『移動祝祭日』ヘミングウェイ|どこまでもついてくる祝祭
「もし、きみが、幸運にも、青年時代にパリに住んだとすれば、きみが残りの人生をどこで過ごそうとも、それはきみについてまわる。なぜなら、パリは移動祝祭日だからだ」
ーーアーネスト・ヘミングウェイ『移動祝祭日』
どこまでもついてくる祝祭
世の中には2種類の人間がいる。パリにどうしようもなく惹かれる人間と、そうでない人間だ。私は後者だが、周りにはだいたいいつも数人の「パリ人間」たちがいた。彼らはパリに足を踏み入れる前からパリを第二の故郷と見なし、パリを何度も訪れ、フランス語を学び、フランス語を使う仕事をして、何人かはパリに移住した。
本書を読んで、ヘミングウェイも「パリ人間」であり、彼らにとってパリは“A Mobable Feast”ーーどこまでもついてくる祝祭、移動祝祭日であることを知った。パリでワインを飲み、散歩をし、交流をして、「パリに帰りたい」と語る友人たちとヘミングウェイの言動がそっくりなものだから。

- 作者: アーネストヘミングウェイ,Ernest Hemingway,高見浩
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2009/01/28
- メディア: 文庫
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私たちは顔をあげた。すると、愛するすべてがそこにあった。私たちのセーヌと、私たちの街と、私たちの街の中の島とが。
ヘミングウェイが回顧するパリは、専業作家になったばかりの20代に過ごしたパリだ。最初の妻ハドリー*1とともに、貧しい人が住む地区に住みつき、「空腹はよい修行」と言いながらごはんを抜いて歩き回り、友人に借金をしつつ、貸本を読み、競馬を副収入にしていた。
「いまの時代にいちばん欠けているのは、野心をまったく持たない書き手と、本当に素晴らしい、埋もれたままの詩だと思うんだ。もちろん、どうやって暮らしていくかという問題もあるけどさ」
「貧乏だわー金がないわー」とぼやいてはいるものの、悲嘆しているわけではなく、「貧乏だけどあの頃は幸せだった」という愛着がにじみ出ている。貧乏だというわりには毎日ワインを飲んでいるし、ボトル1本を開けることもしょっちゅうで、なじみのカフェに入り浸り、競馬にお金を使っている。じつに楽しそうだ。*2
1日を台無しにしてしまうのは人との付き合いに限られたから、面会の約束さえせずにすめば、日ごとの楽しさは無限だった。春そのものと同じくらい楽しいごく小数の人たちを除けば、幸福の足を引っ張るのはきまって人間たちだったのである。
ヘミングウェイはパリの芸術家たちとの交流も多く描いているが、こちらは「楽しい交友」と「うんざりする交友」に二分される。
作家のエズラ・パウンドやエヴァン・シップマン、伝説の書店「シェイクスピア・アンド・カンパニー書店」のシルヴィア・ビーチは、「楽しいごく少数の人たち」として、好意的に描かれる。中でも、シルヴィア・ビーチにたいして、若いヘミングウェイは絶大な信頼を寄せていた。
シルヴィア・ビーチはアメリカからパリに移住して、オデオン通りにシェイクスピア・アンド・カンパニー書店を開いた。シルヴィアは本を売るだけではなく貸本も営んでおり、無名だったジョイスの『ユリシーズ』を最初に刊行する勇気と慧眼を持っていた。シルヴィアの書店はパリ在住の作家たちにとって「楽園」だったのだろう。
第二次世界大戦の後、シルヴィアは書店を閉めたが、別の人がつくった書店が名を引き継いで、今も営業している。私はパリを訪れた時に3回この書店を訪れた。土日は行列が並ぶほどの盛況ぶりで、入り口にはヘミングウェイとスコット・フィッツジェラルドの本が「Lost generation」というタイトルとともに、壁一面に並んでいた。
そう、スコット・フィツジェラルドも当時のパリにいた。ヘミングウェイとフィツジェラルドのぐだぐだリヨン旅行記は、本書でもずば抜けておもしろい。ヘミングウェイは「年上で著名な作家とお近づきになれることに興奮していたがすぐに後悔した」として、スコットのうんざりする所業と、彼の妻ゼルダのやばさを書き連ねている。「めんどうだから友人やめよっかな」と考えたヘミングウェイが、『グレート・ギャツビー』の素晴らしさに心を打たれ、「奇怪な言動はすべて無視し、彼の友達でいよう」と決意するあたりは、作家の友情らしくてよい。スコットが妻に「あれのサイズが小さい」と言われて落ち込み、「俺のサイズはどうなのかはっきり教えてくれ」と頼みこむ「サイズの問題」も爆笑しながら読んだ。
「たまにうんざりすることもあるけれど楽しく美しいパリ」の回想だけで終わるのかと思いきや、終盤になると、光に満ちたパリに暗雲が立ちこめてくる。幸せなパリ生活を終わらせるきっかけとなった「もう1人の女」がやってくる。
「もう1人の女」とは2番めの妻ポーリーンだ。ヘミングウェイはパリ時代、ポーリーンに出会って不倫関係になった。当時は熱烈な恋愛をしていたはずだが、30年後のヘミングウェイは彼女のことを「老獪きわまる術策を駆使するもう1人のリッチな人間」とこきおろしている。
私は彼女を愛していた。彼女だけを愛していた。二人きりになると、素晴らしい、魔法のような時をすごした。私は仕事に励み、彼女と忘れがたい旅をし、これでもう2人は大丈夫だと思った。けれども、晩春になって山を離れ、パリにもどってくると、またもう1人の女とのことがはじまったのだった。
「彼女」とは、最初の妻ハドリーのことだ。ヘミングウェイは、ハドリーと離婚した1か月後にポーリーンと再婚している。なのに「彼女だけを愛していた」? 「2人だけで大丈夫だと思った」? なんと都合のいい記憶改変。みずから不倫をしたくせに「最初の妻だけを愛していて、自分は老獪な術策を駆使する女にはめられた」とは(しかし不倫男・浮気男はよくこのような記憶改変をする)。
ここで気づく。ヘミングウェイが本書を書いたのは、銃で自殺する数か月前のことだったと。
彼が光に満ちたパリのことを書いたのは、自分を覆いつくそうとする闇を払う「光に満ちたパリ」が必要だったからではないか? この回想録は、ヘミングウェイのための「美しい記憶に満ちたフィクション」であり、記憶を改変してでも、彼は30年後の自分に「どこまでもついてくる祝祭」を引き寄せたかったのではないか?
パリには決して終わりがなく、そこで暮らした人の思い出は、それぞれに、他のだれの思い出ともちがう。私たちがだれであろうと、パリがどう変わろうと、そこにたどり着くのがどんなに難しかろうと、もしくは容易だろうと、私たちはいつもパリに帰った。
現実では、ヘミングウェイの幸福なパリは終わった。しかし、彼は「パリには決して終わりがない」と書いた。最終章「パリに終わりはない」は、彼の切実な願いだったのではないか。
ヘミングウェイの回想につられて、かつて自分が「移動祝祭日」を求めていたことを思い出した。大学生の頃、私は愛する記憶と土地を持つ人たち、どこまでもついてくる祝祭を持つ人たちのことがうらやましかった。長期休暇がくれば彼らはパリ、ニューヨーク、ブエノスアイレス、ペテルブルグ、カイロ、ヤンゴン、ヘルシンキ、それぞれ祝祭の土地へ帰るのに、私には帰りたいと思う場所や国がなかった。
私は大学の図書館へ行き、なにかしら惹かれる土地が見つかるかもしれない、との期待から、片っ端から外国文学を読み漁った。結局、移動祝祭日を探していろいろな国の文学を読みまくっていたら、やがて読むことと書くことが移動祝祭日になっていた。
つまるところ「どこまでもついてくる祝祭」は、パリでもいいし、パリでなくてもいい。土地である必要もない。落ち込んでいる時、つらい時、「帰りたい」と思える記憶が結びついているものすべてが祝祭だ。
祝祭を持つ人たちは、祝祭を手元から離すことなかれ。祝祭を持てなくなるぐらいなら、祝祭でないものを捨てろ。祝祭をmobableかつportableにして、いつも近くにたぐり寄せておくんだ。
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Ernest Hemingway "A Moveable Feast",1964.