ボヘミアの海岸線

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『ラガ 見えない大陸への接近』J.M.G.ル・クレジオ|失われた島々の断片

ラガでは、人はつねに創造の時の近くにいる。

…堕罪や現在を、メラネシア人が本当は気にしていないということは、よく感じられる。かれらは、より幻想的なものとより現実主義的なものの、同時に両方でありうるのだ。

−−ル・クレジオ『ラガ 見えない大陸への接近』

 

ル・クレジオは、オセアニアを「見えない大陸」と呼ぶ。

ラガは、南太平洋メラネシアに点在する島々のひとつ、ペンテコステ島の現地名だ。

現在は、ヴァヌアツ共和国のニューヘブリディーズ諸島に所属しているが、ヴァヌアツ共和国の独立は1980年代と、最近のことだ。独立する前は、18世紀からイギリスとフランスによる植民地支配が続いていた。

ル・クレジオは、植民地支配以前のラガ、植民地時代のラガ、植民地以降のラガについて、ぐるぐると時系列を混ぜて、神話や伝承や歴史の断片、自身の滞在記録の断片を積み上げていく。

点在する島々をつなぎあわせていけば、見えない大陸が幻視されるように、著者は記憶と記録の断片を次から次へと語ることで、ラガへの接近を試みる。

 

 

 先住民たちが、自分たちの島に戻らない覚悟で海に出て、新しい島を探す姿を幻視する「帰還なき旅」のエピソードは、とくに印象的だ。何百年も前の人たちとともに、何日もカヌーに揺られ、一緒にラガにたどりつくかのような心地がする。この寄りそうような近さは、そのままル・クレジオの心の距離のような気がする。

 ラガでは、記憶は山々に、木々に、清浄な水がほとばしるように流れる谷川にある。

 ル・クレジオはラガの自然から「神=カミ」の存在を感じる。この神とは一神教の神ではなく、自然に偏在する多神教の神だろう。彼が挙げる土地には懐かしさがある。私も、アイスランドの黒い岩地、アジアの砂漠と草原、スコットランドの荒野で、原初に触れるような感覚を抱いたものだった。

ラガでは、説明のつかない、漠然としたカミの感覚に絶えずつらぬかれることになる。

こんな感覚が生じる場所は、世界に他にもいくつかある。フランスならランド地方、ブルターニュ、あるいはヴォージュ地方の森の奥の渓谷など。大地がもつ火の口のすぐそばにいることのできるアイスランド、あるいはまた風が吹きすさぶ砂漠。南極の氷原もこんな感覚を与えるのではないかとぼくは想像している。

  壊されてきた先住民文化への親しみはやがて、暴力による悲劇の痛み、暴力で支配した植民地への批判へとつながっていく。

 だが何よりも語らなくてはならないのは、暴力についてなのだ。…見かけ上の気楽さのもとに、かれらの音楽やほとんど子どもっぽいといっていい軽み(それを熱帯の鳥のさえずりにまでたとえることを好む人だっている)、島々の歴史の悲劇が身を隠している。

 

著者が親しみをこめて語るラガは、すでに多くが失われている。

「見えない大陸」とは、暴力によって失われて、もう戻らない残像のようなものであり、過去に戻る方法を持たない人類は、もう二度と失われたラガには近づけない。

そして著者は、ヨーロッパからきて、フランス語を話し、案内人を必要とするよそ者であり、物理的にも精神的にも、ラガには接近しきれない。

このような途方もない断絶があっても、ル・クレジオは消えゆくものへの叙情を語り続ける。

 大昔に誘拐された少女が帰還すれば、時の振り子が始まりに戻される、と信じたラガの民のように、ル・クレジオも書くことで、戻らないとわかっている時の振り子を戻すことを願ったのだろうか?

だが真実はつねに、その単純さによって、より複雑だ。パンギの黒い海岸から誘拐された少女ヴェヴェオは、ある日還ってくる。そのとき黄金時代がはじまり、時の振り子は始まりに戻され、屈辱と貧困の数世紀を一気に洗い流してくれる、と人々は考えたのだ。

  

ラガ――見えない大陸への接近

ラガ――見えない大陸への接近

 

 

Ralated books

メラネシア

ラガで長くフィールドワークをしてきた文化人類学者による資料。ル・クレジオの見たラガと違うラガの姿がある。

 

島々の文学

オセアニアタスマニア島で花開いた暴力と狂気。

 

イタリア作家が描く、島の記憶と断片。

 

北欧の無人島に暮らした記録。

 

ブリテン島の近くにある島の記憶。

 

巨大で魔術的な島の町、ヴェネツィアを詩人が歩く。