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『服従』ミシェル・ウエルベック|改宗します、それなりの待遇であれば

ぼくは人間に興味を持っておらず、むしろそれを嫌っていて、人間に兄弟愛を抱いたことはなく…厭な気分になるだけだった。しかしながら、不愉快ではあったが、ぼくは、その人類なるものがぼくに似通っていて、まさにそれが故にぼくは逃げ出したい気持ちになることを認めざるを得なかった。

ーーミシェル・ウエルベック『服従』

 

学生の頃からフランス語に苦手意識がある(リエゾンと発音のややこしさがおそろしい)のだが、長く続く友人はふしぎとフランス語の話者が多く、彼らのおかげでフランス語やフランス文化にふれあう機会が増えた。

彼らフランス人間たちとフランス文学について話している折、「フランスが誇る非モテの王」*1ことウエルベックの話が出たので、酔った勢いで、私以外の全員がフランス語を話すメンバーでウエルベック読書会をすることにした。

服従 (河出文庫)

服従 (河出文庫)

 

 

『服従』は、フランスにイスラム政権が樹立する「歴史IF小説」で、センセーショナルに取り上げられがちなウエルベック作品の中でもとくに話題になった1冊だ。

本書の発売日、偶然にも、風刺新聞を出す新聞社シャルリー・エブドをイスラム過激派が襲撃した「シャルリー事件」が起きたため、『服従』への注目が一気に高まり、読書家だけではなく、ふだん小説を読まない人も本書を買い求める事態になったらしい。

熱狂まじりに「時代を先読みする小説」と呼ばれる『服従』だが、実際に読んでみると印象はだいぶ違う。 

 

主人公フランソワは、『さかしま』の著者ユイスマンスを研究するフランス文学者として、パリの大学で教授職についている。

フランソワは、ウエルベック作品の主人公らしく、人生や人間に興味がなく、むしろ嫌悪の対象で、性欲とセックスで人生の憂鬱をまぎらわせている。そんな折、次回の選挙に向けてイスラーム同胞党が急激に支持を伸ばしていると噂が出てくる。

既存の政治システムにガタがきているからなにかが変わるかもしれない、とのフランソワの予感どおり、フランスにイスラム政権が樹立する。

このイスラム政権は、穏便で知的で、金を持っていた。オイルマネーの恩恵を受け、恋愛結婚が見合い婚になり、ムスリムのみが教職に就き、女性の多くが仕事を辞めて肌を露出しない服装に変わっていく。

フランスは抗議もなく、すんなりとイスラム政権が推し進める変化を受け入れる。

 

本書では「精神の自死」と「改宗」が、いくつものモチーフで重ね合わせて語られる。

フランスを語源とした名前を持つフランソワは、フランスの擬人化のようだ。彼は無気力で「自分が自死に近づいている」「無気力だ」となんども語る。時折、若い恋人との恋愛や、ユイスマンスの研究にのめりこもうとするも、燃え上がりきらず、精神の勃起不全だ。

フランソワの精神の自死と抜け殻ぶりは、そのままヨーロッパと知識階級の精神の自死と抜け殻ぶり、無力さに重なる。

 しかしながら、ぼくは、自分が自死に近づいているという気がしていた。絶望や、特別な悲しみを抱えているわけでもなかったが…「死に抵抗する苦悩の相対」がゆっくり崩壊していると感じられたのだ。生きたいという欲求だけでは、平凡な西欧人の人生に次々と現れる苦悩と厄介ごとのすべてに対抗するには、明らかに十分でなかった。ぼくは、自分のために生きることができなかったが、では、他の誰のために生きてきたというのだろう。

キリスト教がなければ、ヨーロッパの諸国家は魂のない抜け殻に過ぎないでしょう。ゾンビです。しかし、問題は、キリスト教は生き返ることができるのか、ということです。私はそれを信じました。何年かの間は。…つまり、文明は暗殺されるのではなく、自殺するのだ、という思想です。 

そしてフランス、主人公、ユイスマンスは、改宗の道を選ぶ。

とはいえ主人公の改宗は「神や教えを信じる」能動的な改宗ではなく、「それでもいいか」と流れに身を任せる消極的な改宗だ。失うものは多いが、かわりに得るものも多い、だったらそれでいいじゃないか、と流されるだけで、信仰も熱意もポリシーもない。

だから改宗の対象は、イスラームでなくてもいい。自分の待遇がそれなりであれば。

そんなフランソワが「一夫多妻制」には興味を持ち、同じ教授職の男性が複数の妻をめとったことを気にしているあたりが、ウエルベックらしくてぐったりする。

しかし、本音の主題は、今あなた自身がおっしゃったように、話しにくい。今この瞬間にも、わたしたちは自然淘汰について話し、理性的に高いレベルの会話を保とうとしています。直接こう聞くのは難しいことです。わたしの扱いはどうなるのですか。わたしは何人の妻を得ることができるのですかと。 

 

この小説が示すフランスは、確かにフランソワのような「知的水準の高いエリート男性」にとってはそれなりの待遇だろう。一方、女性は「性欲の対象」「一夫多妻制で獲得できる対象」「エキゾチズムを感じさせる存在」で、女性の肉声は不気味なほどに消去させられている。

それにフランソワは女性への理解が乏しく、同じ人間扱いしておらず(同じ人間ではないからこそ女性から救われるというあたりがとことん度し難い)、フランス人の知人に「非モテ民」と呼ばれる理由が察せられる。

ぼくは人間に興味を持っておらず、むしろそれを嫌っていて、人間に兄弟愛を抱いたことはなく…厭な気分になるだけだった。しかしながら、不愉快ではあったが、ぼくは、その人類なるものがぼくに似通っていて、まさにそれが故にぼくは逃げ出したい気持ちになることを認めざるを得なかった。

古典的で効果が実証されている解決策としては、女性に頼るということがある。女性は人類ではあるが少々異なるタイプの人間性を象徴するがゆえに、人生のある種のエキゾチズムの香りを与える。

 『服従』の世界は、信条のために戦う人がいない世界、流されるままに与えられるものを享受して幸福になった世界である。知識階級の男性たちは、あっさり改宗して、「世論に反駁してポリシーを貫く知識階級」という古き良き知識階級の幻想がぼっきり折れている。

それはおそらく、革命の国、マリアンヌの国、リベラルでヨーロッパの知を誇る国フランスが抱くアイデンティティとはだいぶ違っている。

 

じつにぐったりする小説で、読書会でも評価がよろしくなく、「しんどかった」「ぜんぜん好きじゃない」「ページをめくることが苦痛」「別の本を読んだら心が晴れた」とさんざんな言われようだったが、話題になるのはわかる気がする。

政治と宗教の選択が、人々の不安と密接につながっていることは、歴史と現状が証明している。移民や難民の受け入れへの不安という火種を抱えるヨーロッパだからこそ、人々の心に刺さって、いろいろな人が読もうとしたのかもしれない。

とはいえ読んでみると、イスラームが脅威になる話ではぜんぜんないし、イスラームは一部のフランス人(フランソワのような知識人男性)を幸福にしているので、「テロが起きた日に発売された」という文脈、イスラム教徒への不安という文脈から読まれるような本ではない。

むしろ宗教談話や政治談話、ユイスマンス談話がかなり長く続くので、動きが少ない地味な小説だとすら思う。そのわりに「フランス×イスラーム政権」という派手な舞台を使って、エリート男性をかなり露悪的に戯画化して書いているので、湯豆腐に蛍光色のホイップクリームをぶちまけたかのような、謎のミスマッチ感がすごい。

 

それでも私は、『服従』で読書会をしてよかったと思っている。本書は現代フランスの政治や宗教観に焦点を当てた現代フランス小説なので、現代フランスや現代ヨーロッパの状況をあまり知らないで読み進めるには、だいぶしんどい。「宗教の空白」「政治にたいする無力感」は日本にもつうじる問題なので、身近に引き寄せて読めないこともないのだが、それにしても共通点を見出すまでに時間がかかる。

フランスに詳しい人たちやパリに住む友人から、フランスの地形や歴史、フランス政治の話を教えてもらったり(フランソワが歩いている場所は地図上で追えるぐらいどれも近いところにあるらしい)わいわい話せた。やはり読書会の課題図書は、あれこれいろいろな意見が出やすい本のほうがたのしい。読書会の後は「フランス語×イスラム圏」ということでモロッコ料理を食べにいった。またあんなふうに、顔をあわせて本の話をして酒を飲みたい。

 

Memo:読書会のメモ

読書会で出た意見をざっくりまとめてみた。ひとりだとつらいけど、みんなで読めばみんなつらくて怖くない。

主人公への所感

「生きる意味を見失っていて、満たされない」「セックス依存症である中年男の悲しさ」「男はえらいんだというマッチョ思想にとらわれている」「リベラルが嫌いなんだなと思う」「主人公が自分に酔っている」「村上春樹をもっとダメにした感じ」「自己肯定しないと心が安定しない」「属性に安心を求めていて、甘えている」「都合がいい」「傍観者でなにもしていない、なにもコミットしない」「ぜんぜん好きじゃない、苦しい」「ページをめくることが苦痛」「別の本を読んだら心が晴れた」

 みんな辛辣だね! 大好き。

フランスの地名と地形

「地名や通りの名前がたくさん出ている」「パリ以外にたくさん旅をしている」「本書に出てくるのは、大学とモスクと教会とチャイナタウンが混在しているごった煮の地域で、本書を反映している」

文化の多様性

「フランソワが住んでいるのはチャイナタウンだし、登場する食事がインターナショナル」「スシが出てくるし、アラブごはんも出てくる」「現実のパリのインターナショナルさが、土地やごはんで表現されている」

ごはんがおいしそう

「さすがごはんがおいしそう」「金持ちの家で食べる食事、大学で出てくる食事がとにかくおいしそう」「本書における唯一の心のオアシス」

文系インテリの悲哀

「95%の学生にとってフランス文学の授業は意味がないと悲観している」「文系の授業は意味がないと言われている」「知識人が世論をエンパワメントできるという啓蒙理想は20世紀で死んで、本書でも死んでいる」

フランスの政治

「実際に、ムスリム議員は少ないがいる」「実際に政策に影響を与えている」「与党にはなるほどではぜんぜんない」「政教分離が原則だから、実際はこうはならない」「暴動ではないにせよ抗議は起きるだろう」「政治にコミットしない無関心層は実際にたくさんいて、本書は無関心層を誇張したものだと思う」「フランス政府は連携を掲げているので、分断せず多様性の保持を出している」

イスラーム教の描写

「イスラムについてはだいぶしっかり書いている(宗教学専攻の友人談)」「全部自分で決める個人主義は疲れるので、あるていど決めてもらうのがいい人もいる」「とはいえ、女性は男性の半分の価値と言うイスラム教は、女性としては抵抗が強い」「イスラームなら、キリスト教の問題や現代フランスの問題を解決できる、としているのは一部当たっている」

 

こうやって書いてみると、政治、地理、文化、宗教と、幅広い話題ができていて、とてもよかった。現代フランスに焦点を当てた小説ならではの醍醐味かもしれない。

 

ミシェル・ウエルベック作品の感想

 

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 いま読んでいる。まだ数ページだが、『服従』を読む前に読んでいたらだいぶ読後の感想が変わったのではないかと思うほど、『服従』と似通ったテーマが示されている。読み終わったらまた感想を書きたい。

 

*1:パリに住む友人とそのパートナーによる表現で、やたら笑ったので使わせてもらった