ボヘミアの海岸線

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『ウインドアイ』ブライアン・エヴンソン|「私以外のなにか」になっていく私

彼らが恐れているのは、自分が生きているのか死んでいるのか、わからなくなってしまうことなのだ。ふたたび生に戻ってこなくて済むよう、自分の死にはっきり輪郭が与えられることを彼らは望んでいる。

――ブライアン・エヴンソン『ウインドアイ』

 

自分が自分でなくなる方法は2つある。

ひとつは、自分を構成する要素を失うこと。もうひとつは、自分以外の「なにか」を自分の中に招き入れること。

前者はたとえば記憶喪失で、後者は悪霊や宇宙人によるパラサイトだ。

基本的に、人間は知らないうちに「自分以外のなにか」になったりはしない。構成要素を失えば痛覚や喪失感といったアラートが鳴って知らせてくるし、身体は「自分以外のなにか」を排除する免疫を持っている。

だが、著者はその小説世界で、痛覚や免疫といった防御機能をすべて停止させてしまう。結果として、自己と他者の境界、生と死の境界が崩落する。

この恐ろしいエヴンソン・ワールドでは、自己と「自分以外のなにか」の境界がまったいらで通行自由なので、たやすく自分が自分でなくなってしまう

ウインドアイ (新潮クレスト・ブックス)

ウインドアイ (新潮クレスト・ブックス)

 

 

 ブライアン・エヴンソンは、あらゆる短編を尽くして「自分が自分ではなくなる恐怖」を描こうとする。 

「自分の構成要素を失う」物語では、身体、記憶、家族といった、自分を構成する重要な要素が突然「そんなものはない」と言われてなかったことにされる。

「自分以外のなにかを招き入れる」物語では、身体が「なにか」と融合する。自分以外の手が、自分以外の目が、自分以外の耳が、免疫ゼロの登場人物たちに巣くい、じわじわと内部から自我を食らっていく。著者は、宇宙人や悪霊といった不可視の侵入者ではなく、手や目や耳や頭といった「実在する身体パーツの侵入者」を多く描く。身体のパーツは誰にでもなじみがあるものだから、想像しやすく恐ろしい。

自分を失いながらなにかを招き入れる、最悪の物語ももちろんある。

そしていまは? 出口があるとしても、私に見つけられるようには思えない。恐怖はあるものの、残された選択肢はただひとつに思える。

エヴンソンが描くこれらの「自分が自分でなくなる」感覚は、精神医学や神経学の病理を思わせるものがある。

私たちが「自分は自分だ」と思えるのは、「自分はこの体をすみずみまで所有している」と感じるからで、身体の所有感覚がアイデンティティにつながっている。

ゆえに「自分の身体を所有している感覚」に問題がある人は「自分が自分でない」と感じる。たとえばコタール症候群の人は「自分がすでに死んでいる」と断言し、身体完全同一性障害の人は「足が自分のものでないから切断したい」と切望する。「知らない人間の声がする」症状は、統合失調症の症状だ。

著者は、これらの症状と想像力を溶かして混ぜ合わせ、手に負えないところまで増幅させていく。

 

本書は、幸運なら体験しないであろう「自分が自分でなくなる」恐怖を、誰にでも伝わる言葉と舞台で表現してくれる。

 エヴンソン・ワールドに迷いこんだ不運な人たちは、知らないうちに自分が自分でなくなり、自分が立っていた世界が「似ているけれど別の世界」に塗り替わっていることに気づく。

自分を失うという一大事にたいして、登場人物たちは自分を弔うことすらままならない。自分以外の人は誰も気づいていないし、自分はもはや自分ではないからだ。生きながらにして幽霊になるのは、きっとこんな感じなのだろう。

本書を読むと、自己と他者の「境界」は、自分を健全に保ち守るために、とても重要なのだとわかる。本書を読む人間は幸福だ。境界が大事なものだと、失う前に気づけるのだから。

 

収録作品

気に入った作品には*印。

  • ウインドアイ**:妹がいたはずだったんだ。窓は確かにひとつ多かったはずなんだ。そして異界の扉は開き、読者はエヴンソン・ワールドに引きずり込まれる。
  • 二番目の少年**:エヴンソンが書く「お話をしてあげよう」系は本当に怖い。聞いてはいけないけれど聞くしかない。自己と他者の境界が崩落する。
  • 過程
  • 人間の声の歴史
  • ダップルグリム:中世から伝わる古く恐ろしい話の雰囲気を持つ。めずらしく身体パーツではなく「馬」が怖い話。
  • 死の天使**:名前を書くことで死を確かなものにしたい人たち。普通ならいやだが、エヴンソンの世界ならわからなくない、と思ってしまう。
  • 陰気な鏡
  • 無数**:「無数」という単語の意味が最後になってわかる。完全にいかれていて怖い。
  • モルダウ事件**:モルダウ事件とあるが、事件の主語はころころ変わる。そして容疑者と追跡者の境界が溶けていく。
  • スレイデン・スーツ***:難破しかけた船から脱出する術はスレイデン・スーツをくぐり抜けること。王道ゴシックな雰囲気がよい。
  • ハーロックの法則
  • 食い違い:聴覚と視覚がずれてくる。これはおそろしく気持ち悪いだろう。読んでいるだけなのにぐらぐらになった。
  • 赤ん坊か人形か:赤ん坊と人形の区別がつかなくなる。認知の崩壊による自己喪失。
  • トンネル:トンネルは自我を失うのにうってつけの場所だ。通過することで人はなにかを失う。
  • 獣の南
  • 不在の目*:ここらへんになってくると、タイトルに身体パーツが書いてあると「なるほど今度はこいつに乗っ取られるのか」と心の準備ができる。が、やはり最後にはうめく。
  • ボン・スコット
  • タパデーラ:死んだ少年が動いている。死んでいろと言っても動いている。彼は生きているのか死んでいるのか?生死の境界が消滅する。
  • もうひとつの耳**:タイトルそのままに、なにかの耳がなにかを聞き続けている。
  • 彼ら
  • 酸素規約*:タイトルがかっこいい。J-POPかバンド名にありそう。エヴンソンは「謎の組織」もよく描く。謎の組織は期待どおりだいたいやばいのでよい。
  • 溺死親和性種*:こちらもタイトルがかっこいい。
  • グロットー
  • アンスカン・ハウス**:ポーを思わせるゴシックホラー。アンスカン・ハウスにいけば、誰かの苦しみを引き受けることができる。ほら、行ってごらん。

Recommend

異界に落ちていく短編ばかりを集めた「いやな英語文学」アンソロジー。エヴンソンの「ヘベはジャリを殺す」が収録されている。これも本当にいやな話だった。

 

自分が自分でなくなる病理を、神経学の視点で解説している。自分を死んでいると思いこむコタール症候群、自分の足を切断したくなるBIID患者のインタビューがのっていて、どれも共感できなさすぎてすごい。文学好きにもおすすめ。

 

表題作「死体展覧会」は、『ウインドアイ』中にしばしば登場する「謎の組織」を思わせる。暴力が吹き荒れる、別の意味で恐ろしい小説。