『凍』トーマス・ベルンハルト|人間の形をした液体窒素
きみは恐れているのか。違うって。どっちなんだ。人類をか。観念をか。
――トーマス・ベルンハルト『凍』
人間の形をした液体窒素
『消去』を読んで以来、トーマス・ベルンハルトには、遠い異国に住んでいる親族に寄せるような、淡い親近感を抱いてきた。
世界を嫌悪し、近親者を嫌悪し、かつての友人を嫌悪し、医者と政治家と金持ちと権力と資本主義と企業を毛嫌いし、働くことを拒み、自分の好きなものにだけ取り囲まれて暮らす、人に期待しすぎては幻滅する人嫌い。ベルンハルトとよく似た口調でよく似た話をする人が、ごく身近にいた。デビュー作である本書を読んで、ベルンハルトはますます私の親族なのではないかという思いは強まるばかりだ。
若いオーストリア人の研修医が、上司の外科医シュトラウホから「ほぼ絶縁している弟を精確に観察して記録せよ」という奇妙な仕事を受ける。
外科医の弟は画家という名の実質無職で、オーストリアのヴェングという僻村に長期滞在している。弟の画家は外科医に言わせれば「頭でっかちで、救いようのないほど混乱し、悪徳と周知と畏怖と非難と内なる審問に付きまとわれ、不安にとりつかれ、粗暴で、人間嫌い」らしい。もはやこの時点で不安しかないのだが、上司に極秘ミッションを与えられたことがうれしくて、研修医は依頼を受けてヴェングへ向かう。
ヴェングで研修医を待っていたのは、360度見渡す限りの陰鬱だった。村は切り立った山の中にあり、雪と氷に閉ざされ、恐ろしく底冷えする。文化も見どころも産業もなく、なにかすればすぐまたたくまに周知のこととなり、不貞と殺人と事故がエンターテインメントになっている。そしてこれらすべての陰鬱を凝縮させた男、画家シュトラウホがいる。
画家は、人間が持つ人生への「熱量」をほぼ失った男、人生の厳冬に漂着した男、心と体が凍え切った男だ。希望を捨て、感情を捨て、自分の人生を「終わった」ものと見なしている。
氷点下の空気が体の芯まで凍えさせるように、陰鬱で希望も救いもない画家の独白が、地響きのようにえんえんと続く。
「寒い。凍てが私の脳髄の中枢を蝕んでいる。きみに、凍てがすでにどのくらい私の脳髄を蝕んだか、分かってもらえればいいんだが。この貪欲な凍てには血まみれのセルロースが備わっているにちがいない。脳髄が備わっているにちがいない。凍ては、そこから何かが生じてくるものであれば何にでもなることができるのだ。いいかね」と彼は言った「脳髄、つまり頭と頭の中の脳髄は、信じがたいほどの責任能力を欠いたディレッタンティズム、致命的ディレッタンティズムだ。そう、私がいいたいのはそれだ。力は侵食されている。凍てが、力、人間の力、すべてにまさる分別の筋力を侵食しているのだ。私の脳髄の中に、何十億年も前から続き、愚かにもすべてを食い物にする物見遊山気分の凍てが侵入してくる。凍てが襲ってくるのだ……」
さまざまな内容を画家は語るが、すべては「痛み」「凍え」「死」「絶望」へ帰結する。『消去』のような爆笑ユーモアは影を潜め、むき出しのベルンハルト原液が希釈なく300ページにわたってだだもれる。
恐ろしい無限がまき散らす細菌の保菌者である死、歴史の死、貧困の死、死だ、聞いてごらん、私が欲しない死、だれも欲する者のない死、もはやだれも欲する者のない死を。そこにいるのが死だ、この犬の咆哮だ、聞いてごらん。…聞いてごらん、記憶の軟らかい部分をひとつ残らずコンクリート舗装に、偉大で崇高な人間の狂気というコンクリート舗装に叩きつける狂気の音を……犬の咆哮についての私の見解を聞いてくれ、私の見解を聞いてくれ……
画家は雄弁な亡霊のようなものだが、時折「まだ熱量がある人間だったころ」の痕跡をかいま見せる。かつて彼は「自分が画家として成功する」と思っていたし、人が集まる場所に積極的に顔を出したりもしていた。
ある日私は自分が何者にもならないことに気づいた。しかし私は、人間ならみなそうだろうが、それを信じたくなかったので、その恐ろしい作業を何年も先延ばしにした。
それなのに、なぜこんな状態になってしまったのか?
たとえば兄の外科医は画家のことを「人間嫌い」とばっさり切り捨てているが、画家はよくヴェング村の人間たちを観察している。観察者の役割を与えられた研修医よりも、村中の誰よりも、的確に観察している。人間に興味がなければ、こんなことはできない。実際、画家はどうしようもない連中だと言いながら村の人たちを気にしているし、人間への期待も吐露する。
「みんなは私のことを何て言ってる」と彼は尋ねた「愚か者と言っているのかね。みんなは何て言っているんだ」。
人間をあてにするのは間違いだ。だれかをあてにするのは大きな間違いなのだ。私はいつもこの間違いを犯してきた。いつも私はあらゆる間違いの中でももっともひどいこの間違いをおかしてきた。いつも私は人間をあてにしてきたのだ!」と彼は言った。
読み進めるうちに、親族を思い出さずにはいられなかった。彼女はとても人間に期待していた。だが、優しく、人を見る目がなく、傷つきやすかった。彼女を利用しようとする悪い人間と仲良くなろうとして傷つけられ、傷が癒えないうちに新しい傷ができて化膿して、やがて人類全体に希望を持つことをやめた。そうすれば、これ以上は傷つかない。「誰も信用できない」と彼女は言った。人間はいずれ裏切り、自分を傷つけるからだと。
エリートもビジネスも企業も政治もすべて欺瞞に満ちているから拒絶した。働くことは嘘を見過ごし、嘘に加担することだから、働くことも拒んだ。そうして彼女は社会に充満するすべての嘘と欺瞞を拒み、隔絶していった。愛するものは芸術と子供向けキャラクターだけだった。芸術は欺瞞を暴き、キャラクターは欺瞞を拒絶するからだ。
偏見と嫌悪に満ちた彼女の言葉は狂っているように聞こえるが、一方で鋭い観察眼を見せた。人への興味を捨てるどころか増幅していたようだった。ほぼすべての人間を嫌悪していたが、ごく少数への人間は親愛の情を見せた。膨大な暴言を吐かれ、人生を歪められたにもかかわらず、老齢の母親と父親の世話をした。一族に子供がうまれたらまっさきに祝いに行き、赤べこを送った。
他人に食い物にされるのを避けたことはなく、また避けようもなかった。「私は、人間は私を裏切ると分かっていて、私を殺そうと狙っているととっくに承知しているいまでもまだ、人間に賭けることを諦めていない」
なんというベルンハルトだろう。私は、ベルンハルトを読むたびに動揺し、途方に暮れる。これほどまでに潔癖で、期待と絶望の間で揺れる混乱しきった精神を、解体してみせる手腕が恐ろしい。病に侵された自分の臓器をみずから摘出して並べる外科医のようなものだ。その手さばきは精確で正気だが、鎮痛剤なしでやってのけるのは狂っている。
この画家シュトラウホとは誰なのか、このたえず迫害されている、自分を役立たずだと思っている人間、書類上はひとりの兄とひとりの妹その他の係累がいることになっているが、実際はいつも孤独であり、ぼくの報告を読む人が想像するよりはるかに悲惨な形で孤独だった人間はだれなのかが分かる。
人生とは、もっとも暗い結晶性の絶望だ。…そこすなわち人間の望みの絶たれた場所へは、唯一雪と氷に閉ざされた道が通じているだけだが、われわれはそこを目指して歩いていかなければならない、分別の不貞を経由して。
画家は、己と世界を凝視しすぎるがゆえに、嫌悪をもよおしている。視線の画像解像度が高すぎるがゆえに、見たくないものまで見てしまう。だが、彼の精神は、そうしたものを「穏やかに見ないふり」をするには潔癖すぎる。狂ってしまえば、自分のつらさを世界と他人のせいにしてしまえば、よほど楽なのに、彼は人を食い物にしたり利用したりすることも拒む。画家は、他者を傷つけ、利用することを恐れ拒む人間だと、私は思う。だから生きづらい。恐ろしく生きづらい。
己と世界の醜悪さを凝視し、みずからを孤独の僻地に追いやり、人間の形をした液体窒素のようになりながらも、正気を失わず、人の形をとどめようとする画家の姿がすさまじい印象を残す。
私は画家シュトラウホほど絶望してはないが、彼の言うこともわかるし、遠い親族のような親近感を抱いてしまう。私の体はどうやら、自分が思っているよりも凍てに浸食されているようだった。
夢の表象すら凍え死ぬのだ。すべてが寒さに変わる。空想も、何もかもが。
トーマス・ベルンハルトの著作レビュー
Recommend:絶望と混乱
ベルンハルト初読ならまず『消去』から勧めたい。ベルンハルトは金太郎飴のように、ほぼ同じ主題を繰り返し書く。『消去』のころになると、ベルンハルトはユーモアという「おもてなし」技を習得し、陰鬱な内容と爆笑を同時に楽しめるようになる。『凍』は全編ベルンハルト原液だだもれなので、「ベルンハルト原液ユーモア割」の『消去』を読んでからのほうがよいと思う。
地響き三兄弟の次男(長男ベルンハルト、次男ゼーバルト、三男ボラーニョ)は、ベルンハルトを敬愛していた。低いささやき声がずっと続くスタイルで、記憶と記録の消滅に抗おうとする。
臓腑のにおいがただよう独白と混乱、死に近いところで苦しむ男の独白。ベルンハルトの独白はホルマリン漬けのようだが、フォークナーは生の臓物のにおいがする。