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『グールド魚類画帖』リチャード・フラナガン|流刑地で花開く、狂気の夢

膿んだ腫れ物に口づけした。潰瘍だらけの、膿がたまって腐りかけたくぼみだらけのやせ細ったすねを洗った。おれはその膿であり霊であり神であり、自分自身にすら解釈できず知ることができない存在だった。そのためにどれほど自分を憎んだことか。おれが愛した、おれでもある世界を、どれほど試してみたかったことか。

ーーリチャード・フラナガン『グールド魚類画帖』

 

いろいろな作家の小説を読んで、これはすごい、この世界観はやばい、この発想はなかった、などなど、いろいろな好きポイントがあるものだが、よくわからないけどもう全部が好き、と思う作家は少ない。

 リチャード・フラナガンは、数少ない「よくわからないけどもう全部が好き」な作家だ。訳出されている2冊『グールド魚類画帖』と『奥のほそ道』がどちらも好きすぎるし、訳出されていない原書はすべて買った。

なぜ私がフラナガン作品を好きなのかを考えたところ、おそらく私はフラナガンが描く「境界の曖昧な世界」、人間の光と闇が混じりあっている清濁併せ呑んだ世界、腐敗と再生がめぐる世界が好きなのだと思う。

 

もしタスマニアが、人がまともな職につき、渋滞に巻き込まれて時間を過ごし、ありきたりな心労に押しつぶされそうになりながら長い時間を過ごしてありきたりのねぐらに帰り着くまで辛抱しているようなありきたりの場所なら、シーホースでいるのはどんなだろうと空想する者もいない場所なら、魚になるというような異様な事態はたぶんだれにも起こらないのかもしれない。

 

 本書は、19世紀にグールドという名の絵描きが書いた「魚の本」を、20世紀のオーストラリア人が発見して読んであまりの面白さに仰天した、という体裁の作品だ。 

舞台は19世紀、英国の植民地オーストラリア・タスマニア。 イギリスで捕まった画家グールドは、「流刑の地」タスマニアの孤島サラ島に、囚人として流刑される。

囚人の島は「司令官」を頂点とした、途方もない暴力と狂気が渦まく土地だった。人の命は驚くほど軽く、少しでも反抗すれば死が待っている。 文字を書くことが禁止される中、グールドは自分の血や排泄物などをもちいて、執念深く「魚の本」を書き続ける。

 

島が囚人たちの監獄という舞台は、史実に基づいている。

19世紀当時のオーストラリアはイギリスの流刑地であり、国そのものが隔離監獄、「イギリス社会にとって不必要な人間を捨てる場所」だった。イギリスは産業革命で多くの労働者が失業し、治安が悪化して監獄が満員だった。余剰人間の「掃き溜め」として、オーストラリアは選ばれた。

流刑された人たちの多くは、窃盗者あるいは政治犯などの軽犯罪者だった。100年の間に約16万人近くの人が流刑されたという。グールドもまたほとんど冤罪に近い状態でタスマニアに流刑されている。

 

本書は狂ったエピソードが満載だが、とりわけ印象的だったのが、流刑地で花開く「狂気の夢」だ。

アメリカやラテンアメリカといった植民地において、入植者は多かれ少なかれ、なにかしらの野心と狂信を抱いている。植民地は、本国ではとうてい叶わない階級の入れ替え、あわよくば王になる夢が現実になりうる土地だからだ。

後世の子孫たちは「開拓者」や「伝道師」といったきれいな言葉で歴史を飾り立てようとするけれど、その実やってきたことは「略奪」「殺人」「支配」であると、本書を読んでいるとよくわかる。

本書では、権力者である「司令官」「外科医」の狂気と夢が開花して、現実を蹂躙しにかかる。

司令官は、孤島にいつか世界中の人が訪れること、その王国に王として君臨することを夢見て「支配の象徴」を作り出すことを夢見る。外科医は、本国で認められる名誉のために、狂気の研究に没頭する。

途方もない狂気の夢を現実にするために、他者の命をすりつぶしていく描写は、『奥のほそ道』に共通している。両作品とも読んでいるとつらくなるのだが、『グールド魚類画帖』のほうが振り切れてトチ狂っていて、笑いすら出てくる。狂気は純度が高ければ高いほど、ユーモラスになるものだ。

 

腐臭を放つグールドの魚ゆえに、私たちーー私たちのもろもろの歴史、私たちの魂ーーは、絶え間ない分解と再生の過程にあるのだと私は信じるようになり、この本は、堆肥の山のような私の心の物語であることに気づくこととなった。

 

フラナガンの世界では、境界がどろどろに溶けている。正気と狂気、現実と夢、創造と腐敗、分解と再生、光と闇が、互いに侵食しあいながら、土地と小説の表面に、粘菌のように広がっていく。

人間は自然の分解になすすべもない腐臭を放つ膿であり、世界創造を夢見る神でもある。

狂った夢の実現とその崩落を読んでいると、まるで人類の歴史を早送りで眺めているような、人類が滅亡して廃墟となった世界を見ているような、アポカリプスな気持ちになる。

膿んだ腫れ物に口づけした。潰瘍だらけの、膿がたまって腐りかけたくぼみだらけのやせ細ったすねを洗った。おれはその膿であり霊であり神であり、自分自身にすら解釈できず知ることができない存在だった。そのためにどれほど自分を憎んだことか。おれが愛した、おれでもある世界を、どれほど試してみたかったことか。

 

本書のほとんどが糞尿と血と膿にまみれているのに、時折びっくりするほど美しい描写がある。それは、闇に慣れた目で太陽を見た時の残像みたいに、目に突き刺さったまま今も残っている。こういう強烈な残像を残す作品にはめったに出会えない。

恐ろしく醜悪で、たまに嘘かと思うほど美しい狂気の夢は、人類の歴史そのものという気がする。最後の一文まで、すばらしい狂気の夢に満たされた。

おれは神で、膿で、おれだったものは"あんた"で、"あんた"は"神聖"で、"あんた"の足、"あんた"の内蔵、"あんた"の恥丘、"あんた"の腋の下、"あんた"のにおいと"あんた"の音と味、"あんた"の堕落した”美、おれは"あんた"の心象のなかで"神聖"で、おれは"あんた"で、おれはもうこの広大な陸地を思い焦がれてはいなくて、なぜどんな言葉も、おれがどれほど傷つき、痛み、別れを告げているか語ろうとはしないのだろう?

 

グールド魚類画帖

グールド魚類画帖

 

 

リチャード・フラナガン作品の感想

 

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