ボヘミアの海岸線

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『サンセット・パーク』ポール・オースター|ホームを失った廃屋のアメリカ

なぜ自分はいま戻ることを選んだんだ? 選んだのではない。彼を殴り倒し、フロリダからサンセット・パークなる場所に逃げることを敷いたあの大きな拳骨が彼に代わって選択したのだ。やはりこれもまたサイコロの一振り、黒い金属の壺から掴み取ったもう一枚の宝くじ、さまざまな偶然とはてしない騒乱から成る世界におけるまたもうひとつの偶然なのだ。

ーーポール・オースター『サンセット・パーク』

 

いつかは終わることがわかっている、仮暮らしの生活をしていたことがある。当時、私は2年の間に5回、住処を変えた。1つは気まぐれ、1つは計画、残りは拒否しようがない事情と偶然だった。

ある住処から1か月以内に退去しなければならないけれど、行く場所がなにも決まっていなかった時、Facebookで偶然に「半年だけの同居者を求める、家賃は4万、条件はお互いの事情に口を挟まないこと」という先輩の告知を見つけた。なんという、うってつけの条件。これが小説の草案だったら「都合がよすぎる」と却下されるであろう偶然に恵まれた私は、スーツケースに荷物をまとめて布団を背負い、タクシーで引っ越しをした。 あれはなかなかにオースター的な偶然、『サンセット・パーク』的な日々だったと思い出す。

 

サンセット・パーク

サンセット・パーク

 

 

空き家の残存物撤去、捨てられたものたちの写真から始まり、廃屋を舞台とするこの小説は、「捨てられた家、捨てられた家族」 をめぐる小説だ。 

舞台は2010年ごろ、リーマン・ショック直後のアメリカ。28歳の青年マイルズは、のっぴきならない事情でもとの家を引き払い、ニューヨークにある霊園そばの廃屋、サンセット・パークに移り住む。サンセット・パークに、お互いに面識のない4人の男女が集まる。家賃は無料、水と電気は使える、滞在はもちろん違法の不法滞在だ。

 小説の中心となる青年マイルズは、自罰的な理由で、己の人生を打ち捨てている。大学を中退して、家族と絶縁状態で家出してからは、ほとんどなにも持たず、安月給の仕事を心を無にしてこなし、精神的に半分死んだような生活を送っている(それでも「本は贅沢品ではなく必需品」として買っているあたりがオースターらしい)。

他の3人も、恋人と別れたり、仕事がなかったり、人に言えない過去と痛みを抱えていたり、それぞれの過去と事情がある。

何の計画も持たないこと。すなわちなんの渇望も希望も持たず、現状に満足し、日の出から日の入りまで世界が分け与えてくれるものを受け入れる。そういうふうに生きるには、ほとんど何も、人間として可能な限り何も欲しがってはならない。

 

「都市の中で一時停止している若者」「宙吊りの生活」という設定は『ムーン・パレス』のモラトリアム青春ぶりを思わせるが、読んでいくうちに、『サンセット・パーク』は、若者たちの青春小説というよりは、若者と親世代にわたる「家族」と「家」の小説なのだと気づく。若者の視点だけでなく、子を思う親の視点が、同じくらいの重さをもって描かれる。

本書の中心となる「home」(家・家族)は、希望を抱くための安心できる場所であると同時に、近づいたかと思えば遠ざかる不安定な場所だ。

愛はhomeを回復したいと願うが、くりかえし現れる、「暴力の手」のモチーフがhomeを壊しにかかる。

 

 

この小説が、リーマン・ショック直後のアメリカを舞台にしていることは示唆的だ。

リーマン・ショックは、サブプライム・ローン(住宅購入向けローン)の不良債権化によって引き起こされ、多くの人が巨額の借金を背負ったまま、マイホームを失った。アメリカのマネーゲームという巨大な拳が、多くのアメリカ人の家と家族を破壊して、不安定な人生へと突き落とした。

マイルズはとても恵まれている青年で、家は裕福で知的で、家族と友人と恋人に愛されている。そんなマイルズでも、homeを失うし、いちど失ったら取り戻すためには、努力と運と愛がいる。取り戻せても、また維持できるかはわからない。

 そしてマイルズは自分に問う、 未来がないのに未来に希望を持つのは意味があるんだろうか。

 

人は深く傷ついている時にも希望を持たずにはいられないが、未来を夢想するには、あるていど安心できる居場所、逃げ帰る場所、homeが必要だ。

しかし、本書のアメリカは廃屋のアメリカだ。安定した家、いつでも戻れるhomeは、もはや夢の向こうに消えてしまった。だから結末、マイルズはあんなふうにつぶやいたのか。

それにしても、かつて「Home, sweet home」と人々が歌ったアメリカの、なんと生きづらくなったことか!

ホームレスのなかにもあるホーム、僕たちはもうみんなホームレスなんだよ……

 

ポール・オースターの著作レビュー

 

Memo:アメリカの車上生活者

アメリカでは、家賃の高騰により、車上生活をせざるをえない人たちがどんどん増えている。とくにシリコンバレーやシアトルといった大都市で、その割合は増え続け、問題となっている。オースターがこの小説を書いたときは廃屋で、水も電気もあったが、それから10年が経って、車上生活者が増えて、家はますます失われつつある。

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