『レクイエム』 アントニオ・タブッキ|これもまた追憶
[これもまた追憶]
Antonio Tabucchi,Recuiem,1992.
- 作者:アントニオ タブッキ
- 発売日: 1999/07/01
- メディア: 新書
今日は7月最後の日曜日ですね、足の悪い宝くじ売りが言った。町はからっぽ、木陰にいても40度はある。記憶のなかにしか存在しないひとに会うのには申し分のない一日だと思いますよ。
7月最後の日曜日にはいつも『レクイエム』を開くのがここ数年のならわしになった。陽炎が立ちのぼるような暑さのなかでは、この世とあの世の境が曖昧になっていく。かつて愛した「もう会えない」人々に会いに行くにはうってつけの季節である。
男は、うだるような蒸し暑いリスボンを彷徨する。人と会い、別れてゆく。ただこれだけの物語なのに、なぜこんなにも不可思議な魅力を放つのだろうか。
あんたは両手を広げて風景のなかを通り過ぎる夢遊病者のようなもんさ。あんたが触れるものはみんな、あんたの夢にまざっちまう、このあたしもふくめてね。
主人公は、ごく自然に「追憶の一部」、もういなくなってしまった大事な人と会い、食事をして語らい、そしてまた別れてゆく。何がいいって、偶然に死者たちと会うのではなく、きちんと待ち合わせしているところ。石畳の小道はするりと「あちら」につながっていて、また気がつけば「こちら」に戻っているといった調子。ここに不自然さや奇妙さはほとんどない。
主人公は、わずか1日の間に、生きている人と死んでいる人、既知の人と見知らぬ人、あわせて23人もの人々と出会う。どのエピソードも素敵だったが、「親友のタデウシュ」「灯台守」「ボーイ長」「かつての恋人」「食事相手」が特に好きだった。特に、大事な人であればあるほど、語られる言葉が少なくなるのがいい。最後の「食事相手」は名前を伏せられているが、ポルトガルをこよなく愛するタブッキが会いたい詩人といえば、思いつくのは1人しかいない。
魂には、どんな薬もいかさまだよ、タデウシュが言った。魂は腹を満たして癒すものだ。
なんといっても魅力的なのが、おいしそうなポルトガル料理の数々。主人公はいろいろな死者と食事を共にする。物語中には、サラブーリョやミ―ガス、フェイジョアーダなどが登場して、どれも大変おいしそうでしかたがなかった。幻覚のような世界の中で、料理の香りや味わいだけは不思議と現実的である。奇しくも「イマジネーションの世界に物質の実在感で重みをつけるのが好きだったんだな」と、主人公の親友 タデウシュは述べている。
「あなた、魔法を信じていらっしゃるの? あなたのような方はふつう魔法など信じないものよ」
「いつかまた」と「さよなら」、別れの言葉には、にじむような情と願いがこめられている。人生は出会いと別れの繰り返し、そして永遠のさよならで幕を閉じるが、きちんと別れを告げられた相手がこれまでどれほどいるだろうか?
わたしはよく、こんな風に思うのです。帯状疱疹というのは、どこか悔恨の気持ちに似ているとね。わたしたちのなかで眠っていたものが、ある日にわかに目をさまし、わたしたちを責めさいなむ。そして、わたしたちがそれを手なずけるすべを身につけることによって、ふたたび眠りにつく。でも、けっしてわたしたちのなかから去ることはない。
人とじょうずに別れるのはとても難しい。だから、主人公が「さよなら」を告げようと、もう会えない人に会いに行く素朴さに、私はある種の驚嘆を覚える。誰もが望み、そして諦めた寂しさを、タブッキはあたかもどこにでもある日常のワンシーンのように扱う。
最後の一文までが透徹して素晴らしい。大事な人を失った寂しさには、こういうなぐさめの方が腹に効く。
これからここに来るひとは、ぼくの追憶の一部なんです。アレンテージョ会館のボーイ長は、キューを大に置きながら、物憂げなほほえみを浮かべた。気にすることはありません、彼は言った。そうしたお話でしたら、この場所はうってつけです。この会館にしたところで、ひとつの追憶にすぎないのですから。
アントニオ・タブッキの著作レビュー:
『供述によるとペレイラは…』
『インド夜想曲』
『島とクジラと女をめぐる断片』
recommend:
フェルナンド・ペソア『不穏の書、断章』…「あなたは魔術師だ」とタブッキは言う。
オクタビオ・パス『オクタビオ・パス詩集』…静止する正午。
追記:
「『レクイエム』はいい」と、とある本読みさんに勧められて、積読棚から発掘して読んだ。ちょうど暑い季節になる。もう少し暑くなって、この世とあの世の境が曖昧になったら、もう一度読んでみたいと思う。教えてくれてありがとう。
それにしても、年を取ればとるほどタブッキが好きになっていくなあ。