『星の時』クラリッセ・リスペクトル|自分が不幸だと知らない少女
彼女には能力がなかった。人生を送る能力が。うまくやっていく力がなかった。
ーークラリッセ・リスペクトル『星の時』
「あの人は純粋無垢だ」「無垢な人が好き」という表現には、言外に、どこか不穏な気配が宿る。
嘘をつかず、疑うことを知らず、世界と他者の残酷を知らないままこの世を生きることを「無垢」と呼ぶなら、無垢であることは、世界と他者とその残酷にたいしてノーガードで生きることだ。
無垢な人は、危険を察知してみずからを守る防御力がない。運に恵まれれば穏やかに生きられるが、そうでなければ、残酷の餌食となる。
貧しい北部の荒野からリオデジャネイロへやってきた少女マカベーアは、タイピストをしながら、女優になる夢を見ている。両親とはやくに死に別れ、財産はなく、教育もまともに受けておらず、友達もいない。恋人らしき男はいるが、彼女のことを見下していて、大事にしていない。仕事はクビ寸前だ。
マカベーアは、自身の身の上を嘆かない。強い意志でそうしているのではなく、自分の状況に気づいていないからだ。「自分が不幸だと気づかない少女」と、マカベーアは呼ばれている。
持つものと持たざる者がいる。簡単なことだーーその子は持たざる者だった。
そんなマカベーアの人生を、裕福な中年男性作家ロドリーゴが観察しながら文章にしている。この語りが、なかなかに自意識過剰でうっとうしい。中年男の自分語りと自慢を交えながら、マカベーアの人生を、見下しと崇拝と支配欲と執着が入り混じった視線で批評している。さらに、自分語りまで始める。彼の語りは、「無垢な女性が好き」という聖母信仰系の男性に見られる気持ち悪さを、よく体現している。
ロドリーゴの自意識はわりとわかりやすい一方、マカベーアの言動にはなんども驚かされた。その世間との隔絶ぶりは、乾いたユーモアさえ感じる。
「肺結核の初期症状がありますね」
それがいいものなのか悪いものなのか、彼女にはわからなかった。それで、自分が育ちのよい人間だと信じていたので、こう言った。
「ありがとうございます」
複雑な語りの小説だと思う。
世間の悪意に気づかず自意識皆無のマカベーアと、悪意に気づき自意識まみれのロドリーゴ。接点のないふたりの人生が、語る者と語られる者、という非対称な立場で、小説の場に同居している。
ロドリーゴの語りがなければ、マカベーアの物語は「かわいそうな少女の悲しくも美しい物語」として同情をうけるばかりだったかもしれない。ロドリーゴの語りによって、かわいそうな少女の残酷物語を消費する存在が浮かび上がる。消費者は、ロドリーゴだけではなく、読者である自分も含まれている。
ひとつの無垢と世界の残酷が衝突する物語は、圧倒的戦力差ゆえの緊張感、世間の残酷にその身をさらすピュアさへの驚き、無垢の神秘性への期待を内包しており、どうなるか知りたいという薄暗い好奇心がうまれる。
そういう意味で、『星の時』は居心地が悪い小説でもある。
自意識と残酷世界の汚泥にまみれた小説の中で、マカベーアの放つ言葉だけが、不思議な軽さがあった。この軽さゆえに、彼女は世間から浮いて、とどまりきらなかったのかもしれない。
名状しがたい感情を残していったこの小説を、私はしばらく忘れないだろうと思う。
「わたしはネジとか釘が好きなんです。あなたは?」
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世間の残酷とすべての人類に向けてケンカをふっかける、ひとりの女の孤独な撤退戦線。こちらの女性はマカベーアとは正反対で、自意識と欲と怒りに満ちているが、世界の残酷にその身をさらす点は、似ている気がする。
ピュアと残酷が衝突する残酷物語。この漫画の話題っぷりもまた、残酷物語を求める人の業と性を感じる。