ボヘミアの海岸線 - 海外文学の感想

海外文学/世界文学/ガイブンの書評と感想ブログ。昔の名は「キリキリソテーにうってつけの日」

『火を熾す』ジャック・ロンドン|命の炎が燃え上がる

犬の姿を見て、途方もない考えが浮かんだ。吹雪に閉じ込められた男が、仔牛を殺して死体のなかにもぐり込んで助かったという話を男は覚えていた。自分も犬を殺して、麻痺がひくまでその暖かい体に両手をうずめていればいい。そうすればまた火が熾せる。

 

命の炎が燃え上がる瞬間

ジャック・ロンドンの「火を熾す」は私が読んだ小説の中でも有数の「極寒」小説で、冬がくるたび折に触れて思い出す。

氷混じりの冬の雨に心が折れそうになると、「火を熾すほどじゃない」とみずからに言い聞かせ、歩く足を速める。マイナス50度に比べれば、0度などハワイのようなものだ。吐く息は凍らないし、凍傷になる心配もないし、生死の境で震えることもない。

火を熾す (柴田元幸翻訳叢書―ジャック・ロンドン)

火を熾す (柴田元幸翻訳叢書―ジャック・ロンドン)

  • 作者: ジャック・ロンドン,新井敏記,柴田元幸
  • 出版社/メーカー: スイッチ・パブリッシング
  • 発売日: 2008/10/02
  • メディア: 単行本
  • 購入: 5人 クリック: 32回
  • この商品を含むブログ (42件) を見る
 

 

 本書は、ジャック・ロンドンが残した200以上の短編のうち9編を選んだアンソロジーだ。「ジャック・ロンドンの多様性を見せたい」と訳者あとがきにあるとおり、収録作品に一貫したテーマはないが、あえてあげるとするなら「生死をかける瞬間」を描いた小説が多い。

人生には時折、生死を賭けて「命の炎」が燃え上がる瞬間、死力を尽くして体と心がむき出しになる瞬間がある。ジャック・ロンドンは、この「命運をわける瞬間」の切り出しかたがうまい。

登場人物が生死をかけて戦う相手は、無情な自然、老い、極限の空腹など、人間よりはるかに強く、古くから無数の命を食らってきたものばかりだ。

登場人物は皆、ひとりでこの化物たちと対峙する。人間の思惑や社会的地位、過去の成功は等しく無力である。意思、生への執着、困難を切り抜ける能力、運だけが、彼らの命運を決める。

 

中でも表題「火を熾す」は壮絶だ。舞台はアラスカ・ユーコン川ほとりの森。気温はマイナス50度以下。ある男が犬を連れて、極寒の森へ踏みこむ。

マイナス50度の世界描写は、読み進めるほどに寒気がしてくる。凍傷の危険、まつげが凍ることなどは知っていたが、マイナス50度になると、つばが空中で凍って爆ぜるらしい。想像を絶する世界である。

時おり、すごく寒いな、こんな寒さは初めてだ、という思いが戻ってきた。…でもまあ大したことじゃない。頬が凍傷になるくらい何だ? 少し痛むだけの話だ。それ以上の大事になったりはしない。−−「火を熾す」

「中途半端に経験を積んだ中級者がいちばん怪我をする」と言われるとおり、男は「想像力が足りない」欠点のために見積もりを誤り、うっかり足を濡らしてしまう。旅を続けるには火を熾して乾かすしかない。そうでないと凍傷になって歩けなくなる。誰もいない極寒の森で歩けないことは死を意味する。 

火は二重の意味で男の「命の炎」であり、火を熾すことは命をつなぐことに直結する。

火を熾し始めてからの描写が迫真すぎて、ジャック・ロンドンは実際にマイナス50度の土地で遭難して凍傷になったのではないか、と思うほどだった。五感をダイレクトに殴りつけてくるこの「極寒胃痛小説」は、読み進めるほどに寒さと胃痛が増していく。

 

「火を熾す」と同じぐらいの胃痛小説が、「生への執着」だ。こちらでは、激しい飢えが登場人物をさいなむ。この作品もまた、ジャック・ロンドンは荒野で2週間ほど飢餓になってさまよった経験があるのでは、と思わせる凄みがある。幻覚モードと最後の数キロの道のりがとくに恐ろしい。

短い作品「生の掟」も、ジャック・ロンドンの死生観を端的に表している。

命は何束かの木切れで量られる。一束、一束と日にくべられ、そうやって一歩一歩死が近づいてくる。最後の一本がその熱を明け渡すとともに、無情な寒さが力を帯び始めるだろう。−−「生の掟」

生死を賭けるほどではないが、重要な転機をかけて戦う作品もある。「メキシコ人」「一枚のステーキ」はどちらもボクシング小説で、それぞれが生きるための金を賭けて戦う。

 

これらの「生死を賭けて命の炎が燃え盛る瞬間」を描いた小説はどれも恐るべき凄みがあり、「人間は極限状態に置かれるとこのような心理になるのか」という驚きと、「絶対に登場人物になりたくない」という強い確信を与えてくれる。

一方、上記で紹介した以外の小説はぼやけていて、あまり印象に残らなかった。けして悪くはないのだが、「瞬間」小説たちがあまりに迫真だったものだから、比較するとどうしても記憶に残りづらい。とはいえ、9作品中5作品が印象に残ったので、短編集としてはそれなりによいと思う。

心が震える物語ではなく、物理的に震える物語を読みたいマゾヒストは楽しめるだろう。読み始める前に、寒さ避けの毛布と、飢え避けのおやつの用意を忘れずに。

 

収録作品

気に入った作品には*。

  • 火を熾す***
  • メキシコ人*
  • 水の子
  • 生の掟**
  • 影と閃光
  • 戦争
  • 一枚のステーキ**
  • 世界が若かったとき
  • 生への執着**

 

アメリカン・マスターピース 古典篇 (柴田元幸翻訳叢書)

アメリカン・マスターピース 古典篇 (柴田元幸翻訳叢書)

 

 「火を熾す」は、こちらのアメリカ名短編アンソロジーでも読める。柴にゃん先生監修。☆5小説の『ウェイクフィールド』ナサニエル・ホーソーン『代書人バートルビー』ハーマン・メルヴィル が収録されているので、ジャック・ロンドン祭りでなくてもいいなら、こちらでもいいかもしれない。

 

Recommend:壮絶な冬の残像小説

「ペーターとローサ」は、「火を熾す」と同レベルの衝撃だった。北欧の流氷がこれほどまでに美しく残酷に書かれた小説を他に知らない。

容赦ない生の掟。天使のような非現実少年と、過酷すぎる現実のギャップが凄まじく吹きすさぶ。

「火を熾す」は犬小説でもある。犬は、毛皮だけで歩き回れるからうらまやしい。