ボヘミアの海岸線

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『中央駅』キム・ヘジン|彼方からくる最悪を待つ

プライドや自信。そういうものが本当にあるとすれば、それは自分の手で捨てられるものではない。捨てるのではなく、心ならずも落としてしまうのだ。そして、二度と取り戻せなくなるのだ。今や俺にできることは、かなたからくる最悪を待つことだけだ。

ーーキム・ヘジン 『中央駅』

 

貧困に至る道は、行きと帰りの困難さが違っている。貧困には階段を下るようにゆっくりと降りていく。いざ貧困から抜け出そうとすると、これまで降りてきた高さだけの断崖が目の前にそびえ立つ。

かつていた場所に戻るには、相当な時間と補助と努力と運が必要なのだが、疲れ切っている人たちにはもうふんばる余力が残っていなかったり、補助と運がやってきてもみずからその手を放してしまったりする。

 

中央駅

中央駅

  • 作者:キム・ヘジン
  • 発売日: 2019/11/12
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

韓国を思わせる都市の「中央駅」に、語り手の男性がスーツケースのみで漂着して、路上生活を始める。おそらく彼はなにかから逃れてホームレスとなるのだが、理由は語られない。

俺には金がある、こんな場所からはいつでも出られる、周囲のやつらとは違うのだ、と周囲を見下して、男はプライドを保とうとするが、女のホームレスにあっというまに全財産を盗まれてしまい、人生が想定外の方向へと転がり落ちていく。

これがどん底だと思ってるでしょ。 違うよ。底なんてない。 底まで来たと思った瞬間、 さらに下へと転げ落ちるの――

 

男とともにすべり落ち続ける読書だった。

「もっと落ちるかもしれん、『これがどん底』などといえるあいだはほんとうのどん底ではないのだ」とリア王は言った。絶望を味わった王を思わせる女の言葉どおり、事態は少しずつ、確実に悪くなっていく。

諦めや放棄というものを、なにも経験しないで身につけられたら楽なのに。

生活の苦しみと愛の苦しみ、人生におけるつらさを限界まで煮詰めていく小説で、ここ数年に読んだ本の中でもトップクラスのつらさを誇る。

貧困や持ち物がない外面と、不安や怒りや絶望という内面、どちらにもまったく安定したところがない。こんな状況にいたら、誰だって心の底から降参してしまう。

その中で唯一、女の存在、女への感情だけは、はっきりしている。

腐臭と悪臭と執着と不安と性欲と情愛にまみれた感情を、男は「愛」と呼んではためらう。この名状しがたい原初の混沌めいた感情が愛なのかはわからない。一方で、嵐の中の灯台みたいな存在に向ける一心不乱の感情が、愛でなくてなんなのか、とも思う。

俺は一人になるのが嫌で女にしがみついているのかもしれない。そんなのを愛と呼べるのか。

 

男とともにすべり落ち続けていって、最後まで読み終わってから冒頭に戻り、あまりの落差に呆然とした。

中央駅はいつでも中央駅で、状況は少しずつ悪くなっていったはずなのに、最初と最後では、人の心と世界が根こそぎ変わってしまっている。

振り返れば、根こそぎ激変したのは「希望」と「未来への時間感覚」だったと気づく。

人間は、希望が容赦なくすりつぶされ続けると、傷つくことを避けるために希望を殺しにかかり、未来を考えようとしなくなる。そして、今この瞬間の苦痛をやわらげたり、欲望を満たすだけの行動ばかりになる。

未来がよくなる見込みは遠ざかり、援助の手も遠ざかり、一日を生き延びる苦痛が増して、ますます「今この瞬間」のことしか考えられなくなる悪循環にずるずると落ちていってしまう。

 人生は、言うことをきかない子供のようにいつも好き勝手にふるまうくせに、いざ見切りをつけようとすると、目に涙をいっぱいためて俺をじっと見上げる。もう一度くらいチャンスをやってみようか。すると俺はまた例外なく裏切られて、こうして窮地に追いやられるのだ。今度はそうあってはならない。なにもするまい。これ以上チャンスをやるまい。

 

「なぜ貧困層は、未来につながる行動をせず、酒を飲んだり仕事を放棄したり、場当たり的な行動ばかりするんだ」と、安定した立場にいる人間は、冷たい目線で問う。それにたいして著者は、追い詰められていく人間の時間感覚とその変化を、おそるべき筆致で描くことで答える。

人間は、どれほどつらい状況でも、未来を考えて期待したり不安を覚えたりする。しかし、その先には、希望を捨てて未来を放棄した人間の住む地平がある。恐ろしい、とても恐ろしい小説だった。

路上で一度失ったものは二度と取り戻すことはできない。羞恥心や侮辱感の次はまた別のものを差し出さなければならず、差し出すものがなくなるまで失い続け、ついにすべてを失った自分自身の姿を想像するのは切ないことだ。

今でもそういうものを希望と呼べるならば。

 

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