメリカ大陸のナチ文学』は、アメリカ大陸(多くは南米だ)に生まれ暮らした架空のナチ文学者たち30人を紹介する、辞典小説である。

南米は、戦後にナチ残党が多く逃れた「ナチスの避難先」だった。絶滅作戦を指揮したアドルフ・アイヒマンがアルゼンチンに潜伏し、チリには元ナチス党員とたちが住んでいたコミューン「コロニア・ディグニダ」があり、ピノチェト政権時には拷問施設として使われていた。去年にも、ナチの隠れ家が遺跡の中に見つかっている。

ナチはヨーロッパからやってきた。しかし、中からも生まれている。ボラーニョが書くのはこの「南米に生まれ育ったナチ文学者」である。

赤ん坊の頃にヒトラーに抱かれた写真を生涯の誇りとして語る文学者、小説の各章の冒頭文字が「アドルフ・ヒトラー万歳」となるように仕組んだ作家、理想の強制収容所を描く作家など「私はナチ思想に傾倒している」とはっきり示す作家たちもいれば、表立って言いはしないものの、ひっそりと排他主義やユダヤ人蔑視の雑誌に寄稿していたり、新ナチ政権や政治家と交流の深い作家もいる。


ある採掘業者チームの協力を得て、彼はアタカマ砂漠に理想の強制収容所の見取り図を描く。ーー「ウィリー・シュルホルツ」


『日記』のなかで、彼はすべての罪をユダヤ人と高利貸しに負わせている。ーー「グスタボ・ボルダ」

彼らナチ文学者の生涯を、ボラーニョは淡々と辞典らしい文章で記述していく。

だからこそ、ボラーニョがアメリカ大陸のナチ文学者のことをどう思っているのかが、29人目まではわからなかった。それが最後のひとり、大詩人にして大量殺人者「忌まわしきラミレス=ホフマン」でひっくり返される。ここで作者は一人称で登場し、ラミレス=ホフマンと実際に相対している。

この「忌まわしきラミレス=ホフマン」の章は抜群におもしろい。彼は飛行雲で詩を書く詩人であり、写真家でもある。ボラーニョは彼と知り合い、空中の詩を見て感銘を受け、作品をよく理解し、彼を殺人者として追う者たちを手助けしつつも、彼を嫌悪したり排除したりする様子はない。


 近寄りがたい男に見えると僕は思った。そんなふうになれるのはわずかなラテンアメリカ人だけーーそれも四十過ぎの人間だけーーだ。ヨーロッパ人やアメリカ人の近寄りがたさとはずいぶん違う。悲しげで手の施しようがない近寄りがたさだった。だがラミレス=ホフマンが哀しそうなのではなく、まさに果てしない哀しみがそこに住み着いているのだった。

 詩人として魅力的だが大量殺人者であるーーこの事実は、ひどく微妙で都合の悪い感情をあぶり出す。

ナチを支持していた市井の人々やアメリカ大陸のナチ文学者は、極悪非道の残虐な人間なわけではない。家族を大事にするし、話していて楽しいし、人物や作品に魅力がある。だが、ナチス思想に染まっている。そういう人たちをどう評価すればいいのか? どう付き合えばいいのか?

最後の章を「モンスターたちのためのエピローグ」と名づけたように、ボラーニョは彼らのことをモンスターと呼んでいる。しかし、このモンスターたちは人に影響を与える魅力がある。だから彼らの信者はいつまでも、地域、人種、時代を越えて生まれ続ける。これほどまでに「ナチスは悪だ」という「正しい」見解が叫ばれていても、「悪」には人を惹きつける魅力と社会的な力がある。この都合の悪い事実を、ボラーニョはあぶり出したかったのではないだろうか。

下記の文章は、いかにも示唆的だ。ボラーニョは「社会的上昇には暴力か文学しかなく、そのどちらも暴力である」と言い切っている。


首都の上流階級のパーティーや夜会を渡り歩いてはその眩さに幻惑される。最初の瞬間から、彼がその世界に属したいと願ったことは間違いない。そして直ちに、そのためには二つの方法しかないことを悟った。ひとつは 暴力を公然と振るうこと……もうひとつは文学を通じて実現すること、というのも文学は一種の秘められた暴力で、社会的尊厳を与えてくれるし、いくつかの多く多感な国々では、社会的上昇を装う手段のひとつなのだ。

ーー「マックス・ミルバレー、またの名を……」

 

「なぜナチはあれほど長生きなのか」「何が彼らを不死に近い存在にしてしまうのか」とボラーニョは本書の中で語っている。これはおそらく21世紀を生きる人たちが持つ疑問だろう。

おそらく20世紀の頃はもっとみんな楽観的だった。ナチスは人類が起こした凶悪な熱病であり、瞬間風速的なもので、自分たちとはまったく違う人外の悪魔なのだと、自分たちから切り離そうとした。

しかし、ナチスは死ななかった。そして今も生きている。インターネットを見ればネオナチの活動はあふれているし、政党としての支持も伸ばし、2016年には人工知能が「ナチスはまちがっていない」と学習させられて実験停止になった。

 

20世紀はナチスを消滅させられず、21世紀に持ち越した。これからもナチスに象徴される悪、圧倒的暴力というモンスターは死なず、受け継がれていくだろう。なぜなら暴力は力であり、力は人の心を引きつけるからだ。

このようなひどく都合が悪くうすら寒い事実を『アメリカ大陸のナチ文学』は暴き出しているように思える。多くの人は「私は彼らとは違う」と切り離そうとするが、大きな波がくれば悪に飲まれる。21世紀になっても暴力と排他への要求は高まるばかりだ。

「ナチ文学」は過去の話ではない。地球の裏側の話でもない。今の話である。ボラーニョがうみだした架空の文学者たちの何人かは21世紀まで生きていることが、21世紀に持ち越されたナチス思想を象徴している。

悪はひたひたと人の心に入りこんで増殖していく。背景を読めば読むほど恐ろしい話だった。


夜が入り、夜が出て行く、素早く仕事を終えて。

 

 ロベルト・ボラーニョ作品の感想

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 Roberto Bolaño"Nazi Literature in the Americas", 1996.