ボヘミアの海岸線

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『風船』ペマ・ツェテン|伝統と現代が渦巻くチベット

「あなた、すでに三人も子供がいて、またもう一人産むつもり? 私たちチベットの女は、男のために子供を産むために生まれてきたわけじゃないのよ。」

−−ペマ・ツェテン『風船』

 

10年以上前の夏の日、チベットへ行こうと思い立ってから、青蔵鉄道に乗ってラサの地を踏むまで、1か月かからなかったように思う。青蔵鉄道ができてまもない頃だった。中国の政治施策でつくられた鉄道に苦い思いを抱えつつ、チベットに向かった。

高度2000メートル以上の抜けるような青い空、寺院の白い壁、赤い僧衣、極彩色の旗と、原色の景色をおぼえている。

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外国人は自由にチベットをめぐれなかったので、ジープを借りて、指定の場所を指定のルートでめぐった。都市ラサで、ホテルの掲示板でジープを一緒に借りる人間を募り、人種も言語もごたまぜの見知らぬ者どうしで、ネパールの国境に向かって、数日間のジープツアーをした。

寺院と寺院をめぐるあいだはずっと、草原か、湖か、乾いた荒野をひたすら走っていた。遠くに羊の群れが見えた。

 途中でジープが故障して、地平線のどまんなかに半日ほど放置されたことは、強烈な思い出だ。私の荒野への共感は、あのチベットの地平線によるところが大きい。

 

そういうわけで、チベットにはそれなりの親しみと記憶があるにもかかわらず、これまでチベット文学を読んでこなかった自分に驚いている。

チベット文学の翻訳が少なかったとはいえ、「チベットボルヘス」ことザシダワの作品(「○○のボルヘス」の中では唯一、生きていていいとボルヘス警察が言っている)など、あることはあったわけだが、チベット文学について思い出す機会があまりなかった。

ところが最近、チベット文学界隈が活発だ。この1年でも、ツェワン・イシェ・ペンバ『白い鶴よ翼を貸しておくれ』、ナクツァン・ヌロ『ナクツァン』、『ケサル王物語』、そして本書ペマ・ツェテン『風船』など数冊が刊行されている。チベット文学業界に導きの星でも落ちたのだろうか。めでたいことである。

 

『風船』は、伝統文化と現代文化が混在するチベットを描いた短編集だ。著者は映画監督で、表題作を『羊飼いと風船』として映像化している。「風船」以外にも映像化作品がいくつかある。

 

表題作「風船」は、現代チベット家族のバースコントロールを描いた作品だ。

チベットの草原地帯で、ある三世代家族が羊を飼いながら、伝統的な様式で生活している。すでに3人の子供がいる母親は、これ以上の子供を望んでいないが、彼の夫は性欲が盛んだ。

政府から配給されるコンドームが足りずに困った妻は、医者に避妊について相談する。

遊牧、馬、チベット仏教、生まれ変わり、父権主義といった伝統と、バイク、現代医療、政治政策、バースコントロールフェミニズムといった現代文化が混ざり合い、互いに葛藤しながら変化していく様子が、みごとに描かれている。医者の言葉が鋭く、印象に残る。そしてなにより、風船のモチーフが巧みだ。うまい、うますぎる、と、思わず読んでうめいた。

 「あなた、すでに三人も子供がいて、またもう一人産むつもり? 私たちチベットの女は、男のために子供を産むために生まれてきたわけじゃないのよ。昔の女は五人も六人も、ううん、七人も八人も子供を産んで、本当に大変だったわよね。何の意味があるの! 私は子供は一人しかいないけど、何の問題もないわよ。自分も楽だし、補助金も貰えるし、子供にも良い教育を受けさせてあげることもできる」

 

 他の作品は、「風船」よりも伝統要素が多めで、ユーモラスだ。

マニ石、チベット仏教、贖罪、僧、生まれ変わり、お告げの夢など、伝承的な話をベースにした作品が多く、よいチベット文化入門になっている。マニ石を彫る男の話、罪と贖罪にまつわる「轢き殺された羊」がとりわけ好きだった。

せっかく良いチベット文学にであったのだから、もっとチベット文学を読みたくなった。

 

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風 船 ペマ・ツェテン作品集

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