ボヘミアの海岸線

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『夜』エリ・ヴィーゼル|日常の底が抜ける時

「黄色い星ですって。なんですか、そんなもの。それで死んだりはしませんよ……」

ーーエリ・ヴィーゼル『夜』

 

歴史を振り返るにつけ、生活が根こそぎ変わってしまう激震は、巨大な隕石が落ちるようにまったく突然にやってくるものと、水温が上がるようにじわじわと小さな変化が積み重なるものがある。

どちらも恐ろしいが、前者は恐怖が初期にその姿を現すのにたいして、後者は後から振り返ってはじめてそれが恐怖だったと気づく点において、より恐ろしい。

強烈な変化は反発や反応が起きやすいが、ゆるりとした変化は「これぐらいたいしたことない」「生活に直結するわけではない」と見逃し続けて、ある時ふと底が抜けて、自分が穴に落ちていることに気づく。 

夜 [新版]

夜 [新版]

 

 

著者エリ・ヴィーゼルは、トランシルヴァニア地方(当時ハンガリー領、現在ルーマニア)の村シゲットに住むユダヤ人で、15歳の時に家族とともにアウシュビッツ収容所へ収容された。

本書はおもに「収容所以前」「収容所」の2つにわかれている。「収容所」パートはこれまで多くの人が証言してきたとおりの過酷極まるおぞましいものだが、「収容所以前」は平穏な日常がどんどん掘り崩されていくという、別の恐ろしさがある。

とくに恐ろしいのが、「どうにかなるだろう」「大丈夫だろう」と考える正常性バイアスだ。

当時、著者が住んでいたトランシルヴァニアは山脈に囲まれた場所で、ドイツからはほど遠い場所にあった。ユダヤ人たちの多くが戦争を「遠い場所での出来事」「自分には関係がないこと」と思っていた。

だからユダヤ人たちは、運命を警告する「堂守りのモシェ」の言葉をカサンドラのように無視した。ドイツ軍がこんなところまできてどうする、意味がない、どうにかなる、うまくいく、奇跡が起きる……。

 「ぼくたちの番はいつからしら」と、私は父に尋ねた。

「あさってだよ。ただし……ただし、もしや、ものごとが具合よく行くとすると……。もしかすると奇跡が……」

「黄色い星ですって。なんですか、そんなもの。それで死んだりはしませんよ……」

 

その後は、歴史に残るとおりのことが起きる。おぞましく、非人間的で、心と身体と人生を徹底的に踏み潰して破壊し、心から信じていた神すら絞首台に吊るすほどの、すさまじい「夜」がやってくる。

今日、私はもう嘆願してはいなかった。私はもう呻くことができなかった。それどころか、私は自分がとても強くなったように感じていた。私は原告であった。そして被告はーー<神>。私の目はすでに見ひらかれており、そして私はひとりきりであった。<神>もなく、また人々もなく、世界にあって恐ろしいまでにひとりきりであった。愛もなく、憐れみもなかった。私はもはや灰燼以外のなにものでもなかった。しかし、私の人生はそれまでじつに長きにわたって<全能者>に縛りつけられてきたのに、いまや私は<全能者>よりも自分のほうが強いと感じていた。

過酷な状況において、ユダヤ人たちの信仰は揺らいでいく。

それはそうだろう。ユダヤ人を救済してくれるはずの神が、これほどの悪をなぜ見過ごすのか。これは重大な疑問である。収容所を神の試練と受けとめる人もいれば、神がともに苦しんでいると信じる人、神に抗議する人、信仰を捨てる人もいた。

エリエゼル(神は助けである)という名を持つ著者の態度は、『ヨブ記』のヨブに近い。神への抗議は、神を認めて声が届くことを望んでいる点で、神への信仰、神への祈りである。

神への信仰だけではない。家族への愛情すら揺らぐ。最もつらかったのは、著者の父親にたいする感情の記録だ。父は老いていて、体力がなく、収容所では「お荷物」になりかけていた。絶対に父を見捨てないという強い思いと、「生き延びたい」という欲望が相反した時、著者はみずからの中におぞましい怪物を見出す。

 

収容所がなければ、こんなおぞましい自分に対峙することなどないまま、一生を終えられただろう。しかし収容所は、人間を極限状態に追いこんで、神への信仰や家族への愛情といった、愛の根源すら根こそぎにする。そして「自分を救うか、愛する者を救うか」と、おぞましい選択肢を突きつけてくる。

誰も、「命の選択」というおぞましい選択肢の前に立たされたり、生活を根こそぎにされることなどあってはならない。一方で、こういう状況は、過去に数えきれないほどあったし、すでに起こっているし、これからも起こりうる。私がいまその岐路に立たされていないのは、ただ運がいいからにすぎない。

 「いったい<神>はどこにおられるのだ」

そして私は、私の心のなかで、誰かの声がその男に答えているのを感じた。

「どこだって? ここにおられるーーここに、この絞首台に吊るされておられる……」

 

ところで私はこの感想を、2月初旬に書いていた。4月になったいま読み返してみると、冒頭の「突然にやってくる変化」と「じわじわとやってくる変化」は二項対立ではないと気づく。

突然にやってくる変化が衝撃と不安をもたらしたあと、じわじわとやってくる変化が水面下を動き回る。いわゆる「ショック・ドクトリン」(ショック時の不安に乗じて構造を変えること)が起きる。大きなショックがある時は、突然にやってきた恐怖だけではなく、背後でうごめいている小さな変化があることを、忘れないでいようと思った。

 

Memo:エリ・ヴィーゼルのパレスチナへの態度

本文は『夜』についてのみ書いたが、本書については「その後」についても書いておかなければならないと思う。エリ・ヴィーゼルは、イスラエルによるパレスチナの虐殺を正当化していた。このことは、日本では『ガザに地下鉄が走る日』の岡真理氏が指摘し、批判している。なぜ虐殺を経験したユダヤ人が、自身が虐殺を行うことを是とするのか。それは「もう二度と誰も虐殺にあってはならない」が「もう二度とユダヤ人がこのような虐殺にあってはならない」にすりかえられるからだという。

そんなわけで、エリ・ヴィーゼルは死後、批判が強まっている。このことを知ってから本書を読むと、なぜ著者の痛みが、パレスチナに至らなかったのか、別の意味でつらく悲しくなる。

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ガザに地下鉄が走る日

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  • 発売日: 2018/11/17
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