ボヘミアの海岸線

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『冬の物語』イサク・ディネセン|世界に爪痕を残す

ペーターはなんとなく察しをつけた。不滅という言葉は、こういう状態のことを言うのだろう。もう、これから先も、過去のことも、考えるのをやめた。この時間だけが彼をとらえた。

ーーイサク・ディネセン『冬の物語』

世界にかすかな爪痕を残す

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 「あなたはヨーロッパの冬の絵が好きなのね」と母から言われたことがある。そうかもしれない。ノルウェー・オスロのムンク美術館を訪れた時に買った絵葉書は、「叫び」ではなく、冬の夜のものだった。ピーター・ブリューゲルの絵でいちばん好きなのは「雪中の狩人」だ。

寒さは嫌いだが、緯度が高い地域で見られる、氷河めいた冬の青さは好きだ。ヨーロッパに住んでいた時、あまりに長い冬を呪ったものだが(9月から4月まで真冬でコートが手放せなかった)、あの青く透きとおった空気と空と海には、なんども心を慰められた。ディネセン『冬の物語』を読むと、あの青い冬の空気を思い出す。

冬の物語

冬の物語

 

 

本書の短編は、19世紀から20世紀初頭にかけてのデンマークを舞台にしている。青い夕暮を窓越しに眺めながら、炉端で聞かされる伝承のようだ。

 本書でまず目を引くのが、デンマークの自然にたいする愛情だ。デンマークは緯度が高いため、夏は夜10時まで日が沈まず、冬は夕方4時に夜がやってくる。冬は長く暗く、美しい夏は一瞬で過ぎ去る。ディネセンは、北欧の人々が熱愛する春夏だけではなく、冬も透明に美しく描く。

人は、この土地に先年以上にわたって住みつき、ここの土と気候によって形づくられ、またその思いによって土地に印をつけてきた。今や、故人としての人間の存在がどこで終わり、別の人間としての存在がどこで始まるのか、だれにもわからなくなっていた。ーー「悲しみの畑」

自然はあるがままに透明だが、人間のほうは複雑だ。短編たちに通底するのは「人間がつくった掟」と「居心地の悪さ」だ。

デンマークは他の国と同じように、19世紀から20世紀初頭にかけては、古い慣習と階級制度が根強く残っていた。伝統や慣習は目に見えない糸のようなもので、手繰り寄せれば「自分のルーツはここにある」と安心できるが、糸が自分の気質とうまくなじまなければ呪縛となる。当時の人々が糸から逃れる手段は、21世紀に生きる私たちよりもずっと少なかった。

深海魚について読んだのを思いだした。何千尋の深さの水圧に耐えることに慣れているので、海面にあげられると破裂してしまう。自分もそういう深海魚とおなじで、生き続けてゆくことの重圧に耐えている環境でだけ、安らぎを感じるのだろうか? 父親も、祖父も、さらにその祖先たちも、みんなそうだったのではないか?ーー「真珠」

人の心もずれて、すれ違う。夫は妻の心を知らず、妻は夫の心を知らない。うまく生活しているように見えてじつはお互いの認識がずれていることを、ディネセンはしらじらと浮かび上がらせる。

「男と女は、鍵をかけた二つの小箱のようなものだ。それを開ける鍵は、それぞれ逆の箱に入っている」 ーー「心を慰める話」

コペンハーゲンの若い娘たちのおおかたが、こういうふうに悔しい思いをしたあげくに結婚したものだ。その上で、自尊心を保つために初恋を否定し、夫の立派さを自分の唯一の名誉としあた。その結果、うそとまことの区別ができなくなり、道徳の錘を失って、現実の足場を持たない、たよりない生き方をするようになった。ーー「夢を見る子」

多くの人たちが「伝統だから」「そういうものだから」と心を殺して、自分のやりたいことや、好きな人と一緒になることを諦めてきたことだろう。ディネセンが描く人たちは、歴史と慣習にいったん従いはするものの、心を殺しきりはしない。

彼らは「自分たちの人生はうまく調和していない」と考え、その違和感を大事にする。「自分がいる場所はここではない」「自分がやるべきことは別にある」と、それぞれのやりかたで抵抗して、人生を調和させようとして、世界にかすかな爪痕を残していく。

「カーネーションの若者」「ペータートローサ」の主人公たちは物理的に失踪をはかる。「無敵の奴隷所有者たち」は演技で抵抗を試みる。「夢を見る子」では、抵抗の方法は「夢」である。

 予定調和からはみ出そうとする人たちの物語は、予想する展開とは違うところに鮮やかに読者を連れていく。中でも気に入ったのは、古い伝承のような「少年水夫の話」、現実と夢の境で生きる人々を描く「夢を見る子」、最後の3行で「そういうつながりか!」と叫んでしまった「魚」、表紙のモチーフにもなった「ペーターとローサ」、領主が不可能と思われる試練を課す「悲しみの畑」。中でも「ペーターとローサ」は、ラスト1ページの「やわらかくあたたかい調和」と「極寒の現実」の差がすさまじく壮絶な印象を残す。

 

長い歴史を生き延びた掟は古く巨大なので、人間の慟哭や抵抗をまるごと飲みこんで、なにごともなかったように回り続ける。

それでも、自分の気質と人生を調和させるために、爪痕を残そうとする人間はいる。人は彼らを英雄あるいは愚か者と呼ぶ。ディネセンが「いちばん好きな作品」と語り愛したのは、そういう人たちの物語だった。

 

収録作品

気に入った作品には*印。「ペーターとローサ」はすごいので、とりあえずこれだけでも読んでほしい。

  • 少年水夫の話**
  • カーネーションの若者**
  • 真珠*
  • 無敵の奴隷所有者たち*
  • 女の英雄*
  • 夢を見る子**
  • アルクメーネ*
  • 魚***
  • ペーターとローサ***
  • 悲しみの畑**
  • 心を慰める話**

イサク・ディネセンの著作レビュー

 

Recommend:極寒の地の物語

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アリステア・マクラウドの描く冬もまた透明で美しい。カナダのケープ・ブレトン島は厳しい寒さで知られる。本書で登場した氷河を歩くシーンも登場する。

 

冬のヴェネツィアは霧に飲まれて、前を歩く人も見えない、水と濃霧の迷宮となる。夢とヴェネツィアの小道がまざってあいまいになって、自分も一緒に溶けていく。須賀敦子好きならきっと好き。

 

「少年水夫の話」で登場したラップランドとサーメ人の物語。極寒の地のはずだが、彼らの物語はオーロラの極彩色に彩られる。

 

北欧の厳しい寒さは、このようなすさまじい神々を生み出した。「悲しみの畑」では、北欧の神々は「全能でないからこそ、徳だけに専念できた」と書かれている。

古代デンマークを舞台にした英雄叙事詩。英雄ベーオウルフと極悪巨人グレンデルの肉弾戦と、肝心な時に役立たずな剣が魅力。

ヴィンランド・サガ(1) (アフタヌーンコミックス)

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 「魚」に登場するデンマーク王エリク・グリッピングは、クヌートと同じデンマーク王だった。奴隷と王の関係についても、本書と似ている雰囲気がある。

ヒュッゲ 365日「シンプルな幸せ」のつくり方 (単行本)

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  • 作者: マイク・ヴァイキング,ニコライ・バーグマン,アーヴィン香苗
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  • 発売日: 2017/10/13
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 英語圏を中心に流行したデンマークの生き方「ヒュッゲ」。本書を読むと、長く厳しい冬を過ごすために「人と会う」ことと「物語」がいかに重要視されていたかがわかる。