ボヘミアの海岸線

海外文学/世界文学/ガイブンの書評と感想ブログ。昔の名は「キリキリソテーにうってつけの日」

『こびとが打ち上げた小さなボール』チョ・セヒ|人間扱いされない世界

天国に住んでいる人は地獄のことを考える必要がない。けれども僕ら五人は地獄に住んでいたから、天国について考え続けた。ただの一日も考えなかったことはない。毎日の暮らしが耐えがたいものだったからだ。

――チョ・セヒ『こびとが打ち上げた小さなボール』

人間扱いされない世界

「人間扱いしてほしい」。誰かにこんな言葉を言わせる世界はまちがっているとしか言いようがないが、残念ながらこの言葉は今も世界中で響きわたる。『こびとが打ち上げた小さなボール』は、人間扱いをされずに酷使される人々の声を描き出す。

こびとが打ち上げた小さなボール

こびとが打ち上げた小さなボール

 

 

本書の舞台は1970年代の韓国。軍事政権下にあり、大規模な都市開発によって貧民街がどんどんつぶされ、高層マンションになっていく時代だった。貧しい人々は高層マンションの入居権を与えられはするものの、高額な家賃を払えないため、入居権を売りに出さざるをえない。その入居権を資本家たちが安く買いあさり、高値で転売して大儲けをしていた。

壮絶な格差社会で、「こびと」「せむし」「いざり」といった身体障害者とその子孫はとくに過酷な生活を強いられる。彼らは低賃金で長時間労働を続け、人間らしい生活を受けないまま酷使され続け、家をハンマーでぶち壊される。一方、富裕層の企業家や子どもたちは、暖かい豪邸でクルーザーと別荘と遺産について談笑する。

僕らの食卓には、先祖の代から流れ流れてきた時間の束が載っていた。それを押さえつけて刀を入れたら、血と、涙と、そして弱々しい笑い声や乾いた咳があふれ出てきたことだろう。 

悪魔的な「工場」を経営する富裕層、工場に正社員として働く中間層、工場に酷使される貧民層、それぞれの階層の声を著者は描き出す。

「悪者としての富裕層」「善人としての貧困層」という単純な二項対立ではない。ナイフを持って資本家を襲う「せむし」「いざり」、人間らしい扱いと賃金を求めて闘争するこびとの長男、自分の親族が他者を奴隷のようにこき使うことに心を痛める富裕層、「やつらがああなったのは自己責任だ」と自己責任論で片づけようとする富裕層。暴力を振るう人、暴力を振るわずに心を痛める人、現状を維持しようとする人、現状を変えようとする人はどちら側にもいる。

きれいに割り切れないあたりはきわめて現実的な一方、小さなボールを打ち上げた「こびと」の父はどちらにもよらず、幻想的で際立っている。こびとの父は、怒らず、戦うこともなく、月の天文台で働くこと、愛によって成り立つ世界を夢想する。

こびとの父は、レンガ工場の煙突にすっくと立ち、月でのまっとうな仕事を夢見て、小さなボールを月に向けて打ち上げる。

うちの会長は

やさしい人よ、

釣り銭集めて

はい、月給

本書と同じくスラムと再開発を舞台にしたファン・ジョンウン『野蛮なアリスさん』が少年たちの声に焦点を当てているのにたいして、『こびとが打ち上げたボール』はこの悲惨をつくりあげた社会構造を描く。まともな生活ができない人々を作り出す構造、罪悪感なく合法的に他者を食い物にする構造と心理を、本書は暴いている。

この物語は1970年代韓国を書いたものだが、過去のことではまったくない。それどころか、21世紀の今は悪化している。

1%の人間が世界の富の半分以上を持っており、富める者がますます富み、中間層が消えて下層におしやられ、格差が世界中で広がっている。富の再分配をする機能を持つ政府は富裕層と癒着し、貧困層から搾り取る構造に社会を改変する。

アメリカは最もグロテスクな例のひとつだが、英国、中国、韓国、日本も同じ道をたどっている。コンビニエンスストアのフランチャイズ、外国人労働者、高度プロフェッショナル制度、これらはすべて同じグロテスクから生まれている。

この物語を「過去の物語」と言えるならどれほどよかっただろう。まったくそうではないからこそ、本書は今も韓国でベストセラーであり続けているのかもしれない。

 

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高層マンション街に再開発されたソウルのスラムにまつわる、もうひとつの物語。こちらは毒親と汚水工場が出てくる。主人公の少年が怒りと暴力を遺産として受け継いでしまうシーンが悲しい。「こびと」と「アリス」はぜひ一緒に読んでほしい。

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アメリカ南部の工場町に、ふたりの聾唖者がいた。「この人は理解者だ」と思いたい、だが相手にとっては必ずしもそうではない。人はどこまでも孤独であることを描いている。

 

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エスタブリッシュメント 彼らはこうして富と権力を独占する

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チャヴとは、フーディをかぶる若者に代表される、英国の貧困層である。著者は、富裕層と中間層がともに「チャヴたたき」をすることで都合の悪い不平等を隠していることを、豊富な資料により解説する。「貧しいのは自己責任」という自己責任論が英国でも吹き荒れている。国にたかっている富裕層(エスタブリッシュメント)についても暴いている。新自由主義をとっている日本においてもほぼ同じ現象が起きているため、社会がなぜこんなになってしまったのか疑問に思う人に読んでほしい。

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こちらは1970年代アメリカ。新自由主義が本格化する1980年代直前の、アメリカの富裕層を描き出している。 税金逃れと搾取、搾取しているにもかかわらず「みんなのためにやっている」という厚顔無恥ぶりが、やはりグロテスクに描かれている。

皆勤の徒 (創元SF文庫) (創元SF文庫)

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 異様な生命体がブラック企業で仕事に邁進する社畜SF。強烈なブラックユーモアと言葉遊びが効いていて笑えない場面でもおおいに笑える。作者の挿絵もすばらしい。じゃんけん大会で原画を獲得したことは私の自慢である。