ボヘミアの海岸線 - 海外文学の感想

海外文学/世界文学/ガイブンの書評と感想ブログ。昔の名は「キリキリソテーにうってつけの日」

『地下鉄道』コルソン・ホワイトヘッド|自分をすりつぶす場所から逃げよ

 こんなにも家から離れたことはかつてなかったことだった。この瞬間に鎖に繋がれ連れ戻されたとしても、歩んできたこの数マイルは自分のものだ。

――コルソン・ホワイトヘッド『地下鉄道』

 

逃げることについて、私はわりと前向きな気持ちを抱いている種類の人間だ。家庭でも学校でも会社でも国でも、つらい場所に無理をして留まるより、息がしやすい場所へ行ったほうがいいと思っている。

逃げることをネガティブにとらえる人は、逃げたら負けだ、逃げたって変わらない、逃げた先でどうなるかわからないからリスクがある、と言うけれど、未来の不確定さやリスクよりも、つらい現状が予想どおり続いて変わらないことのほうが耐えがたい。

だから、逃げる人の話、特に前向きに逃げる人の話には惹かれ続けてきた。

地下鉄道

地下鉄道

 

 

時代は南北戦争以前、アメリカの深南部でうまれ育った少女奴隷コーラが、自由州の北部へ逃亡しようとする。

当時、黒人奴隷は白人のために生きる「財産であり、呼吸する資本金であり、肉体からなる利潤」で、奴隷の逃亡とその手助けは、財産の盗難であり犯罪だった。

しかもコーラは、最も過酷な州のひとつと言われるジョージア州でうまれ育った。深南部は奴隷を酷使をする文化土壌で、物理的にも北部から遠かった。なお悪いことに、コーラが働く農園の主人は残虐で、逃亡奴隷を八つ裂きにして見せしめにすることを楽しむ狂気の男だった。

この絶望的な環境では、奴隷が逃亡できる見込みはほとんどない。たとえ逃げられたとしても、奴隷狩り人があちこちに跋扈していて、見つかれば八つ裂きによる死が待っている。

「そういうふうに生まれついたの? 奴隷みたいに?」

だが、逃亡奴隷を支援する秘密組織「地下鉄道」が彼女のもとに現れる。「逃げ切ったただひとりの奴隷」を母に持つ少女コーラは、地下鉄道の助けを借りて、逃亡を決意する。

 

そして逃亡奴隷をめぐり、奴隷を逃亡させようとする「北部」と、奴隷を逃がすまいとする「南部」が激突する。

本書は、地下鉄道を追うことで、地下鉄道が貫く「アメリカ」そのものを描いている。

登場人物たちが北部へ突き進む姿は、アメリカの伝統芸能「ロード・ノベル」を踏襲している。逃亡によって登場人物たちは、法律や文化ががらりと変わる「州」、黒人の人権が正反対の「北部」「南部」をまたいで、「異なる国の集合体」であるアメリカを知ることになる。

「この国がどんなものか知りたいなら、わたしはつねにいうさ、鉄道に乗らなければならないと。列車が走るあいだ外を見ておくがいい。アメリカの真の顔がわかるだろう」 

読者は、地下鉄道のルートと逃亡者と追跡者を追うことで、アメリカめぐりをする。

もっとも、アメリカめぐりというよりは地獄めぐりに近い。逃亡の旅は流血と死にまみれ、たくさんの人が死んでいく。

こんな残酷な世界が、移動するだけで自分の生きる権利が激変してしまう世界がかつてあったのだ。

 

著者は歴史の事実をもとに想像力を駆使して、背景を書きこんでいる。また、登場人物たちもよい。コーラはじつに強い少女で、自分が人間であると確信している。その誇り高さと怒りが、彼女の壮絶な逃亡を支えている。きっとこれくらい自我が強くなければ、こんな逃亡はできない。彼女の独白や後悔はどれも切実で痛ましくて胸に迫り、中でも「心のノート」に名前を書き足していくシーンが好きだった。

 こんなにも家から離れたことはかつてなかったことだった。この瞬間に鎖に繋がれ連れ戻されたとしても、歩んできたこの数マイルは自分のものだ。  

たったひとりの反乱。コーラはしばし笑みを浮かべた。それから、独房にいるという事実がまたよみがえった。壁の隙間で鼠のようにもがきながら。畑にいようと地下にいようと、屋根裏部屋にいようと、アメリカは変わらず彼女の看守だった。

敵役としての奴隷狩り人リッジウェイは、『ブラッド・メリディアン』の判事(アメリカ文学で最もやばい男のひとり)を彷彿とさせる男で、奴隷を狩る自分を誇っている。

そしてもうひとり、ただひとり逃げ切った伝説を持つコーラの母がいる。彼女は不在でありながら、コーラとリッジウェイそれぞれに激しい感情を引き起こさせるトリガーだ。彼女の物語は短いが強烈で、読み終わったときは思わずうめいた。

 

逃げるとは、「現状維持による諦めと安心」と「未知に飛び込む希望と不安」との間で揺れて、後者を選ぶことだ。

たいていの人は、安心をとって現状維持を選ぶ。だが、現状維持の引力を振り切って、不安定な道を走る逃亡者たちがいる。彼ら逃亡者たちが、陰惨な時代を切り開く弾丸となり、その軌跡が残りの人たちを運ぶ道になる。私たちの歴史はそうやってつくられてきた。

彼らはもちろん傷つくし後悔するし迷うが、自分をすりつぶすことを良しとせず、振り切って逃げる。誇り高い逃亡者の、強い物語だった。

「おれの主人は言った。銃を持った黒んぼより危険なのは、本を読む黒んぼだと。そいつは積もり積もって黒い火薬になるんだ!」

 

Recommend:南部の物語、逃げる物語

史実の「地下鉄道」で大活躍した伝説的な逃亡奴隷の伝記。コーラもなかなか強い少女だが、ハリエットは物理的な強さ&キャラの強さでさらにその上をいく。虫歯が痛すぎるので自分でたたき折るエピソードには仰天した。

 

ガリバー旅行記 (角川文庫)

ガリバー旅行記 (角川文庫)

 

 『地下鉄道』で、文字を読める黒人奴隷の少年が読んでいた。ガリバーの旅行が、逃亡奴隷の旅行(旅行といえるほど優雅なものではまったくないが)と重なっている。この角川版は訳が2011年と新しいので、新潮版(1951年訳)よりもだいぶ読みやすくなっている。

 

南北戦争よりずっと昔のアメリカでの残虐。入植した白人がインディアンを狩りまくる。奴隷狩り人リッジウェイを1000倍禍々しくした狂気の「判事」に震撼せよ。

 

南部といえば、フォークナーのヨクナパトーファ・サーガである。どちらも胃痛が爆発する系の沈鬱な南部だが、この血が燃える世界には驚愕するばかりだ。南部、南部、なんという土地なのか!

  

塩を食う女たち――聞書・北米の黒人女性 (岩波現代文庫)

塩を食う女たち――聞書・北米の黒人女性 (岩波現代文庫)

 

コーラたち黒人奴隷の末裔である黒人女性が、どのようにして狂って残酷なアメリカを生き延びたのか。20世紀後半になっても彼女たちはずっと苦しい人生を強いられてきたことがわかる。

 

クローディアの秘密 (岩波少年文庫 (050))

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 退屈な日常から逃れて美術館に住み着いた悪ガキたちの逃亡物語。彼らのかっこいい逃亡が、私の逃亡の源泉となっている。いつだってこんなふうに、笑いながら逃亡したい。