ボヘミアの海岸線

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『レザルド川』エドゥアール・グリッサン|原色の自然と情熱が踊る

 それは町だ、砂糖キビと湿地帯と遠い海と近い泥からなるちっぽけな土地だ。そしてレザルド川を忘れることはできない。

――エドゥアール・グリッサン『レザルド川』

  

フォークナーのヨクナパトーファ郡、中上健次紀州のように、土地そのものが小説の重要な主人公として燃え上がる小説がある。これらの小説を読むと、登場人物たちよりも、彼らを取り巻く土地のほうが長く記憶に残る。そして似たような湿度や光を感じると、まるであの小説世界のようだ、と訪れたことのない土地をなつかしく思い出す。

『レザルド川』は、おそらくそうした土地小説のひとつだ。読み終わった今、太陽の下で真っ赤に咲き乱れる火炎樹、まぶしい光に満ちた海、そして赤と黄色と緑に満ちたレザルド川である。

レザルド川

レザルド川

 

ぼくらはあまりに伝説に生きてきすぎた。君は奇跡を信じている。そうじゃないか?

1945年のマルティニーク島の町で、政治への情熱を抱えた若者たちがある野望を抱えていた。次の市長選で絶対に勝たせたいマルティニーク人がいるから、邪魔なフランス(マルティニークを植民地化した宗主国)寄りの実力者ガランを暗殺しようとしていた。

このガラン殺害計画のために、山からタエルという名の若者が呼ばれる。やる意味があるかわからない無謀な計画だが、若者の熱気ゆえか、若者たちのリーダー格マチウと打ち解けたタエルは殺人を約束する。

 

ガラン暗殺のため、タエルはレザルド川を下っていく。この川下りは本書のハイライトで、とても謎めいていておもしろい。

ガランがひとりで川下りを始め、タエルがその後をひそかに追うオーソドックスな追跡から始まったはずなのに、途中からお互いの存在をはっきり認識し合い、距離があるにもかかわらず、思念めいたもので会話を始める(読書会では『ジョジョ』『ハンター×ハンター』ぽいという感想が出た)。

彼らは、標的と暗殺者といった関係から脱線して、唯一無二の「レザルド共同体」となり、大いなるレザルド川を下っていく。レザルド川の描写はもはや川なのか? と思うほどで、赤黄緑黒とその姿を変えて、ちっぽけな人間たちを広大な海へと運んでいく。

レザルド川は今やゆったりと、力強く流れている。周囲の土地は黄色い血で膨れあがり、川が醸成する泥で超えた、分厚い波状をなして広がっている。それは時に緑と赤の呪文となる。 

 

示唆と隠喩に満ちた小説だ。著者の言葉は原色の鉱石みたいにきらきらゴツゴツしていて、詩を思わせる言葉が、レザルド川やマルティニークの自然を礼賛する時に爆発的に花開く。

――美だって? そいつを私に説明してくれ、美というやつを。

――誰かが町へ降りてくる、それはぼくだ。彼は誰かに合う。それはマチウだ。

――おまえの兄弟だ。

――二人が、同じ日に。それが美だ。

マルティニークの自然が輝く中で、若者たちもまた青春を謳歌する。彼らは恋をして、ある者は恋が実り、ある者は失恋し、友情を確かめたり、反目したり、議論に白熱したり、海ではしゃぎ、祭りの夜に大笑いしたりする。

(マチウ! マチウ!)しかし彼女はなお笑っていた。そうした一切の錯乱、音の監獄、成熟した砂糖キビの矢、未来の収穫、熱い風の上に、この新しい輝く、憐憫も脆弱さもない、二人だけのために燃え立つ、純粋な輝きがあった。

 

おおいに遊び笑う姿は私たちとそう変わらない一方、政治への情熱と議論で結びつくあたりはやはり現代とはちょっと違っている。 

だが、当時はそういう時代だった。本書の時代は1945年。第二次世界大戦が終わって世界中が脱植民地化する中で、フランスから独立するか独立しないかが、マルティニークに住む人たちの大いなる関心ごとだった。だから彼らは真剣に話しあったし、選挙に熱狂した。選挙によって自分たちが独立するかしないかが変わる。そんな年だった。

この熱狂と真剣さは、少しだけわかる気がする。私はかつて、スコットランドの独立選挙に居合わせたことがある。町のあらゆるところに独立と選挙の文言やビラが踊り、人々はちょっとした時に独立の話題を口にした。あけっぴろげな政治的な話題を好まないスコットランド人ですらそうだったのだ。独立を目前にしたマルティニーク人たちが熱狂したとしてもふしぎはない。

 

その熱情を、著者は記憶にとどめておこうとしたのかもしれない。激情は炎か突風のようなもので、長くは続かないが、いくばくかの熱を記録に残すことはできる。著者は川のように書き、川のように後世まで運ぼうとした。だからだろうか、私が『レザルド川』のことを思い出す時、原色の自然と情熱が今も目の前で踊っている。

「忘れるな、忘れるなよ。憶えておけよ。」まるで言葉が降り、広がり、溢れる一本の川となることができるみたいに。まるで言葉が閃光をそのまま凝縮して(実を結ばせる)しかるべき土地へ運んでいくことができるみたいに。

言葉は決して死に絶えてしまうことはなく、川は決して土砂を海に運び終えてしまうことはない。

 

Memo:『レザルド川』読書会

アフリカイルカことスミス市松氏(@ichimatsu_smith)の主催で『レザルド川』読書会が開催された。本書はかなり暗喩に満ちた小説なので、象徴やマルティニーク文化を知っているとより楽しめるかもしれない。

山に生きる者たち

タエルやパパ・ロングエといった山の住民は「逃亡奴隷の子孫」である。マルティニーク島の黒人たちは奴隷としてアフリカから連れてこられて、サトウキビ畑で強制労働させられた。畑から逃げる者たちは追手が探せない山に逃げて潜伏した。だからか、タエルにせよパパ・ロングエにせよ、山に住む者は町の人とは違った密教ぽさや厳しさがある。タエルが山からやってくるのは、町の若者たちではなしえないことを「厳しい場所に住む者」にたくしたからかもしれない。

町の若者たち

本書は肌の色について言及がないが、教育を受けフランスへの留学をする者が多いことから、おそらくムラート(混血)であろう。『黒人小屋通り』で黒人少年が学校へ進学した時、自分以外はほとんどがムラートでありなじめなかったと書いている。特にヴァレリーは中でも裕福だっただろう、と読書会で指摘があった。

マルティニークの地形

京都のように、各方角に意味を込めている。東は川、北は山(逃亡奴隷の土地)、南は畑(裕福な者が住む土地、サトウキビ畑)、西は海(カリブ海)。なお、マルティニークは海に囲まれているが、東側の大西洋は「厳しい海」で、西のカリブ海は「優しい海」らしい。

レザルド川

「亀裂」という意味の川で、マルティニーク島を東西に走っている。

夜話

コントと呼ばれる、語り手と聴衆がかけあいをする談話。 マルティニーク文化に欠かせないもので、『黒人小屋通り』『素晴らしきソリボ』にも登場する。夜話のかけあいは、タエルとマチウ、タエルとガランのかけあいにも通じるかもしれない。

アフリカから伝わる伝説から名前をつけられた犬たちは、不吉の象徴、暴力の象徴としてなんども現れる。

呪術師

パパ・グランデは未来をみとおす力がある。呪術師の語りと呪術師への敬意は、アフリカとのつながりを感じる。

 

以下、参加者の感想をざっくりまとめ。やはりその特徴的な文章のためか、文章への言及が多かった。

  • 長い詩みたいな文章
  • 映像が目に浮かんでくる
  • 塗りたくった油絵ぽい
  • J-POPの歌詞みたいな文章
  • シンボリックな文章
  • 文章が読みにくい
  • 神話のような印象
  • 川下りがあつくておもしろい
  • マチウの女遍歴がどうかと思う
  • きらきら青春小説でほろり。『野生の探偵』ぽい
  • エモさを感じる
  • 「ぼく」とは何者か
  • 幼年期が終わり、青春が終わり、サーガが終わる
  • イメージの氾濫
  • 自分の文体を獲得しようとする試み
  • 海が多彩な象徴(親愛だったり抱擁だったり殺人だったり)
  • 戯曲みたい
  • 人称がいろいろ変わる(一人称と二人称と三人称が混在している)
  • 自然描写がすばらしい

Recommend

マルティニーク島うまれの作家による小説。「黒人小屋通り」とは、黒人奴隷を祖先に持つ黒人たちが住む通りで、トタン屋根の狭いバラックに皆が暮らしていた。暮らしは貧しく重労働だった。ゾベルは黒人小屋通りの過酷さと美しさを同居させた物語を書いた。

 

マルティニーク島出身の作家による「口承文化」「声の語り」への敬意に満ちた小説。愛され系の語り手ソリボが「言葉に掻き裂かれて死ぬ」。彼の死をいたんだソリボの聴衆(だいたい無職)が彼の思い出を語ることで、「語り手とは何者か」が浮かび上がる。

 

土地に根差したサーガといえば、フォークナーのヨクナパトーファ・サーガである。他にも『アブサロム、アブサロム!』は『レザルド川』と共通点がある。ガランはレザルド川の上流に屋敷をかまえていた。その様子が、大屋敷をかまえるサトペンと似ていると読書会で言われていた。黒人、奴隷、屋敷、水源を確保する白人というモチーフは確かに通じるものがある。

 

クレオールとは何か (平凡社ライブラリー (507))

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 『素晴らしきソリボ』の作者による、クレオール文学の解説。エメ・セゼールによるネグリチュード(黒人文化を自覚する文学運動)、クレオール(黒人としてのアイデンティティよりはマルティニークにおける文化の混合に目を向ける運動)への歴史がまとまっている。