ボヘミアの海岸線

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『アルマ』J.M.G. ル・クレジオ|絶滅した鳥、失われゆく記憶

どこにだって行こう、なんでも見たい、たとえ見るべきものだとたいして残っておらず、あたかも水没した墓碑に書かれたような地図上のこうした名前、日一日と消えていく名前、時の果てへと逃れていく名前のほか何もないとしても。

−−J.M.G.ル・クレジオ『アルマ』

 

今はもう消滅してしまった星の残光みたいな小説だ。

失われつつある、あるいはもう永久に失われてしまった命や文化について、切実な声で語り続ける作家が、インド洋の貴婦人と呼ばれる美しい島、父親の故郷、モーリシャス島について語る。

ぼくは帰ってきた。これは奇妙な感情だ、モーリシャスにはこれまで一度も来たことがないのだから。見入らぬ国にこうした痛切な印象を持つのはどうしてか。

作家の似姿であるフランス人研究者が、父親の形見であるドードーの石を手に、モーリシャス島を訪れる。旅の名目は、専門分野であるドードー研究のためだが、いちばんの目的は「父祖の地」を訪れることだ。

父や先祖と関わりがあった人々、一族の生き残りであるドードーと呼ばれる男を探しながら、かつて父や先祖が見た景色の痕跡を求めて、男はモーリシャスの土地を歩きまわる。

 

本書に登場する人たちはみな、過去に視線を向けて、かつてあったもの、かつて父親から聞いたものがないかと目をこらす。

だが、その願いは、絶滅した鳥ドードーを見つけようとするようなものだ。父祖が知るモーリシャスは、ドードーと同じく、消滅しつつある。

そんななか、あんたはわたしに会いにきてくれた。だけどあんたにうまく話せない、記憶によみがえるのはわたしの過去の話、アルマ、サトウキビ畑、せせらぎ、池、そのすべてがもうないわ。何が残っているか見てもごらんよ!

 

本書では、絶滅した鳥ドードーが重層的なイメージをともなって、なんども登場する。

ドードーは、モーリシャスの歴史を象徴する鳥、語り手が研究する専門分野、語り手の一族ただひとりの生き残りである男の呼び名であり、語り手が探し求めるもの−−もうほとんど消失してしまったモーリシャスの断片そのものだ。 

 語り手の物語と平行して語られる、ドードーという名を持つ男の物語は壮絶だ。ドードーは病によって顔が崩れ落ち、見捨てられた者として生きている。彼の姿は、ドードー鳥やモーリシャスの運命とつながっている。 

ぼくには何も訊ねるべきことはない、まもなく消滅するひとつの物語だ。残るものは何もない、ただあの色の薄れた何枚かの写真、古めかしい祈祷書からこぼれおちた静画のような写真だけだ。それは昔の時代からさしてくる曙光だ、水平線を明るく照らすが、昼の光を大きく輝かせる力はない。もう遅すぎる。

 

まだ完全には失われてはいないけれど、もうほとんど消失してしまった過去への切実な感情が描かれている。追憶しようにもみずからの記憶を持たず、土地に残された記憶はほとんど失われている時、追憶は果たされない感情として残り続ける。

絶滅した鳥が残したのは、小さくて丸い白い石だけだ。かすかな痕跡を残すだけで、それ以上のことを語らない。

なんとも悲しい小説なのだが、モーリシャスの風や海をはらんだような文章と翻訳がすばらしく、風に吹きさらされた廃墟に立っているような心地がした。

 

眠れ、図体の大きな鳥たち、でかいドードーたちよ、夢のほうへ滑っていけ、この世界には目を閉ざし、先史の時空へ入っていけ。お前たちは、人間を知ることのなかった土地に住んだ最後の生き物!

  

アルマ

アルマ

 

 

ル・クレジオ作品の感想

 

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