ボヘミアの海岸線

海外文学を読んで感想を書く

『JR』ウィリアム・ギャディス|僕はアメリカ!

−−できることでもやったら駄目なんだ…… −−何で? −−向こうにいるのは生きた人間だからだ、それが理由さ! ――ウィリアム・ギャディス『JR』 僕はアメリカ 全940ページに1.2kgというその異形ぶりから、2018年末の読書界隈を震撼させた怪物、ウィリアム・ギャデ…

『蜂工場』イアン・バンクス|荒野と呪術の子供たち

どの人生も象徴をかかえこんでいる。人の行為はどれをとってもひとつの宿命の波紋に属していると、ある程度は言えるだろう。…<蜂工場>はそうした宿命の波紋の一環だ。なぜなら、それは生の一断面であり――むしろそれ以上に――死の一断面だからだ。 ――イアン…

『自転車泥棒』呉明益|誰にも話せなかった傷と痛み

「まあ、ふたりとも、自分の人生のねじをどこかで落としてしまったんだろう。自分のことが、自分でもわからない」 「会話のスイッチが壊れているんだ」 「そう、壊れている」 ――呉明益『自転車泥棒』 話せなかった傷と痛み 痛ましい出来事によってうまれた傷…

ブログの名前を変えた

ブログの名前を「キリキリソテーにうってつけの日」から「ボヘミアの海岸線」に変えた。 キリキリソテーという名前に愛着はあるが、この名前でブログを書いて11年になるし、長いし(Twitterでつぶやくと長いなといつも思う)、そろそろ変えてみてもよいかな…

『死体展覧会』ハサン・ブラーシム|ナイフと脳髄が飛んでゆく

「君は震えているな」 ――ハサン・ブラーシム『死体展覧会』 暴力と殺戮と幻視 イラク生まれの作家ハサン・ブラーシムは、混濁したイラクの日常を煮詰めて、澄み切った暴力の結晶として描く。暴力の結晶は赤黒い光を放って乱反射して、血と脳髄とナイフが飛び…

『ジーザス・サン』デニス・ジョンソン|麻薬中毒者は祈る

何をしたらいいのか、こいつにはどうやってわかるのか? 俺の目の端に映る美しい女たちは、俺がまっすぐ見ると消えた。外は冬。午後には夜になる。暗い、暗いハッピーアワー。俺にはルールがわからなかった。何をしたらいいのか、俺にはわからなかった。 ――…

『こびとが打ち上げた小さなボール』チョ・セヒ|人間扱いされない世界

天国に住んでいる人は地獄のことを考える必要がない。けれども僕ら五人は地獄に住んでいたから、天国について考え続けた。ただの一日も考えなかったことはない。毎日の暮らしが耐えがたいものだったからだ。 ――チョ・セヒ『こびとが打ち上げた小さなボール』…

『野蛮なアリスさん』ファン・ジョンウン|最低な世界は最低だ

まだ落ちてて、今も落ちてるのだ。すごく暗くて長い穴の中を落ちながら、アリス少年が思うんだ、ぼくずいぶん前にうさぎ一匹追っかけて穴に落ちたんだけど……そんなに落ちても底に着かないな……ぼく、ただ落ちている…落ちて、落ちて、落ちて……ずっと、ずっと………

『菜食主義者』ハン・ガン|境界の向こうに行った人

ふとこの世で生きたことがない、という気がして、彼女は面食らった。事実だった。彼女は生きたことがなかった。記憶できる幼い頃から、ただ耐えてきただけだった。 ――ハン・ガン『菜食主義者』 境界の向こうに行った人 人間という業の深い生物にうまれ、不幸…

『すべての、白いものたちの』ハン・ガン|白をたぐりよせて葦原へ

顔に、体に、激しく打ち付ける雪に逆らって彼女は歩きつづけた。わからなかった、いったい何なのだろう、この冷たく、私にまっこうから向かってくるものは? それでいながら弱々しく消え去ってゆく、そして圧倒的に美しいこれは? ――ハン・ガン『すべての、…

『はるかな星』ロベルト・ボラーニョ|彼は怪物の詩人

誰にも見られずに落ちていく星はあるのだろうか。 ――ロベルト・ボラーニョ『はるかな星』 怪物の詩人 「誰にも見られずに落ちていく星はあるのだろうか」。フォークナーの詩から始まる『はるかな星』は、チリの詩人たちにまつわる物語だ。チリは「石をどけれ…

『ピノチェト将軍の信じがたく終わりなき裁判』アリエル・ドルフマン|チリに満ちる悪の惨禍

チリの誰もが気づいていた。本当に何が起きているのかを知っていた。近くの地下室で遠い砂漠で、果てしなく起きていることを知っていた。果てしなく起きる。これが抑圧の病的ロジックである。止むことなく続くというのがテロルの定義なのだ。 −−アリエル・ド…

『チリ夜想曲』ロベルト・ボラーニョ|悪は沈黙する

チリよ、チリ。いったいどうしてお前はそんなに変わることができたのだ?…お前はいったい何をされたのだ? チリ人は狂ってしまったのか? 誰が悪いのだ? ――ロベルト・ボラーニョ『チリ夜想曲』 沈黙、語りたくなかったもの ボラーニョの小説はドーナツの穴…

『凍』トーマス・ベルンハルト|人間の形をした液体窒素

きみは恐れているのか。違うって。どっちなんだ。人類をか。観念をか。 ――トーマス・ベルンハルト『凍』 人間の形をした液体窒素 『消去』を読んで以来、トーマス・ベルンハルトには、遠い異国に住んでいる親族に寄せるような、淡い親近感を抱いてきた。 世…

『火を熾す』ジャック・ロンドン|命の炎が燃え上がる

犬の姿を見て、途方もない考えが浮かんだ。吹雪に閉じ込められた男が、仔牛を殺して死体のなかにもぐり込んで助かったという話を男は覚えていた。自分も犬を殺して、麻痺がひくまでその暖かい体に両手をうずめていればいい。そうすればまた火が熾せる。 ――ジ…

『アルグン川の右岸』遅子建| 消えゆく一族の挽歌

私はすでにあまりに多くの死の物語を語ってきた。これは仕方のないことだ。誰であれみな死ぬのだから。人は生まれるときにはあまり差がないが、死ぬときは一人ひとりの旅立ち方がある。 ――遅子建『アルグン川の右岸』 消えゆく一族の挽歌 人生は、死というゆ…

『冬の物語』イサク・ディネセン|世界に爪痕を残す

ペーターはなんとなく察しをつけた。不滅という言葉は、こういう状態のことを言うのだろう。もう、これから先も、過去のことも、考えるのをやめた。この時間だけが彼をとらえた。 ーーイサク・ディネセン『冬の物語』 世界にかすかな爪痕を残す 「あなたはヨ…

『ボルヘスのイギリス文学講義』ボルヘス |円環翁が愛する英文学

作品のなかに幻想性だけを見ようとする人は、この世界の本質に対する無知をさらけだしている。世界はいつも幻想的だから。<BR>――ボルヘス『ボルヘスのイギリス文学講義』ボルヘスが愛する英文学周りを見ている限り、ボルヘスとの付き合い方は4つある。なに…

『トールキンのベーオウルフ物語』J.R.R.トールキン|英雄の悲哀と孤独

わたしは心を決めました。貴国の方々の切なる願いを完全に成し遂げてみせよう、さもなければ、敵の手にしかとつかまれ、殺されようともかまわないと。騎士にふさわしき勲功を上げるか、この蜜酒の広間がわたしの最期の日を待ち受けるかどちらかなのです! ――…

『ヌメロ・ゼロ』ウンベルト・エーコ|ニュースと陰謀の融解

アメリカ人はほんとうに月に行ったのか? スタジオですっかりでっち上げたというのもあり得なくはない。月面着陸のあとの宇宙飛行士の影をよく観察すると、どこか信用しがたい。それに、湾岸戦争はほんとうに起こったのか。それとも、古いレパートリーの断片…

『舞踏会へ向かう三人の農夫』リチャード・パワーズ|写真という爆心地

写真を見るだけで、三人が舞踏会に予定どおり向かっていないことは明らかだった。私もまた、舞踏会に予定どおり向かってはいなかった。我々はみな、目隠しをされ、この歪みきった世紀のどこかにある戦場に連れていかれて、うんざりするまで踊らされるのだ。…

『最初の悪い男』ミランダ・ジュライ|自己防衛の孤独から抜け出して、他者へ

効果は、一応はあった。ただし"アブラカタブラ"と唱えたらウサギが消えました、じゃん! というような効き方ではなかった。"アブラカタブラ"を何十億回、何万年もかかって唱えつづけているうちにウサギが老衰で死に、それでもまだ唱えつづけているうちにウサ…

『パリに終わりはこない』エンリーケ・ビラ=マタス|自意識・イン・パリ

<<私くらいの年齢になれば、何とかして外見だけでもヘミングウェイに似ているとまわりの人に認めてもらいたくなりますよ>> ーーエンリーケビラ=マタス『パリに終わりはこない』 自意識・イン・パリ 私たち人類は、「褒められたい」「認められたい」と願う生…

『移動祝祭日』ヘミングウェイ|どこまでもついてくる祝祭

「もし、きみが、幸運にも、青年時代にパリに住んだとすれば、きみが残りの人生をどこで過ごそうとも、それはきみについてまわる。なぜなら、パリは移動祝祭日だからだ」 ーーアーネスト・ヘミングウェイ『移動祝祭日』 どこまでもついてくる祝祭 世の中には…

『ボリバル侯爵』レオ・ペルッツ|予告された自滅の記録

「…あの謎めいた意思をなんと呼べばいいんだ。俺たちすべてをこれほどまでに弄び、惨めにしているあれを。運命か、偶然か、それとも星辰の永遠の法則か?」 ーーレオ・ペルッツ『ボリバル侯爵』 予告された自滅の記録 戦いにおいて最も効率がよい勝利方法は…

『ノートル=ダム・ド・パリ』ユゴー|激情うごめく失恋デスマッチ

…こうなるともう、ノートル=ダム大聖堂の鐘でもなければ、カジモドでもない。夢か、つむじ風か、嵐だ。音にまたがっためまいだ。…こんな並外れた人間がいたおかげで、大聖堂全体には、なにか生の息吹みたいなものが漂っていた。 ーーヴィクトル・ユゴー『ノ…

「海外文学・世界文学ベスト100冊」は、どの1冊から読み始めればいいか

#2019年、編集済み。 「海外文学の名作100冊」を分類する 世界文学・海外文学は広大な海あるいは原野のようだ。それゆえ、初心者にとって地図がとても見づらい。「面白い」「古典」「話題になっている」という定性的な物差しはたくさんあるけれど、それだけ…

『メダリオン』ゾフィア・ナウコフスカ|人間が人間にこの運命を用意した

さまざまなところから死亡の知らせが届く。…人びとはあらゆる方法で死んでいく、ありとあらゆるやりかたで、どんなことも口実にして。もう誰も生きていないし、しがみつくもの、守り通すものはないように思えた。死はそれほどに偏在していた。−−ゾフィア・ナ…

『侍女の物語』マーガレット・アトウッド|「男の所有物」となった女の孤独な戦い

わたしたちは二本の脚を持った子宮にすぎない。聖なる器。歩く聖杯。−−マーガレット・アトウッド『侍女の物語』 2017年、Huluがディストピア小説『侍女の物語』をドラマ化して人気を博しているという。トランプ政権になって『1984年』とともに『侍女の物語』…

『密林の語り部』バルガス=リョサ|物語の力、語りの力

<<私たちと違って、語り部のいない人々の生活は、どんなにみすぼらしいものだろう>> −−バルガス=リョサ『密林の語り部』 物語は救う 炎天下の7月末、室内で1日中ただ座っているべし、連絡を待て、ただ待て、という業務命令を受けたので、リョサリョサ『密林…