『ハリエット・タブマン』上杉忍|モーゼと呼ばれた伝説の逃亡奴隷
逃亡者は先のことを何も知らずに自らを投げ出さねばならない。北斗七星と北極星のみを頼りにただひたすら先に進んだ。星が見えないときは、樹木の幹のこけの生えている側から北の方向を知って進んだ。彼女は、州というものがあること自体を知らなかった。
――上杉忍『ハリエット・タブマン』
「アメリカ人は、彼女を知ってはじめて奴隷制を理解する」――そんな賛辞を受けるアフリカ系アメリカ人女性がいる。
彼女の名前はハリエット・タブマン。逃亡した逃亡奴隷、何人もの奴隷を逃亡させた地下組織「地下鉄道」の担い手、奴隷解放運動家、黒人コミュニティの支援家だった。同胞を次々と逃亡させるその手腕は伝説となり、「黒人のモーゼ」と呼ばれていた。
コルソン・ホワイトヘッド『地下鉄道』を読んでから、秘密組織「地下鉄道」のことを知りたいと思い、ハリエット・タブマンにたどりついた。
北南部と新南部
ハリエット・タブマンは1820〜21年ごろ、メリーランド州にうまれた。
南部といえば、フォークナーのヨクナパトーファ、ホワイトヘッド『地下鉄道』のような、過酷で残虐な南部を思い浮かべがちだが、同じ南部でも場所によって事情は違っている。
ヨクナパトーファ(ミシシッピ州)や『地下鉄道』(ジョージア州)で描かれる南部は「深南部」である。綿花プランテーションが主産業で、奴隷を働かせれば働かせるほど儲かった。
一方、タブマンが住んでいたメリーランド州は、南部の最北端に位置する「北南部」だった。北南部はタバコのプランテーションが主産業だったものの、過剰供給によりタバコ産業が衰退し、結果として「奴隷あまり」状態だった。
逃亡する奴隷たち
労働力があまりがちになった北南部では、「深南部への売却」「奴隷の貸し借り」「奴隷の解放」が進んだ。
「深南部への売却」は家族の分断を意味したため、黒人奴隷は売却をいやがって(当然だ)逃亡する動機が強まる。奴隷の貸し借りによって行動の自由度が与えられるため、逃亡のチャンスが増える。そして、解放された自由黒人は奴隷の逃亡を支援する。
こうして北南部では、奴隷が逃亡する「動機」「機会」「ネットワーク」が拡大していった。
これら「黒人奴隷の逃亡」と「自由黒人の増加」は、白人に危機感を抱かせた。黒人の数が増えれば、いつ形勢が逆転されて自分たちの地位が脅かされるかわからない。白人は暴力と法律によって、己の恐怖を押さえつけようとした。
タブマンが逃亡したのは、黒人の自由度が増して白人の締めつけが厳しくなる前で、ちょうど逃亡しやすい時だった。
逃げることは今でもそれなりのコストをともなうが、19世紀の奴隷が逃亡するのはは、想像を絶する難易度だったことだろう。地図もない、磁石もない、金もない、文字も読めない、裏切り者にいつあたるかもわからない状況で、何百キロも逃亡できるだろうか。「見つかったら殺される」と不安になって動けなくなったり、「奴隷で現状維持したほうが楽かもしれない」と期待したり、焦って失敗したりしても不思議ではない。事実、タブマンの周りにそういう人たちがたくさんいた。
逃亡者は先のことを何も知らずに自らを投げ出さねばならない。北斗七星と北極星のみを頼りにただひたすら先に進んだ。星が見えないときは、樹木の幹のこけの生えている側から北の方向を知って進んだ。彼女は、州というものがあること自体を知らなかった。
地下組織「地下鉄道」
黒人奴隷の逃亡を助ける組織「地下鉄道」は、逃亡奴隷、自由黒人、奴隷制に反対する白人たちのネットワークで成り立っていた。タブマンは白人クエーカー教徒にかくまわれて、次々と「駅」(隠れ家)を渡り歩いて、北部にたどりついた。
逃亡が成功したタブマンは、家族全員を北部に連れてくるため、10回以上も南部に戻り、一緒についてくる70〜80人近くの人を逃亡させた。 「脱線」(地下鉄道用語で失敗の意味)した人はひとりもおらず、その車掌(逃亡奴隷を手助けする人)としての手腕により、タブマンは伝説的な存在となった。
キャラが強すぎハリエット
タブマンがなぜ逃亡を成功させ続けられたのか。本人は「神の加護」だと言っていたようだが、本書では逃亡をすべて成功させた理由として「体力」「使命感」「人脈」「綿密な計画性」をあげている。
タブマンは野外労働を好んだため体力があり、「家族全員を南部から救い出して北部に逃がす」強い使命感があった。また労働をつうじて人脈があったため、情報を受け取りやすかった。そして、念入りな準備をして計画し、いくつかの逃亡パターンを入念に考えていたという。確かに、難しい計画を成功させるにはどれも必要な能力であり、神の加護や偶然と見なすよりも説得力がある。
とはいえ、伝説になる理由もよくわかる。彼女のキャラが濃すぎるのだ。彼女は精神も肉体も鋼のようで、行軍中に虫歯の激痛が耐えがたくなり、銃を使ってばきっと抜いて「すっきりした」と言い放ったという(周囲の男性たちは唖然としたらしい)。日本だったらまちがいなくタブマンは漫画化されていただろう。
逃亡は戦いである
「黒人」「女性」「奴隷」という、アメリカ社会で差別される属性を3つも持ちながらも、功績を残した生命力と信念には圧倒される。
彼女を見ると思う、逃げることは戦いである。既得権益を守りたい人間たちは「平和な世に争いを持ち込む野蛮な人間」「法律破りのならず者」「負け犬」と、逃げたり戦ったりする者を貶めるが、そんな声に屈していたら、現代のアメリカはなかった。
ハリエット・タブマンは、2020年に出る新20ドル紙幣に、肖像が使われることになるようだ。これだけのことをやってのけたのだから当然といえば当然だが、ハリエットの紙幣が出たことを「ようやく」と言うべきか、「この時代によく出した」と言うべきか。
ハリエット・タブマンが映画化
Be free or die. Watch the official trailer for #HARRIET, the unbelievable true story of Harriet Tubman. In theaters this November. pic.twitter.com/HcSUX4ZkAA— Harriet Film (@HarrietFilm) July 23, 2019
ちょうど 「Harriet」が2019年11月アメリカにて映画化される。日本でも、これを機にハリエット・タブマンや地下鉄道が知られるようになるとよい。
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これまで小説の背景として描かれていた南北戦争と黒人奴隷の歴史を知るために読みたい。