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『ゼアゼア』トミー・オレンジ|都市インディアンよ語れ、その身にうけた虐殺を

銃弾と成り行きはさまよい、今もまだ不意をついてわたしたちの身体に降りかかる。

ーートミー・オレンジ『ゼアゼア』

 

銃弾によって開幕し、銃弾が重要な役割を果たす小説『ゼアゼア』は、小説そのものも銃弾のようだ。

銃弾のような言葉には、信念、理想、怒り、呪い、これらの激情がこめられていて、不意打ちのように現れては、読み手を貫く。

ゼアゼア

ゼアゼア

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21世紀のカリフォルニア州オークランドに住む、都市インディアンの群像劇である。

都市インディアンは、都市部に暮らすアメリ先住民族だ。狩猟経験もテント生活も経験がなく、大自然よりも都市の騒音と高層ビルに慣れ親しんでいる。名前や顔立ちはインディアンで、インディアンとしてのアイデンティティはあるが、祖先の文化はWikiYouTubeから学んでいる。

インディアンでありながら、保留地に暮らすインディアンほど伝統的ではない。

この曖昧なアイデンティティ、すべての場所で感じる余所者感、帰るべき大地がどこにもない悲しみが、詩人ガートルード・スタインの言葉「ゼア・イズ・ノー・ゼア・ゼア(そこにはそこがない)」に重ねられる。

わたしたちはバスや列車や車に乗り、コンクリートの平原を渡り、越え、その地下へもぐる。インディアンでいることは、大地へ帰ることではない。大地はいたるところにあって、どこにもない。

 

貧困、アルコール依存症、若くしての妊娠、性犯罪、ドラッグ。先住民コミュニティが抱える問題を、都市インディアンたちも抱えている。

だが、作者はシビアな生活を描きつつ、「弱々しく哀れなインディアン像」に否を突きつける。他者から憐れまれるようなダメな存在ではない、そのように自分たちを認識すべきではない、と語る言葉には強い感情が満ちていて、安直な同情を拒む。

それから、もっと重要なことですが、そんな風に描かれているからこそ、僕たちコミュニティは哀れでだめな人たちのように思われ、自分たちでもそんな風にとらえ続けてしまっているというか、でも同時に、ふざけんなって思ってるんです。

 

作者の語りは、現代の生活だけにとどまらず、数百年にわたる歴史を横断する。「プロローグ」と「幕間」は、この小説を支える骨格だ。この骨格がなければ、本書はよくある現代群像オムニバスにすぎなかっただろうと思う。

都市インディアンたちの生活が、過去に流された大量の血、奪われた大量の命とすべての土地に接続して、インディアンの集会パウワウへと収束していく展開は、迫力がある。

インディアンであることがどんなことなのか、他人にとやかく言わせてはだめ。今この瞬間、ここ、このキッチンに、ほんの何人かが生きていられるようになるまでに、あまりにもたくさんの人が命を落としてきた。あんたとあたし。生かしてくれたあたしらの仲間のすべてが尊い。あんたはインディアンなんだと言ったらインディアンだし、とにかくインディアンなの。

 

過去と現在の物語を編んで織り上げた血と涙のタペストリーに、銃弾を撃ちこむような小説だと思った。

虐殺は過去ではない、今もまだ形を変えて続いているのだ、というメッセージが、時を超えた銃弾となって、小説全体を貫いている。アメリカの象徴たる銃弾をこのように使うとは、呪われたようにアメリカ的だ。

語られなかった都市インディアンの物語を記録しようとする意思、アメリカ人が忘れはてた血と虐殺の歴史を忘れないようにしようとする意思を感じる。

銃弾と成り行きはさまよい、今もまだ不意をついてわたしたちの身体に降りかかる。

わたしたちは何マイルも離れたところからやってくる。何年も、何世代も、いくつもの人生をかけてやって来て、それらすべてが祈りと手織りの衣装に織り込まれ、ビーズ刺繍をほどこされて縫い合わされ、羽根飾りがつき、編み合わされ、祝福され、呪われている。

この小説を読んだら、感謝祭の祝祭ムードとお祭り騒ぎを、同じようには見れなくなる。感謝祭は、白人にとって恩恵と収穫の日だが、先住民にとっては虐殺と略奪の日なのだ。

感謝祭が歴史の文脈を失い、感動物語と消費主義に飲まれても、『ゼアゼア』の都市インディアンは「インディアンとして踊り、歌い、受け継いでいけ」と語る。

どうして、と別の都市インディアンが問う。都市インディアンは答える。

「そうしないとどこかへ行ってしまうから」

 

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