ボヘミアの海岸線

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『海の乙女の惜しみなさ』デニス・ジョンソン|地すべりしていく人の隣に座る

今になってみれば、これから生きる年数よりも、過去に生きた年数のほうが多い。これから楽しみにすることよりも、思い出すべきことのほうが多い。

――デニス・ジョンソン『海の乙女の惜しみなさ』

 

デニス・ジョンソンは、底に落ちた人生について、驚くべきフラットさで語る作家だと思う。彼はかつて麻薬常用者で、「いろいろなものを台なしになってしまった」と語るが、うまくやっている他者への妬み、自分をこんなにしてしまった人間への怒りは語らない。似た境遇にいる「社会不適合者」たちを激励したり、同族嫌悪を示したりもしない。

誇張せず、自虐せず、フラットに己の境遇を語ることは思いのほか難しい。どんな世界をくぐり抜けたらあの境地にたどりつくのだろうと途方に暮れる。

海の乙女の惜しみなさ (エクス・リブリス)

海の乙女の惜しみなさ (エクス・リブリス)

 

 

世界は回り続ける。これを書いているのだから、僕がまだ死んでいないことは明らかだろう。だが、君がこれを読むころにはもう死んでいるのかもしれない。

すべり落ちていく者の隣に座る作家が、老いて死んでいく人たちについて語る短編集だ。

『ジーザス・サン』でおなじみの麻薬常用者や刑務所あがりの人たちだけではなく、老人、病人、死んだ人たち、そして社会でそれなりに成功した老人(多くは作家、あるいはメディア関係、大学の人である)が登場する。『ジーザス・サン』では誰もが社会不適合者で、社会的地位がある人なんていなかったから、この変化にはすこし驚いた。著者がそれなりに社会的地位を得たからかもしれない。

だが、やはりデニス・ジョンソンはデニス・ジョンソンで、社会的地位があってもなくても、誰もが孤独と喪失と失望を抱えている。社会と関わりつつも距離を置いて生きている彼らは、同じように社会からはぐれた人たちと出会い、別れていく。

 

本書では、他者とのめぐりあいは、『ジーザス・サン』よりずっと「死と老いに近い場所」にある。訃報を聞き、葬式に参加して、見舞いに行くことで、語り手たちは他者と関わる。

表題「海の乙女の惜しみなさ」では、語り手はしばしば死のイベントをとおして他者と再会する。お互いに生きている時に出会ったのに、自分はまだ生きていて、相手はもう生きていない。この途方もない落差が、ドライなユーモアとともになんども反復される。

「そうです。自殺してしまったようで」

「どうやって死んだかは知りたくない。それは言わないでくれ」。正直言って、どうしてそんなことを言ったのか、今でもまったく想像がつかない。

死だけではなく、老いや病にまつわる描写も迫力がある。年をとり、社会的地位や認知は上がるが、体調や細胞や記憶はどんどん崩れていく。

 前も後も存在せず、夢の世界のように論理を欠いたその世界のただなかで、それを作り上げていたのは、リズの認知症と、リンクの麻酔薬による朦朧とした状態と糖尿病による血糖値の上昇、ときおり起こるインスリンによる精神病、そして血中の毒素、主にアンモニアが寄せては引くことによって繰り返される譫妄状態だった。

2つの短編集を読んで、ジョンソンは「地すべりしていく人たち」を描く作家なのだと感じた。『ジーザス・サン』では、麻薬常用者たちが社会からすべり落ちていき、『海の乙女の惜しみなさ』では、老いによって体調や細胞がどんどん崩れてこぼれ落ち、友人知人たちが死に向かって地すべりしていく。

そんな人たちの隣にジョンソンは座っていて、黙りながら一緒に地すべりしていく。よくわからないがなぜか近くにいて、なにもしてこない併走者としてのジョンソンは、どことなく妖怪に似ている。

 

デニス・ジョンソンの人たちは、重力のなすがまま、どんどん下へ下へと向かっていくのだが、それでも重苦しい後味を残さないのは、地すべりする人たちが時折はっとするような輝きをもって顔をあげて、笑いと光を放つからかもしれない。

彼らの目には、懐かしい人、会いたい人、大事な人、大事だった人、よく知らないけれど印象に残っている人たちが映っている。そんな様子をジョンソンはこう書いている。

「心の中にかぎ針があって、そこから伸びる糸が誰かの手につながっている」

いい文章だ。私もたまにかぎ針を思い出して、たぐり寄せる。きっと年をとったからだろう。さらに年をとったら、かぎ針には誰がつながっているだろうか?

今の俺としては、腹のなかに十五か十六本のかぎ針があって、そこから伸びる糸がずっと会ってない人たちの手に握られてるって感じで、その話もそんな糸のひとつなわけ。  

俺の心のなかに十本くらいのかぎ針があって、そこから伸びる糸をたどって書いてるんだ。俺がこれを誠心誠意やってて、ちょっとした助けを求めてるってことが、天にまします誰かさんに伝わってるといいんだけど、ここではっきりいっとくと、俺はひざまずいたりはしないからな。

 

収録作品

気に入った作品には*。

  • 海の乙女の惜しみなさ*
    広告代理店で勤務していた老年男性が、自分の人生を思い出しながら語っていく。偶然に出会った画家の知人の葬式とレシピ集のエピソード、最後の「海の乙女」が登場する文がよい。

  • アイダホのスターライト***
    すばらしく夢のある名前「スターライト」は、アルコール依存症治療センターの名前である。麻薬依存の苦しみと、家族友人知人ぜんぜん知らない人たちへの手紙という感情が、スターライトできらめく。本書のなかではいちばん好き。

  • 首絞めボブ*
    『ジーザス・サン』を思い出させる、刑務所にいた頃の話。刑務所は、軽犯罪者と殺人犯が一緒に暮らすため緊張感がただよう。殺人犯とともに暮らすスリルをブラックユーモアとともに描く。

  • 墓に対する勝利*
    中年の作家が、知り合いの老いた作家を見舞いにいったら、彼はすでに現実と妄想の区別がつかなくなっていた。病と老いの匂いが充満する作品で、介護をしていたころのあのにおいを思い出した。

  • ドッペルゲンガー、ポルターガイスト**
    エルヴィス・プレスリーの死んだ双子にまつわる陰謀論に執着する詩人の話。パラノイアなので、陰謀論の話は大好きだから楽しく読んだ。ドッペルゲンガーとポルターガイスト、ともに怪奇小説やゴシック小説でおなじみのモチーフが、現代的なモチーフと重なりながら、ラストに向かって直進する。

 

デニス・ジョンソンの著作レビュー

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地すべりしていく者たちの隣に座る姿勢は、ジーザス・クライストを思い起こさせる。キリスト教はいろいろな権力に使われたが、もともとの「弱者のための宗教」であったことを思い出す。「主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、魂が砕かれた者を救われる」は聖書の一文だが、ジョンソン作品の中にあってもおかしくはない(救われたい、にはなるだろうが)。

 

真顔でたんたんとユーモアを語るドライな語り口(真顔系ユーモア作家と呼んでいる)の雰囲気がなんとなく似ている。