ボヘミアの海岸線

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『ノートル=ダム・ド・パリ』ユゴー|激情うごめく失恋デスマッチ

…こうなるともう、ノートル=ダム大聖堂の鐘でもなければ、カジモドでもない。夢か、つむじ風か、嵐だ。音にまたがっためまいだ。…こんな並外れた人間がいたおかげで、大聖堂全体には、なにか生の息吹みたいなものが漂っていた。

ーーヴィクトル・ユゴーノートル=ダム・ド・パリ

この鐘の音こそ、彼がきくことのできるただ一つの言葉だったし、宇宙の沈黙を破ってくれるただ一つの音だった。

古い友人が結婚してパリに移り住んだので、祝いにパリを訪れた。祝いの硝子と製氷機(ヨーロッパの製氷機は使い物にならないらしい)とともに、ユゴーの『ノートルダム=ド・パリ』を鞄に放りこんだ。

文庫化して手に取りやすくなってNHK『100分de名著』で紹介されたにもかかわらず、いまだ「みんな知ってるけど読む人はあまりいない」本書は、正気ではなかなか読む気にならず、異国で過ごす非日常で読むぐらいがちょうどいいと思ったからだった。このもくろみは当たっていて、私はパリでおおいに驚き、頭を抱え、怒りと呆れでパリ血糖値が上がり、結末で叫び、愛と呼ぶにはあまりにも醜悪で激烈な感情のヘドロに飲まれることになった。

ノートル=ダム・ド・パリ(上) (岩波文庫)

ノートル=ダム・ド・パリ(上) (岩波文庫)

 

  

ノートル=ダム・ド・パリ(下) (岩波文庫)

ノートル=ダム・ド・パリ(下) (岩波文庫)

 

 

言ってしまえば、本書は「美女が1人のイケメンと2人の非モテ男に求愛され、美女はイケメンを選び、非モテが大爆発する」話だ。

 「ノートルダム大聖堂に鐘番として住みつく醜い男カジモドが、美しい女に恋をして、彼女の命を狙う悪い男から彼女を守るものの失恋する」という、誰もがなんとなく知っているあらすじはディズニー映画版のもので、ユゴー本家の闇という闇を根こそぎ取り払ってある。しかし本書の85%は闇でできているから、ディズニー版を想定してユゴー版に触れると、闇ヘドロで窒息することになる。

ディズニー映画版は失恋こそするもののなんだかんだでうきうきハッピーエンドだが、ユゴー本家にうきうき要素はみじんもない。情欲、強欲、傲慢、冷血、蒙昧、暴力、執着、妄想といった人間の感情を、業火にかけた鉄鍋で3日3晩煮込んでどす黒いヘドロになるまでこねくりまわし、そのヘドロでできた人間たちがノートル=ダム大聖堂を舞台にデスマッチを繰り広げるのが、ユゴー版『ノートル=ダム』である。

 

ノートル=ダムの登場人物たちは、9の醜いものと1の美しいものでできている。

ノートル=ダム大聖堂の鐘番カジモドは外見が恐ろしく醜く、うまれてまもなくノートル=ダム大聖堂の前に捨てられた。目の上と背中にコブがあり、独眼で目が見えず、耳も聞こえず、X脚で、多くの人が醜さのあまりに目をそらす。このような扱いを受けているから、性格はいじわるになってしまった。だが、愛する者(フロロ、エスメラルダ、大聖堂)にはとことん忠実で、全力で守ろうとする純粋さがある。

カジモドを拾ったクロード・フロロは、ノートル=ダム大聖堂の司教補佐だ。フロロは中世当時のエリートであり、王がお忍びで会いにくるほどの学識もあるが、ナボコフ『ロリータ』のハンバート・ハンバートと同レベルの気持ち悪さを誇る、性欲と嫉妬と所有欲と破壊欲を極限まで煮つめた純粋培養の犯罪者だ。

王室射手隊の隊長フェビュスは、すばらしいイケメンだが、女遊びがひどく、どの女も愛さず自分の得になるかどうかで判断する冷酷な男だ。登場人物の中で、もっとも女にモテるが、誰も愛してはいない。

これらのヘドロ・メンズから愛されるヒロインが、ジプシーの踊り子エスメラルダだ。彼女はたぐいまれな美貌を持つが、「宿なし」と呼ばれる社会の下層で、軽率で考えなしの行動が目立つ。登場人物たちを破滅へと導く引き金をがんがん引いていく、運命の女としての役割を果たす。

 

そして、ノートル=ダム大聖堂。大聖堂は、本書においては舞台以上の役割を果たしている。ノートル=ダムは、カジモドによって命を与えられ、カジモドとクロロに愛され、彼らも彼らが愛する者も敵も傍観者もまるごとその臓腑に招き入れ、事の顛末すべてを見ている「観測者」だ。

すべての事件は、ノートル=ダムの周辺と臓腑の中で起きる。ノートル=ダムは物語の舞台であり、主要キャラクターでもある。

ノートル=ダムをはじめとしたゴシック建築とパリの街へのユゴーの愛情はなみなみならぬものがあり、登場人物の描写よりも先にノートル=ダムとパリについて1章ずつ語るほどだ。メルヴィルが『白鯨』で、「すべての世界は鯨である」と語ったように、ユゴーもまたパリや大聖堂、ゴシック建築と人間の区別がついていなかったのではないかと思われる。f:id:owl_man:20100410113818j:plain

実際、カジモドとノートル=ダム大聖堂がいかに幸せに暮らしていたか、「怪獣の群れの番人で、怪獣よりもものすごい」という章まるごとを費やして書かれている。カジモドとノートル=ダムは「生命を持つパートナー」として描かれている。この描写はすばらしく愛に満たされており、ずばぬけて美しい。

大聖堂はカジモドにとって、ただ人の住む社会であったばかりでなく、宇宙であり、さらには全自然ですらあったのだ。いつもいっぱい花を咲かせているステンドグラスがあったから、果樹の垣根したてなどを見たいとも思わなかったし、サクソン式柱頭の茂みの中で、小鳥をいっぱいに遊ばせて開いている石の葉飾りのかげがあったので、自然の木かげのことなど考えたこともなかった。聖堂の巨大な塔が彼にとっては山にひとしかったし、目の下に広がってざわめいているパリが大洋だった。

母ともいえるこの建物の中で彼が何よりもいちばん愛していたもの、彼の魂を呼び覚まし、ほら穴のなかでみじめにもじっとたたみこんだままにしていた哀れな羽を開かせ、ときには彼を幸福な気持にもさせてくれたのは、大聖堂の鐘だった。彼は鐘を愛し、可愛がり、鐘に話しかけ、鐘の気持を理解した。 

カジモドの体も鐘といっしょに震えている。「ウワーッ!」と、狂ったような高笑いをする。そのうちに大鐘の動きはだんだん速くなり、揺れ方が大きくなっていくにつれて、カジモドのメモだんだん大きく見ひらかれ、きらきらと光り、燃えたってくる。そのうちに大聖堂の鐘がみんないっせいに鳴り出す。塔全体が、木組みも鉛板も石材も、ぶるぶる震える。基礎の杭から、てっぺんのクローバー形の装飾まで、みんないっせいに鳴り響く。

大聖堂は彼の命令を待ってはじめて大声をあげた。大聖堂は、ちょうど守り神につかれているみたいに、カジモドにとりつかれ、満たされていた。彼がこの巨大な建物を息づかせているのだ、とも言えそうだった。じっさい、彼はこの建物のどこにでもいた。

本書の中で、両思いで幸福だったのはカジモドとノートル=ダム大聖堂だけだった。あとは、愛する者に愛されない人、愛する者に出会えない人、そもそも愛する人などいない人だけ。

これほど多くの人間たちが登場するにもかかわらず、愛は一方通行か行きどまりばかりだ。

「報われない愛」が無数にからまると、希望と期待ばかりが募り、煮詰まってやがて怒りと殺意がうまれる土壌となる。

あとは、引き金を引く「破滅への先導者」がいれば、破滅の機械仕掛けが回りだし、人の願いと命を食らっていく。

 

本書では、フロロ司教補佐が先導者となった。フロロは、『白鯨』エイハブの狂気と『ロリータ』ハンバート・ハンバートの気持ち悪さを合体させた男であり、エスメラルダに執着するようになってからのセリフは徹頭徹尾おぞましく気持ち悪い。

「お前をいとしいと思っている」「わたしの心の中にお前が住み着いた」というごく一般的な告白の後に、「お前を攫おうとしたり、お前が好いている騎馬隊長を刺したり、お前をわたしのものにするためどんなこともしてみせた」と自分の努力(犯罪だが)をアピールし、「わたしを憐れだと思って、わたしを受け入れてくれ!」と自分の苦しみをアピールし、「拒むのなら、わたしはお前を魔女として絞首台に送ることもできる」と権力と脅しをセットでアピールし、「わたしのものになるか、絞首台を選ぶか!墓がよいか、わたしの寝床がよいか、だ!!」と嫌すぎる究極の二択を迫る。

当然エスメラルダに拒絶されるが、フロロは「こんなに優しく話しているのに」「許してくれないなんて」「わたしを憎むつもりか」「だったらお前を終わらせてやる!」とキレる。ルッキズム女性差別と打たれ弱さを融合させた醜い精神と、「俺は悪くない、俺を受け入れない女が悪い」「この俺がここまでしてやっているのに」という振られ男のプライドが、読む者の心をめった刺しにしてくる。

わたしは、このわたしはおまえを愛している。ああ! それは誰が何と言おうが、真実のことなのだ!…それでも哀れと思ってはくれないのか? 夜も昼も思いつづけている恋なのだ。身をかきむしられるようだ。ーーおお! わたしは苦しすぎるのだ、いとしいやつめ!ーー哀れとおもってくれてもよいではないか。このとおり、わたしはやさしく話しているのだ。お願いだから、わたしをもう恐ろしいなどとは思わないでくれないか。ーーーつまり、男が女を好きになる、これは男が悪いのではない!ーーああ! 残念だ!ーーなんだって! 私を許してはくれないのだな? いつまでもわたしを憎むつもりなのだな! それではもう終わりだ! そのために、このわたしが悪者になってしまうのだ!

ユゴーは男が女に抱く感情を描くことが抜群にうまい。フロロが「振られ男」代表なら、イケメン体調のフェビュスは「女の体だけが好きな遊び人男」を凝縮した男で、彼の冷酷さと外面のよさ、女の内面への興味のなさもまた、読む者の心をえぐり飛ばしてくる。カジモドは「対象外の男」「相手に忠誠を誓い尽くす男」の代表であり、誰もがフロロとフェビュスとカジモドを心に抱えている。

男性陣の描写が緻密ですばらしい一方、エスメラルダの描写は納得感に欠ける。弱い男性を助ける優しさがあるかと思えば、カジモドの姿が醜いために避け、フェビュスに会うためにカジモドを使いっ走りにして、うまくいかないと感謝も述べずに怒りだす残酷さを持つ。ジプシーとして過酷な日々を生きているわりにはすれていなさすぎるし、世間知らずすぎる。フロロを撃退しまくる気の強さは好感が持てるが、それ以外はたいした魅力がないし、この性格になった背景がわからない。男たちに比べて、キャラクターとしての強靭さがない。

それでも男たちはエスメラルダに熱狂する。しかし、結局のところ、誰も彼女を見てはいない。フロロは美貌だけに執着して内面にはかけらも興味がなく、フェビュスは都合の良さと体を目当てにしていて、カジモドは自分に優しくしてくれた1回きりの出来事でエスメラルダを崇拝する。エスメラルダも、冷酷なフェビュスが自分を救ってくれると信じている。

誰も、相手とちゃんと向き合っている人はいない。自分が望む偶像を相手に投影し、狂ったように信じているだけだ。

誰もが愛を叫びながら、誰も相手を見てはおらず、自分が見たい虚像に向かって突進して破滅するため、本書はディスコミュニケーションの小説とも言える。

 

上巻はだらだらとしているので目が虚ろになりかけたが、下巻はフロロの独白モードのおかげでパリ血糖値ががんがん上がり、あっというまに読み切った。

最後の数章は怒涛であり、文句なしにすばらしい。変態フロロに押されてほぼ空気だったカジモドが息を吹き返してからは、読む手をとめられなかった。最終章は「これしかない」とうなるタイトルと中身で、ほんとうに打ちのめされた。

読後の感覚はナボコフ『ロリータ』、メルヴィル『白鯨』、ドノソ『夜のみだらな鳥』に近い。読みづらく目が虚ろになるし、登場人物はだいたいひどいし、救いもなにもないが、読み終わった後は二度と忘れない。

「ああ! 俺の愛していた者はみんな!」 

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owlman.hateblo.jp

ノートル=ダム・ド・パリ』はいろいろな意味で『白鯨』に似ている。エスメラルダに執着する狂人フロロは、モービイ・ディックに執着するエイハブ船長をいやがおうにも彷彿とさせる。それに、序盤のだるさと初見殺しの脱線雑学ぶりも、世界と建築の区別がついていない世界観も、共通点がある。『白鯨』を読みきった人なら、『ノートル=ダム』も楽しめるはず。

ガイブン界2大「自己中な性犯罪者」は、ハンバート・ハンバートとフロロで決まりだ。ハンバート・ハンバートに怒り狂いながらも読み切ったように、本書もフロロに怒り狂いながらも読み切った。変態狂人はとにかく読ませてくるからいろいろつらい。

 

本書が「ヘドロ人間の失恋デスマッチ」なら、「夜みだ」は「タールの上に砂糖菓子をぶちまけた小説」。どちらも半端なく精神が摩耗するが、強烈で、忘れられない。

 

 大人気『100分de名著』で2018年に紹介されている。解説はフランス文学者の鹿島茂氏。フロロの解説部分はだいぶマイルドだがやっぱりけなしていて笑ってしまった。

 

 岩波から文庫化されるまでは、7000円のハードカバーでしか読めず、ハードルが高かった。

おまけ:ストレスフリーな『ノートル=ダム・ド・パリ』の読み方

ノートル=ダム・ド・パリ』は、上巻の半分が物語に関係がないうえに、1章のだるさが半端ない。そのため、おもしろい物語を期待した読者の多くが、1章で読み進めるのをやめてしまうのではないかと思われる。

1章や上巻の多くは、本筋に関係がないので読み飛ばしても問題はあまりない。そこで、挫折する不安がある「物語を求める人」には、下記の読み方を勧めたい。

上巻

  • 第1編:「ピエール・グランゴワールという劇作家がいる」「変顔大会をすることになった」という2点だけを心に留め、「カジモド」から読み始める。カジモドは、変顔大会で「こんな変顔の人間はいない!優勝だ!」というシーンで登場する。
  • 第2編:そこそこ物語があるので、読むこと推奨。劇作家グランゴワールが、うっかりしたことで宿なしの街に迷い込み、あやうく殺されかけるが、「私その人と結婚するから殺さないで」とエスメラルダが助けたことで命を救われる。
  • 第3編:ユゴーのパリ愛とノートル=ダム愛が炸裂する。ヨーロッパ旧市街や建築が好きな人は必読。そうでないなら物語の本筋に影響はない。
  • 第4編:「クロード・フロロ」以降は必読。「怪獣の群れの番人で、怪獣よりもものすごい」は本書でもずば抜けてすばらしい。
  • 第5編:第3編と同じく、建築とメディア、書物論が語られる。「これがあれを滅ぼすだろう」は「建築は書物だ」と言い切るすばらしい章だが、物語とは関係ないので、物語が読みたい派は飛ばしても大丈夫。
  • 第6編:物語が始まってもいないのに、先にスピンオフが始まる。主要人物ではない人たちの小話なので大半は飛ばせるが「ネズミの穴」は、物語本編にかかわる「おこもり女」(塔に住む世捨て女)が出てくるので重要。

下巻

  • 第7編以降:ようやく本編が始まる。7編以降は飛ばす章はない。どんどん物語の速度と強度が上がっていき、最後の数章はとめられなくなる。

もちろん、最初から最後まで読むほうが楽しいし、物語の解像度だって鮮明になる。しかし鹿島茂さんが「ノートル=ダムは読みにくい」と言っているぐらい、序盤がだるいのも確かなのだ。「いまいちだけど読まなければならない」というストレスで下巻にたどりつけない人がいるなら、いっそのこと上巻のほとんどは読まなくてもいい、と言いたい。それぐらい、下巻はおもしろいし、期待を裏切らない。下巻にたどりつける人が増えることを願う。

 

おまけ2:「建築は書物」

ユゴーの建築談義が炸裂する「これがあれを滅ぼすだろう」の章は、ヨーロッパ旧市街を愛する人間にとってはとても楽しかった。建築は「書物が発明される以前の書物」であり、思想表現の手段であり、「思想を自由に表現するには、建築しかなかった」という。

太古の時代の諸民族が、後世に残すべき思い出があまりにも多すぎると感じた時、人類の思い出の荷物があまりに重く複雑になったために、ことばというむきだしで飛び散りやすい形式に頼ったのでは途中でなくなってしまう恐れが生じた時、人びとは頭の中にあった記憶を、いちばんよく見え、いちばん長持ちし、いちばん自然なやり方で、地上に記録しておいたのである。 

だから、思想はすべて建物という書物だけにしか、じゅうぶんには書かれなかったのだ。建物という形をとらなければ、思想は写本という形にならなければならず、うっかり写本などになったら,あまちの広場で死刑執行人に焼き捨てられてしまったであろう。…そこで、無数の大聖堂がヨーロッパ全土を覆うに至ったのである。

 

 

 

Victor, Marie Hugo "Notre-Dame de Paris", 1831.