ボヘミアの海岸線

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『孤独の迷宮』オクタビオ・パス|死は最も愛する玩具

我々は、本当に異なっている。 しかも本当にひとりぼっちである。

ーーオクタビオ・パス『孤独の迷宮』

 私にとってメキシコは、ゆるやかながらも息の長い縁がある国だ。小さい頃に住んでいた町には老舗メキシコ料理店があって、祝いの時にはメキシコ料理を食べていた。いまでも私にとって祝いのごちそうはメキシコ料理とロシア料理だ。

また、曽祖父の家がある伊豆で「東海のメキシコ」こと伊豆シャボテン公園を訪れることが、毎年夏休みの定番だった。伊豆シャボテン公園は巨大なサボテンの群れにまじって、メキシコ政府から送られた遺跡のレプリカたちが佇んでいる。なんとも異界めいている。

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 そんなわけでメキシコは、日常にゆるく偏在している南米の国だ。だから南米文学を読んで感極まって南米旅行を計画した時には、迷わずメキシコとペルーを選んだ。 メキシコの記憶はもはや断片的だが、アステカ族とマヤ族の遺跡、 髑髏で飾られた教会、風に揺られる色鮮やかな布と髑髏人形、バスや電車で歌う流しのミュージシャン、やたら速く閉まる電車のドア、博物館に飾られる古代の神々のことを覚えている。

 

メキシコの国民的詩人オクタビオ・パスが描くメキシコは、私に旅の記憶や幼少の記憶を思い起こさせる。そして、私のような通りすがりの旅行者が知らないメキシコの奥にもぐりこんでいく。

 

人はどこにいてもひとりである。

本書は、詩人が「メキシコ人」なる性格を描いた本だ。著者は、アステカからスペイン植民地、独立にいたるまでの歴史、政治、宗教、地理を織りこんで語る。タイトルにある「孤独」は、大きなテーマとして繰り返し立ち現れる。

しかし劣等感よりも広く深いところに孤独が横たわっている。この両方の態度を同一視することは不可能である。つまりひとりぼっちと感じるのは劣等感ではなく、異なっているからである。他方、劣等感の場合はしばしば幻想であるが、孤独感は幻想ではなく、現実的な事実の表現である。我々は、本当に異なっている。 しかも本当にひとりぼっちである。

 メキシコ人はその孤独を超越しない。反対にその中に閉じこもるのである。 

人類は、感情や記憶を完全に共有するすべを持たない、独立した個体の集合体だ。言葉や身体や情愛で他者と交わろうとするけれど、完璧な同化はできないから、孤独から逃げることはできない。

メキシコ人の孤独とアメリカ人の孤独は異なる、と本書は書いている。その差はアメリカ人でもメキシコ人でもない私にはわからないけれど、「我々は、本当に異なっている。 しかも本当にひとりぼっちでである」には同意する。

 

パスは、メキシコ人の精神性は「怖いものを眺め、ともに交わり、遊ぶ」感覚だと書いている。町や遺跡に飾られる色とりどりの頭蓋骨、祭りで踊る骸骨、血まみれのキリスト像の記憶がよみがえる。

そして、小さい時に見たメキシコのドキュメンタリーを思い出した。あるメキシコ人家族が、庭にある頭蓋骨置き場(色とりどりの布で飾られた小さい祠)から「これがうちの曽祖父と曽々祖父です」と頭蓋骨をとりだしてにっこり笑ってみせていた。これまでであった家族紹介の中でもとりわけ印象的で、そのあとに『ペドロ・パラモ』を読んで、「ほんとうにみんなパラモなんだな」と納得した記憶がある。メキシコ、先祖の頭蓋骨を庭に飾ってすぐに取り出せる土地。

ニューヨーク、パリ、あるいはロンドンの住民にとって、死は唇を焦がすからと決して口にしない言葉である。反対にメキシコ人は、死としばしば出合い、死を茶化し、かわいがり、死と一緒に眠り、そして祀る。それは彼らが大好きな玩具の一つであり、最も長続きする愛である。

怖いものを眺めること、さらにそれと交わることで生ずる親近感と喜びが、メキシコ人の性格の最も顕著な特色の一つとなっている。村の教会の血だらけのキリスト像、新聞の見出しに見られる気味の悪いユーモア、十一月二日に骨や頭蓋骨をかたどったパンや菓子を食べるといった風習は、我々の存在から切り離せないインディオとスペイン人からの遺産である。

 

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こうしたメキシコ人の性格は、「征服された歴史」と結び付けられる。「征服された歴史」の結果が「閉鎖性」であるという。

閉鎖性は、我々の猜疑心と不信感の一つの手段である。それは我々を取り巻く環境を、我々が本能的に危険なものと考えていることを示している。このような反応は、我々の歴史がどのようなものであり、また我々がつくりだした社会の性格がどのようなものであったかということを考えれば、納得できるだろう。周囲の空気の過酷さと敵意――そして常に空中に漂っている目には見えない、しかも漠然とした脅威――、とげのある殻の液を蓄えている高原の植物のように、外部に対して閉じることを我々に強いるのである。

腐心、偽装、他人を寄せ付けないほどていねいな遠慮、皮肉、要するに、よそ者の視線を避けることで自分自身をも避ける心理的動揺は、恐れて主人の前でよそおう従属人の特徴である。我々の内心が、祭り、アルコール、または死といった刺激なしには、自然な形で決して表されないのは啓示的である。奴隷や召し使いや従属民は、常に微笑か不機嫌かどちらかの仮面をかぶっている。彼らは重大な瞬間とか、ひとりだけの時にしか、その本性を表そうとしない。

支配された歴史によって、不信感と恐れが募り、メキシコ人は他者へ心を閉ざしていった、と著者は書いている。

 ただ、この「他者に自分を開くことへの恐れ」は、メキシコに限らず、「弱さを見せることを恐れ、強さを誇示しようとするマチズモ」として、世界中にあると思う。男性の生きづらさと閉鎖性については、国民性だけではなく、ジェンダー学の視点でも読める。

他人と我々の交際も猜疑心に彩られている。メキシコ人は友人や知人を信用するたびに、己を「開き」、譲渡してしまう。そして信用したものに軽蔑されて、自分が捨てられないかと敬遠する。したがって、打ち明け話は名誉を失墜させるので、聞いたものにとっても、話したものと同様、危険なのである。

異性関係の場合と同様、重要なことは「自分を開かないこと」であり、同時に、相手を引き裂き、傷つけることである。 

閉じようとする男性とは反対に、女性は「自分を開き、受け入れる存在」として描かれる。その代表として描かれるのが、「チンガーダ」だ。

"Somos todos hijos de la chingada."「私たちはみな犯された女(チンガーダ)からできた子である」とは彼らのルーツを語る言葉で、実際にいま生きているメキシコ人で、インディオのみの血を受け継いだ人はひとりもいないという。

チンガールすることが能動的で、攻撃的で、閉鎖的であるのとは反対にチンガールされることは、受動的なもの、無気力なもの、開かれたものをさす。

…「チンガーダ」はむりに開かれ、犯され、あるいはもてあそばれた「母」のことである。

…処女の「母」であるグァダルーペと対比すると、「チンガーダ」は犯された「母」である。彼女の受動性は卑屈である。暴行に対して抵抗を示さない、血と骨と粉の無気力な塊である。…彼女は自分を失い、もはや何者でもなく、無とまじりあい、「無」となる。それにもかかわらず、彼女は女性らしさの残酷な化身である。

「チンガーダ」は、スペインのアステカ帝国征服にたいして貢献したインディオ女性「ドーニャ・マリンチェ」の話へとつながっていく。祖国を侵略者に売り渡し、侵略者の愛人となり、最初の混血をうんだマリンチェは、メキシコでは「裏切り者の代名詞」らしいが、彼女はまさに「現代メキシコの母」を体現している。

 

メキシコ人の精神性は、征服された民として「開かざるをえない」立場であったことから、他者に開くことを恐れて「閉鎖する」ようになった、と私は読んだ。ただ、男は閉じて、女は開く、と性別によってその態度は異なって書かれているので、「メキシコ人の精神性は閉鎖性である」とは言えない気もするし、そもそも女性があまりにも受動的で「メキシコ人」の中に入っていないように見えるので、現代でこの論調で出したら、ぼこぼこに批判されそうだなとも思う。

 

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また、興味深かったのが「アステカ神々の裏切り」について。

アステカ族の神々は自由に選択し、人間はその結果を受けとめる。だから占術で神々の意思を確認する必要がある。アステカ遺跡の「神々の都」ティオティワカンが、春分秋分の日にだけ特別なしかけを施している*1ように、アステカの民は天体の動きにすばらしくつうじていた。それもこれも、神の意志を探るため。

 「宇宙は神々の意思で決まっている」という考えから、アステカ族最後の王モクテスマは、コルテスとスペイン征服を神の意志あるいは神そのものとして受け入れた。これが「神々の裏切り」「神々が見捨てた結果」である。

アステカ族にとっての問題とは、神々の必ずしも明確ではない意思を調べることにあった。そこから占術の重要性が生まれた。神々だけが自由であった。神々は選択する――したがって、ツァルコアトル――がたくさんいる。……メキシコ征服は、自らの民族を拒絶する神々の裏切りなしには説明できないであろう。

…古代アステカ族にとって寛容なことは想像の連続性を確保することであった。犠牲は高いの救済ではなく、宇宙の健全さを意味するものであった。個人ではなく世界が、人々の血と死のお陰で命を保っていた。

なぜモクテスマは屈服したのか。どうして彼は、スペイン人に対して不思議な興奮を覚え、彼らを前にして、神聖というのが誇張ではない迷い――地獄を前にした自殺者がもつ正気の迷い――を経験するのか。神々は彼を見捨てたのである。メキシコ市の始まりとなる重大な裏切りは、トラスカルテカ族によるものでもモクテスマとその一族による裏切りでもなく、神々により犯されたものである。

 

「祭り」についてもよかった。メキシコでは祭りがとても大事で、祭りの時に人々は「閉鎖性」を解き放ち、混じり合うことを許す。文化人類学で語られる「非日常としての祭り」だけではなく、「みずから閉じこもり抑圧している人々が解体される」意味合いを持つのかもしれない。

「祭り」は文字通りの意味での「反乱」である。それが引き起こす混乱で、一定の法と原則に従って支配されている有機体である社会が、解体し、窒息する。しかし、それ自体での、その元の混沌ないしは自由での窒息である。すべてが交わり合う。前途悪、昼と夜、聖なるものと不敬なるものが混交する。すべてが融合し、形と独自性を失って原初のかたまりに戻る。「祭り」は宇宙的な操作、つまり「無秩序」の実験であり、生の復活をうながすための相反する要素や原理の結合だ。儀式上の死が再生、それ自体では不毛な乱痴気騒ぎが、母性あるいは大地の豊穣を挑発する。

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本書は学術的なものではなく、詩人という個人から見たメキシコであり、「国民の精神性」というセンシティブなテーマであることから、さまざまな賛否両論はあるだろう。

それでも、旅をするだけではわからない歴史や文脈について知ることは、やっぱりおもしろい。死生観と歴史観は、メキシコ文学を読む助けになる。それにアステカ文明が好きなので、1ミリも流れていないアステカの血がわっさわっさと騒ぐ。私のメキシコ愛はますます深まるばかりであった。

 確かにその態度には、他の人々と同じように、恐怖心があるかもしれない。しかし少なくとも、隠れもそれを隠そうともしない。もどかしさ、軽蔑、あるいは皮肉をこめて、死を正面から見つめるのである。「もし明日殺すつもりなら、ひと思いにやってくれ」と。

 

 

メキシコ料理はうまいぞ

うまいぞ。

 

オクタビオ・パス作品の感想

 

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アステカとマヤは一緒に語られがちだが、ぜんぜん文化が違う。メキシコのアステカとマヤをイラストでかわいく紹介してくれるので、読みごたえがある。

 

メキシコ文学。フアン・ルルフォはめずらしく作品全部が好きな作家だ。乾いた大地と、死と地続きの感覚がすばらしい。「死の身近さ」は、パスが語るメキシコともつうじている。

 

メキシコ文学。死との近さ、生贄を求める神々が現れては消える。フエンテスはヨーロッパに住んだことがあるので、メキシコらしさとヨーロッパらしさどちらもある。