『わたしの日付変更線』ジェフリー・アングルス|言語の境界に立つ
書き終えた行の安全圏から
何もない空白へ飛び立つ改行
−−ジェフリー・アングルス『わたしの日付変更線』「リターンの用法」
ジェフリー・アングルスは、英語を母国語として、日本語で詩を書く詩人だ。
ふたつの国、ふたつの言語の境界に立つ詩人の言葉は、いくつもの境界線を指し示し、あちらとこちらを見つめて、境界を飛び越えていく。
本書を読んでいると、白い紙か白い地図に引かれる、いくつもの線を思い浮かべる。おそらくこの印象は、日付変更線や緯度経度、飛行機の飛路(フライウェー)といった、いくつもの抽象的な境界と線のイメージからきているのだと思う。
センテンスの前
ここでは何が起こったのか
有刺鉄線が地面に落ちている
言葉と ランゲージを 隔てていた
国境は完全に崩れている
海外文学を読む鳥としては、文学研究と翻訳の仕事について、言語と文化の境界に立つ者として、言語の二重風景を書く詩が印象的だった。
同じ意味を持つ言葉でも、英語と日本語では思い出す記憶と場面が異なる、翻訳しきれないズレがあると、書いている。外国語の文法とのつきあいを擬人化した「文法のいない朝」も、外国語を学ぶ身には、うなずくところが多い。
翻訳について
だが そのわたしが思い出を語ると
違う人の記憶に聞こえてしまう
わたしの覚えているベッドは布団になり
わたしの覚えている湖は海になる
サンダルは草履になり
ランチボックスはお弁当になる
著者のように翻訳を仕事にしているわけではないが、境界に立つマージナルな立ち位置は、私も身に覚えがある。
10代のころからずっと、日本でうまれ育ちながら、「日本はもっとも馴染みの深い外国である」との感覚を持ちながら生きていた。大学受験後は、外国との関わりが深い場所にずっと身を置いて、外国を旅したり、海外文学を読んだり、海外の文化に近い業界や企業で働いたりしてきた。ふりかえってみるにつけ、いわゆる日本らしい集団に所属していたことは、人生でほとんどない気がする。
それでもどういうわけか、私がいちばん執着している言語は日本語で、これほど日本的な集団を避けながら、日本語ぐらいしか仕事にできそうにない自分に、職業選びの時はかなり葛藤したものだった。
こうしたマージナルさについて、本書は思い出させる。境界に立つ理由は違えど、私の周りにも、複数の集団にすこしずつ所属して、境界に立っている友人は何人かいる。
境界に立つ人は、境界に立つ人を呼び、互いに近づいていくように思う。私が「日付変更線」という境界らしいタイトルに呼び寄せられたのも、そういうことのひとつである気がする。