『外は夏』キム・エラン|心はあの季節に静止したまま
「理解」は手間がかかる作業だから、横になるときに脱ぐ帽子みたいに、疲れると真っ先に投げ捨てるようにできてるの。
ーーキム・エラン『外は夏』
季節や年月は、すべての人に平等にやってくる。
だがそれは物理法則の話であって、心について言えば、そうとは限らない。
季節や年月は、人によって過ぎ方が違う。吹き飛ぶように過ぎたり、同じ季節のままずっと静止し続けたりする。
携帯電話の中の訃報を思い出しながら、ふとスノードームの中の冬を思った。球形のガラスの中では白い雪が舞い散っているのに、その外は一面の夏であろう誰かの時差を想像した。
この短編集には、外は夏なのに心はまったく違う季節を生きている人、静止した時間を生きている人たちが登場する。
静止の理由は、喪失だ。
登場人物たちは、子供や親、配偶者など、身近な人を突然に喪失して、呆然としている。現実の世界と、自分の中に蓄積した世界の落差に驚いてとまどっている。
身近な人を亡くす喪失だけではなく、幼い純真の喪失、かつて持っていた愛情の喪失、子供の成長による「自分が知っている子供」の喪失など、その種類は多岐にわたる。
一緒に暮らす人の気配と混じるから意識したことがなかったのだが、夫がこの世を去ってから自分が足を引きずる音、自分が使う水の音、自分が占めるドアの音の大きさに気づいた。もちろん、その中でもっとも大きいのは私の「言葉の音」、そして「考えの音」だった。相手がいないから相手に向かって伸びていくことのできない、他愛のない日常的な言葉が口元でぎこちなく空回りした。二人だけで使っていた、一緒に作った流行語、相槌のパターン、ベッドの中での密談と陰口、いつ終わるとも知れない小言、冗談とあやす言葉がずっと家の中を漂っていた。ガラス窓に頭を打ちつけて死んだ鳥みたいに、その都度あなたの不在にぶつかっては床に墜落した。そんなときの私はバカみたいに「あ、あの人、もういないんだった……」と、その事実にはじめて触れた人のように思い知らされていた。
人は傷ついたりなにかを失った時、まず呆然として、静止した時間を過ごし、痛みが自分に染みわたるのを眺める。やがてゆっくりと時が動き出して、痛みを自覚し、回復へと向かっていく。
『外は夏』の人たちは、喪失からまもない段階にいる。だからその語りからは、痛みがじわじわと漏れ出てくる。
それでもわかれる人間は結局、わかれるものなの。誰が悪いわけでもなく、お互いが最善を尽くしても、そうなることもあるのよ。自分だけの存在の仕方と重力があるせいで。会わないんじゃなくて会えないの。猛スピードで地球のすぐ脇を通り過ぎていく恒星みたいに。……お互い通りすぎる途中で燃え尽きちゃったわけ。大人って、そういう煤が体の中にいっぱいある人のことを言うのかもしれないな。
深い群青の底にもぐっていくような短編集だった。とても静かで、群青色の透明な吹きグラスを思わせる。そのグラスは、ヒビが入っていたり、落ちそうな危うい場所に置いてあったり、粉々になる寸前の落下途中だったりする。
しかし、ただ壊れやすい危うさだけではない。その底には、喪失する他者への強い情が沈んでいる。
愛があるから、喪失の悲しみも深くなる。悲しみに深くもぐればもぐるほど、回復の水面は遠くなる。だが、これはもうしょうがない。悲しんでいる時は、回復を期待したり行動したりなどできない。ただ遠い水面を見上げて、こんな遠いところまで来てしまった、と呆然とするばかりだ。
同じ時期に、ハン・ガン『回復する人間』を読んですぐに『外は夏』を手にとったものだから、続けて似た雰囲気の韓国小説を読む偶然に驚いたものだが、それは偶然なんかではなくて、自分で「呆然として回復する兆しが見える小説」を選んでいたのかもしれない。
収録作品
気に入った作品には*。
立冬*
幼い子を亡くした夫婦が、新居で呆然とし続けている。喪失、呆然、痛み、回復の兆し、という流れがすべて入っている。子供がいる身なので、たいへんつらい気持ちになったが、印象も深い。
ノ・チャンソンとエヴァン
両親を失い孤児となった少年が、捨て犬を拾ってエヴァンと名づける。貧乏ゆえに、同年代の子供があたりまえに持っている携帯電話すら持てず孤立していた少年が、同じく孤立していた犬と心を通わせるハートフルストーリー……かと思いきや、想定外のほうへ向かっていく。少年はこの小説でさまざまなものを喪失するが、その中にはきっと自分自身も含まれている。貧困は残酷の母だ、と思った。
向こう側*
同じ学問を志し、順調に試験に合格して出世する女と、試験に合格できず職を転々とする男のカップル。男がどうにかして一発逆転を狙おうとしたり、見栄を張って高価な買い物をしたり、金があるふりをしたりするあたりが「男の見栄」で読んでいて悶えた。悲しみの石鯛小説でもある。
沈黙の未来
絶滅寸前の少数言語の使い手たちを集めた博物館。ソーンダーズ『パストラリア』に似た設定の作品があったが、ソーンダーズがブラックユーモアに寄せるのにたいして、キム・エランは「喪失」に焦点を当てる。失われることを自覚している者たちの独白。
風景の使い道
大学講師の語り手が同乗していた車が、交通事故を起こす。読んでいた韓国文学の短編集に交通事故の描写が続いたので、韓国において車は必要不可欠だから交通事故の恐怖があるのかと思った。組織における上下関係の厳しさは、軍隊経験と儒教文化ゆえか。韓国企業と仕事をしていた時にも同じ抑圧を感じた。
覆い隠す手**
自分の息子が、暴力事件の告発ビデオに映っていた。息子は手を下しているわけではないことはわかっている。だが、なぜあの行動を? 最後まで読んで、タイトルの凄みにびっくりした。不穏さのさじ加減は、本書随一。母親がつくっているごはんがとてもおいしそうなことが唯一の救い。本書の中ではいちばん好きだった。
どこに行きたいのですか
夫を亡くした妻が、呆然とするままにスコットランド・エディンバラの親戚の家に泊まりに行く。Siriからの問い「どこに行きたいのですか」に対する答えを、彼女は持ち合わせていない。「喪失、呆然、痛み、回復の兆し」を書いてあり、「立冬」と対をなす作品。
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韓国文学。「光」という言葉とは裏腹に、「薄闇」の心を描いた短編集。白黒つかない心、さまざまな濃淡のあるグレーの心を描く。薄暗い心を、批判せず、そのままに大事にする小説。
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"「君はどうして戦争にいつまでもこだわり続けるんだ?」「世の中には後始末をするのに時間がかかるひとだっているのよ。そういうふうにできているんだからしかたがないの」"