『パラダイス・モーテル』エリック・マコーマック|タワー・オブ・ホラ話
おかしなことじゃないか? 人が心に秘めて話さないことがそんなにも重要だとは。人が話すことのほとんどすべてがカモフラージュか、ひょっとすると鎧か、さもなければ傷に巻いた包帯にすぎないとは。
――エリック・マコーマック『パラダイス・モーテル』
「ホラ話っぽい事実」と「事実っぽいホラ話」の境界はあいまいで、限りなくホラ話のように見えることが事実だったり、ホラ話のように見えるけれど嘘であることもある。時間が経てば、ホラ話も事実扱いされるし、事実がホラ話扱いされることもあるから、ホラ話と事実を見分けることは、基本的に人類の手に負えない。
さて、小説家は、事実と虚構の境界をぼやかした土壌に作品を組み上げる人たちだが、マコーマックは「極端なホラ話に見える話」をぶちまけて境界を見えなくさせる作家だと思う。
マコーマックの小説では「ありえない」と思うことを誰もがまじめに語っていて、おかしいことがどんどん続く。だからだんだん「そういうものなのか?」と判断力がにぶってくる。
パラダイス・モーテルで、エズラという男性が、祖父の記憶、祖父から聞いた恐るべき話を回想している。
スコットランドのひなびた町から失踪した祖父が、30年ぶりに戻ってきた。祖父は失踪中に船乗りとして世界中を旅していて、ブラジルに滞在中、乗組員から驚くべき話を聞かされたという。
話はこうだ。スコットランドのある島で、マッケンジー一家の妻が失踪した。妻を殺したのは夫の医師で、妻の死体をばらばらにして4人の子供たちの腹を切開して隠した。そんなばかな、と祖父は思う。だが語り手は証拠を見せてくる。
この物語を引き金として「そんなばかな」の嵐が幕を開ける。
エズラはマッケンジーの4人の子供たちがその後、どんな人生を送ったのかを調べようとする。調べ始めてまもなく、ぞくぞくとマッケンジーの子供たちの物語がエズラに向かって突進してくる。なんという都合よさ。それにマッケンジーの子供たちの話はそろって奇想天外でおぞましい。なんという不自然な一貫性。しかしそれでも、語られる物語、登場人物たちがそろいもそろって大真面目に、馬鹿馬鹿しくもグロテスクな逸話をたたみかけてくる。
子供たちの話はどこか干し首めいていて、血がしたたる湿気に満ちているのではなく、乾いている。ぎょっとはするのだが、どこか浮世離れしているせいか、ちらちらと見続けてしまう。しかもよくよく見てみればユーモラスな顔をしていたりするものだから、笑いと親しみすらわいてくる。
登場するエピソードで好きだったのは、<自己喪失者研究所>のマッド・サイエンティスト、目玉がやばい位置についているシャーマン、作家と作家のファン(に見せかけた狂人)の話だ。4人分しかないとわかっていても、もっと話を! と望んでいる自分がいた。
「苦痛の持続が人間にも同じ効果をもたらすとすれば、われわれはとてもうまいごちそうになるだろう」
また、スコットランドクラスタとして特筆したいのが、エズラと祖父が住む町、マッケンジー一族が移り住んだ島が持つ、灰色がかった陰鬱な空気だ。スコットランドの北部諸島は、荒野と灰色の海、灰色の空、ヴァイキングとケルトの民が残した遺跡に満ちている。この荒野から、このような物語がうまれてくるのは似つかわしく思える。
「そんなばかな」を限界まで積み上げて、話が広がりに広がってすっかり手に負えなくなってきたところで、物語は開かれながら折りたたまれていく。虚実の境界がぬるぬると溶けて瓦解していく霧の向こうで、作家が高らかに笑っている幻影を見た。
「それが人生というものだ。小説のふりをしたひと握りの短篇というやつが 」
Recommend
スコットランドを舞台にした小説。こちらも荒野と陰惨な事件と陰鬱に満ちていて、スコットランドはこういう物語をうみやすい土壌なのかもしれない。(北欧諸国と似た雰囲気なので、北欧ノワール小説と雰囲気が近いかもしれない)
ウルフの『灯台』もまた、スコットランドの島を舞台にしている。スコットランドは最古の灯台がある灯台の国で、国立美術館には灯台の巨大なランプが展示されていて、よく見にいったものだった。
「 信頼できない語り手」が祖国ゼンブラについて語りまくる注釈もどき小説。「怪物じみた小説もどきをこしらえるつもりはない」とナボコフは書いているが、まさにこれは「怪物じみた小説もどき」そのものなのだ。ナボコフの真顔ギャグが炸裂する本。
ボラーニョの真顔ギャグが炸裂する「信頼できない語り手」小説。「平和の象徴である鳩を鷹狩りで撃ち落としまくるヨーロッパ協会」といったホラ話を真顔で語る。その背後には、隠したい悪の体躯が見え隠れする。
嘘が本当になったり本当が嘘になったりする騙りの魔術でいちばん好きな本。長らく絶版なのでそろそろ復刊してほしい。