ボヘミアの海岸線

海外文学/世界文学/ガイブンの書評と感想ブログ。昔の名は「キリキリソテーにうってつけの日」

『素晴らしきソリボ』パトリック・シャモワゾ―|小説が再現できない「語り」の魔術

 彼にとっては、書くことでは物事の本質をとらえることはできないのです。

――パトリック・シャモワゾ―『素晴らしきソリボ』

 

じつににぎやかな小説だ。文字よりも声への敬意に満ちている。

かつてすべての物語が声で語られた時代があった。ええくりいく! と語り手が聴衆に語りかければ、聴衆は、ええくらあく! と叫び返し、語り手と聴衆がわいわいガヤガヤ相互にやりとりをしながら、物語を進めていった。

語り手の身振りや目つき、抑揚、沈黙、吐息、すべてが物語だった。それらは放たれた瞬間に失われる、一瞬の輝きに満ちたものだったから、誰もが語り手とともにその一瞬を共有したがった。

素晴らしきソリボ

素晴らしきソリボ

 

 

「声による物語」は輝きに満ちているが、その特性上、放たれた瞬間に消えていく宿命にある。その美しさと悲しみを体現した男が、ソリボ・マフィニーク(素晴らしきソリボ)だ。

舞台は口承文化が残るカリブ海マルティニーク島。本書は、誰からも尊敬される愛され系の語り手ソリボが、言葉に喉を掻き裂かれて死ぬところから始まる。

ぱうぉる ら ばい あん ごおじぇと(言葉が彼を掻き裂いた……)

死因、「言葉に喉を掻き裂かれる」。そんなばかげた死因は聞いたこともないと、警察が殺人事件と見なしてソリボの聴衆(だいたい無職)に尋問する。

だが聴衆たちはソリボの素晴らしさや思い出こそ語るものの、事件の手がかりになりそうなことはなにもしゃべらない。それはそうだ、彼らは殺してなどいないのだから。しかし、警察は信じず、暴力を使ってでもなんとしてでも殺人事件にしたてようとする。

答えはマグカップ一杯分もないのに、問いだけは一樽分もあるってわけだ。 

 

この不毛な会話から見えてくるのは、権力者である警察と、ソリボを愛する聴衆たちの「言語の違い、生きる世界の違い」だ。

警察は宗主国の言語フランス語を話し、聴衆たちの多くはクレオール語(フランス語とアフリカ人たちの言葉が混ざったピジン言語)を話す。そして警察は物語が死んだ世界(あるいは客観の世界)に、聴衆たちは物語が生きている世界(あるいは主観の世界)に住んでいる。

警察にとって、死者について語ることは供述書のためだが、聴衆たちにとって、死者について語ることは愛と思い出と弔いのためである。

誰がソリボを殺したか捜しても何も真実は得られませんよ。本当の問いは、ソリボは誰か、ということです。

 

ソリボ不在の世界で、ソリボの存在感がどんどん増していく。彼は謎めいている。そして魅力的だ。ソリボとは誰なのか。なぜ彼は誰からも愛されたのか、彼はなんのために語っていたのか。

彼の言葉は、どんな耳にもたどり着くような隠れた道、心についている見えない扉にたどり着く道をわかっていた。

この語り部はそれぞれの土地、そこに住む人々、それぞれの苦悩を語ることができた 。

ソリボを知れば知るほど「なんてすごいんだソリボ」という思いと「なんで死んでしまったんだソリボ」という思いが高まっていく。

とくに私が好きだったのが、ソリボが主催した葬式と、ソリボがつくったサメ肉のマリネだ。どちらも祝祭めいた雰囲気に満ちていて、その場に居合わせたくなった。

ちなみに本書にはいろいろな料理が登場する。ドングレ(煮込みパスタ)トランパージュ、タフィア酒でフランベしたメシュイ(羊のグリル)、フェロス(タラ、キャッサバ、アボカドで出来た団子)、キャッサバのホットケーキ、ザボン漬け、どれもおいしそうで食べたい。

 

本書は、語り手ソリボの喪失をとおして、発した瞬間に失われるが瞬間にすべてを詰めこめる「声の文化」と、後世まで残るが語りの大半を失ってしまう「文字の文化」の悲しき差異を描く。

声の文化と文字の文化は、お互いに衝突するものではないが、互換できるものでもない。「語る者」ソリボと「書く者」 シャモワゾー、ふたりの間には溝が容赦なく横たわる。

話された言葉を書くことは絶対にないのさ。単語を綴るだけでしかない。おまえは語るべきだったなあ。

著者は書く者でありながら、書く言葉の不出来さに落胆する。そこまで悲観しなくてもいいのではと個人的には思うのだが、それでも彼は書く。

落胆と執念の集大成とも言えるのが、最終章のソリボの語りだ。終盤にこれほどの音と生命力が凝縮された小説はそう多くない。この最終章のために本書は存在したと言ってもいい。

翻訳ではおそらく韻および言葉の音楽性が失われているから、私たち日本語読者には、ソリボの語りの1~2割ぐらいしか届いていないかもしれない。

それでもソリボの言葉は越境して、ソリボの死後も残った。この事実こそが、シャモワゾーが落胆しつつも書き続ける理由なのではないか。

わたしは去るがおまえは残る。わたしは語るが、おまえは、自分は話された言葉から来たと言いながら実際は書く。おまえとわたしは遠く隔たっているが、それを超えておまえはわたしに手を差し伸べる。いいことだ、しかしおまえが触れているもの、それは距離そのものなのだ…… 

 

Memo:声の文化と文字の文化

声の文化と文字の文化

声の文化と文字の文化

  • 作者: ウォルター・J.オング,Walter J. Ong,林正寛,糟谷啓介,桜井直文
  • 出版社/メーカー: 藤原書店
  • 発売日: 1991/10/31
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『声の文化と文字の文化』は、本書のテーマど直球の古典である。

声はかつて世界において「記憶」をとどめる主流の方法だったが、文字の出現によって記憶は文字が主流になり、音読社会から黙読社会になっていった。

声は揮発性が高く属人的であるがゆえに、災害や戦争によって継承がうまくいかないと永久に失われてしまう。一方、文字もまた消失や破壊の危険にさらされるが、耐久性が声よりも高く、複製可能のため、結果として「記憶を残す記録媒体」として主流になった。

『素晴らしきソリボ』では失われること、文字媒体への変換率の悪さ(対話ではノンバーバル・コミュニケーションが7割と言われているから、文字だと語りの3割ぐらいしか残せないだろう)に主軸が置かれている。『声の文化と文字の文化』では「揮発性」「継承性」「記録媒体としての耐久性」といった視点で「声の文化」と「文字の文化」を比較している。

ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読 (岩波現代文庫)

ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読 (岩波現代文庫)

 

「その場にいることによる相互性」においては、「複製技術時代の芸術作品」でベンヤミンが「アウラ」として提唱している。ソリボの語りは、アウラの話でもあるだろう。

 

Recommend:マルティニーク文学、口承文学

マルティニーク島うまれの作家による小説。「黒人小屋通り」とは、黒人奴隷を祖先に持つ黒人たちが住む通りで、トタン屋根の狭いバラックに皆が暮らしていた。暮らしは貧しく重労働だった。ゾベルは黒人小屋通りの過酷さと美しさを同居させた物語を書いた。

同じくマルティニーク島生まれの作家による小説。『素晴らしきソリボ』はマルティニークの口承文化に主眼を置いていて、『レザルド川』はマルティニークの美しい自然を賛美することに主眼が置かれている。思念で対話しながら川をくだるシーンは、『ジョジョ』『ハンター×ハンター』感があってよかった。

 

クレオールとは何か (平凡社ライブラリー (507))

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  • 作者: パトリック・シャモワゾー,ラファエル・コンフィアン,西谷修
  • 出版社/メーカー: 平凡社
  • 発売日: 2004/07/01
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 『素晴らしきソリボ』の作者による、クレオール文学の解説。エメ・セゼールによるネグリチュード(黒人文化を自覚する文学運動)、クレオール(黒人としてのアイデンティティよりはマルティニークにおける文化の混合に目を向ける運動)への歴史がまとまっている。

ペルーのジャングルに住む語り手を追うペルー人の青年2人が、それぞれの形で語り部へと接近していく。同じような興味から語り部に近づいていく2人が、まったく違うアプローチをとる。『密林の語り部』でも語り部は豊かな言葉を語っている。

 

ブリテンの荒野になじみがあるせいか、口承文化といえばケルト文化を思い出す。彼らは文字文化をよしとせず、20年かけてすべての詩や物語を暗記して伝えていった。異文化によって征服されると彼らの物語の多くは失われ、一部はキリスト教の物語などに吸収されていった。