ボヘミアの海岸線

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『ニッケル・ボーイズ』コルソン・ホワイトヘッド|どこまでも追ってくる、悪霊としての暴力

僕がされた仕打ちを見てくれよ。どんな目に遭ったのか見てくれよ。

――コルソン・ホワイトヘッド『ニッケル・ボーイズ』

 

運悪く、暴力や差別がはびこる劣悪な環境に生きることになってしまったら、とる手段は限られている。戦うか、逃げるか、屈服するか。

コルソン・ホワイトヘッドの小説では、暴力と差別に苦しむ黒人の少年少女たちは、つねに「屈服」以外の選択肢を選ぶ。

 

舞台は1960年代フロリダ州キング牧師による公民権運動が巻き起こった時代である。

黒人の地位向上と大学進学を目指す黒人少年エルウッドが、無実の罪で少年矯正院ニッケル校に送られる。

「少年を教育して社会復帰させる」とのうたい文句は名ばかりで、ニッケル校は苛烈な暴力と虐待がふきすさぶ無法地帯だった。鞭打ち、強制労働、性的虐待だけでなく、学校側による殺人と隠ぺいも横行していた。

このおぞましい閉鎖世界で、エルウッドとターナーふたりの少年は友情を育み、ニッケルの暴力にさらされながらサバイブしようとする。

 

 

『ニッケル・ボーイズ』は『地下鉄道』と同じく、黒人への暴力を容認する構造、暴力に屈せず生き延びようとする黒人の若者たちを描く。

筆者の暴力描写は苛烈で、頭を鈍器で殴られたような気分になる。学校関係者は、加害意識や罪悪感を持たず、日常の営みとして暴力をふるう。そして、学校経営陣は暴力行為を容認してそのままにしておく。

この残虐は、構造的な問題だ。構造的な暴力は、個人の暴力よりも恐ろしい。個人による暴力なら組織に訴える方法があるものの、組織ぐるみなら選択肢は限られる。戦うか、逃げるか、つぶされるかしかない。ニッケル・ボーイズたちは、暴力につぶされることを拒み、戦おうとする。

一瞬の、蝶のようにひらりと消えていくものではあっても、脱走するという思いを禁じるのは、自分の人間性を殺すことに等しい。

 

『地下鉄道』も『ニッケル・ボーイズ』も、暴力構造への屈服を拒否する若者たちが戦う点は同じだが、本書は暴力が残す「禍根」に、より深く焦点をあてている。

ニッケル校がすでに閉鎖していることが冒頭で語られるものの、ニッケルは遠い過去ではなく、今なおつきまとう悪霊のようなものとして描かれる。

語り手は語る。「一般的な道筋をまとめるならば、ニッケル・ボーイズは学校にくる前も、学校にいるあいだも、学校を出たあとも、だめになってしまうのだ」と。

暴力とは、そういうものだと思う。加害者はあっさり忘れて過去のことにしがちだが、被害者は忘れず、傷を抱いたままずっと苦しみ続ける。苦しみは、死ぬ瞬間にまで迫ってくる、という言葉が重い。

昔の部屋のどれかで寂しく死ぬ、その間際に頭をよぎることはーーニッケル。最期の瞬間、脳が破裂するか心臓が潰れるときまで、ニッケルが追ってくる。さらに、その先までも。ひょっとすると、ニッケルとは彼を待ち構えている来世そのものなのかもしれない。丘を下ったところにホワイトハウスがあり、終わりのないオートミールの食事と、壊れてしまった少年たちの果てしない友情がある。

 

読みながら、暴力との戦い方について考えていた。正義感あふれる若者エルウッドは「まちがいを伝えれば物事はよくなる」という正統派の行動でもって戦おうとするが、純粋暴力の前で理想はあえなく打ち砕かれる。この容赦ない現実が、キング牧師の「非暴力の抵抗」「暴力を振るう者を愛する」思想をからめて語られる。

 耐え忍ぶという能力。エルウッドも、ニッケル・ボーイズすべても、その能力において存在していた。その中で生きをし、食べ、夢を見ていた。それが自分たちの人生だ。でなければ、もう死んでいるだろう。鞭打たれ、レイプされ、情け容赦なく自分をふるいにかける。彼らは耐えている。だが、機会があれば自分たちを破壊してくるような人々を愛するとなると、話は別だ。そこまでの飛躍ができるのか。

人間扱いしてこない理不尽な暴力にたいして、どこまで人間的に対抗できるか、人道的な行動が相手に届くかは、私はわからない。非暴力デモを弾圧する権力者のニュースを日々見ている現代では、なおさらのことだ。

戦わなければならないのは、まちがいない。しかし、どういう戦い方がいいのかわからない。どちらにせよ、エルウッドとターナーは自分たちで考えて答えを出した。

 

「構造としての暴力」「暴力に屈さずに戦い逃げる黒人の若者」というテーマは『地下鉄道』と似ているものの、『ニッケル・ボーイズ』の読後感や切り口はかなり違っていた。

『地下鉄道』はシンプルな逃亡劇で、少女コーラの強い意思ゆえに、ある種の爽快さがあったが、『ニッケル・ボーイズ』は暴力から逃れきれないつらさを描いているためか、より複雑で苦い後味が残る。

「暴力から逃げればおしまい」ではないこと、構造的な暴力がいかに人間を根幹から破壊するかを、本書は描こうとしていると感じた。そういう意味で本書は、『地下鉄道』の続編、自己批評を含んだセルフ・アンサー、同じテーマの変奏曲なのだと思う。

 

ホワイトヘッドの小説では、逃げることと戦うことは不可分に結びついている。『地下鉄道』で奴隷の少女が逃げてきた道を、ニッケル・ボーイズたちも走っていて、その道は現代まで続いている。

  どうやって学校から出たとしても、彼らはつねに逃亡中なのだ。

 

ニッケル・ボーイズ

ニッケル・ボーイズ

 

 

コルソン・ホワイトヘッド作品の感想


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黒人が直面する暴力を描いた21世紀の小説。暴力構造にたいしてホワイトヘッドが「逃げる」選択肢をつねに提示するのにたいして、アジェイ=ブレニヤーの小説では「暴力には暴力を」として、抵抗としての暴力が描かれている。同じ黒人差別問題に対する戦いかたでも違っているところがおもしろい。

 

 キング牧師の演説が『ニッケル・ボーイズ』では何回も登場する。有名な「非暴力」の演説について、ホワイトヘッドの描き方は辛辣だ。非暴力の抵抗は、どこまで純粋暴力に通用するのだろうか?