ボヘミアの海岸線 - 海外文学の感想

海外文学/世界文学/ガイブンの書評と感想ブログ。昔の名は「キリキリソテーにうってつけの日」

『パリに終わりはこない』エンリーケ・ビラ=マタス

<<私くらいの年齢になれば、何とかして外見だけでもヘミングウェイに似ているとまわりの人に認めてもらいたくなりますよ>>

  ーーエンリーケビラ=マタス『パリに終わりはこない』

自意識・イン・パリ

私たち人類は、「褒められたい」「認められたい」と願う生き物で、得意なことや好きなこと、執着することで欲求を満たそうとする。たとえば、本や文章が好きな人なら「文章を多くの人に読んでほしい」「文章がうまいと褒められたい」「作家として認められたい」と願うだろう。

ビラ=マタスは、「書くことに執着する者の自意識」をこじあけてくる。

パリに終わりはこない

パリに終わりはこない

 

 

あるスペイン人の作家が、初めての小説を書くためにパリで過ごした青春時代を回顧する。

語り手の「私」は世にも奇妙な「ヘミングウェイワナビー」だ。ヘミングウェイは彼にとって「青春時代のアイドル」で、「ヘミングウェイそっくりさんコンテスト」に参加し、「少しずつヘミングウェイに似てきている」と主張する。

<<私くらいの年齢になれば、何とかして外見だけでもヘミングウェイに似ているとまわりの人に認めてもらいたくなりますよ>>

だが、どうもおかしい。語り手が執着するのは「ヘミングウェイと外見が似ている」ことで、文体や小説のスタイルではない。しかも、外見は「まったく似ていない」と酷評され、そっくりさんコンテストでもぶっちぎり最下位で失格する。にもかかわらず、彼の暴走は加速して「女装したヘミングウェイのコスプレ」までしだす。もはや狂気の沙汰だ。

変装していつもと違う格好で鏡の前に立ちたいという気持ちが抑えきれなくなった。そこで、女装したヘミングウェイのような衣装を身につけた。つまり、ヘミングウェイの母親が、子供の彼に花で飾り立てた帽子をかぶらせ、ギンガムの服を着せたように、私は女の子のブロンドの巻き毛を付けた男の子に変装した。  

 

笑ってばかりもいられない。爆笑エピソードをつうじて、現実と理想の悲しく埋めがたいギャップが浮き彫りになってくる。彼は、ヘミングウェイに外見が似てほしいけど似ていない。若い頃の彼も、「名の知れた作家になりたい」「褒められる小説を書きたい」と思っているが、理想のように書けない。

なにも書いてはいないけれど、すごい作家だと思われたいし、かっこよく見られたいし、謎めいた人物だと思われたい。そのため語り手は全身真っ黒の服装をし、「そのうち自殺するつもりだ」と口にしたり、著名人の名前を羅列して接触をにおわせたりする。

あの頃を振り返ってみると、自分では名の知れた作家になるつもりでいたが、悲しいことにもっとも大事なことが書けていた。つまりまだ本を一冊も書いていなかったのだ。

つまり、本を書くことも、女性も怖かったのだ。

このあたりから、読者がだんだん真顔になってくる。遠くからほほえましく眺めていた「なりたいのになれない」痛みが、ひとっとびに跳躍して眼前に飛びこんできて、私たちの黒歴史をこじあける。

失敗してもかまわないという覚悟がまだできてなかった。というか、より性格には、失敗したらとても耐えられそうにないとわかっていた。

 

語り手は「自意識」にとりつかれている。自意識は、長いトゲで全身を覆われた魔物のようなもので、遠くにいればほほえましく見ていられるが、近くにいるとトゲが刺さって悶絶するほど痛い。そんな凶器を「私」はぽいっと読者に投げこんでくる。

じつにひどい=マタスだが、「私」は親切にも自意識の痛みとうまく付き合う方法、「アイロニー」を伝授してくる。

アイロニーというすばらしい道具をうまく活用できれば、すべてを大げさに考えず、自分自身を笑い飛ばし、ものを書くことと女性に対する恐怖心を和らげることができたにちがいない。つまり、アイロニーを通して自信を持てるようになったはずである。

アイロニーとはなにか? Oxford Dictionaryによれば「ある事柄を伝える時、まるで正反対のことを言うこと*1」とある。たとえば、濃霧が立ちこめる鬱屈とした日に英国人が「最高の天気で気分も最高」と挨拶を交わすのはアイロニーだ。

アイロニーには「ロマンティック・アイロニー」もある。こちらは「自分の作品についておどけて自嘲ぎみな態度をとることで、己を守る方法」*2だ。本書の語りはおもに後者の「自嘲ぎみのおどけた態度」だが、ヘミングウェイを好きだと言いながら外見にこだわり続けるあたりは、元祖アイロニーもあるように思える。

なぜアイロニーが、自意識の痛みから自分を救うことになるのか。「あの時はひどかった、笑っちゃうね」と語ることで、「自分は過去の自分とは違う」と示せるからだ。

他者に自分の視点を仮想的に近づけることで、トゲマリモがささっている「自分の本体」から距離をとる。アイロニーは、痛みに悶える者を救う、瞬間移動のイリュージョンだ。

私が好きなのは攻撃的なそれではなく、失意と希望の間を揺れ動いているアイロニーである。これでお分かりいただけますね?

 

ヘミングウェイ『移動祝祭日』の暗黒パロディの裏には、「ものを書く人間が、理想と現実にギャップがあって痛みを覚える時、どうやって自意識の痛みと付き合っていくか」という、どまじめな問いが横たわっている。

自意識爆弾を投げられた読者は、その反応によって、「自意識との付き合い方」を自覚させられることになる。

かつての語り手のように痛み悶えるか、作家となった語り手のように距離をとりつつ自意識を温存するか、解体して並べるか、そばに置いたまま埋葬するか、きっぱり忘却して過去をなかったことにするか。

私も書くことに執着する人間のひとりだが、本書のように自分についてひたすら考えるより、自分以外の他人が考えていること、異なる人間の接触による変化に興味があるためか、どこか乗り切れなかった。残念なことだが、音楽性の違いによるものだろう。私は鎮痛剤なしにみずからを解体するフレッシュ臓物系が好みで、自意識を埋葬しようとして失敗した自意識ゾンビ系の腐臭が苦手なので、ビラ=マタスをなんとなく後回しにしてきたが、本書は消臭しながら自分を解体していく「クリーン臓物系」だったので、思ったよりも楽しく読めたことは幸運だった。

 

結局のところ、パリに、自意識の痛みにもだえる青春に、終わりはくるのだろうか? 

 この夏は終わるかもしれない。いや、終わるだろう。世界は崩壊するかもしれない。いや、崩壊するだろう。しかし、私の青春に、パリに終わりはけっしてこないだろう。そう考えるとぞっとする。

終わらないのだとしたら、ぞっとする。しかし、ビラ=マタスはパリが終わらないことへの希望も書いている。本書は、自意識を埋葬せずに持ち続けることへの肯定、自意識への讃歌なのかもしれない。

大半の人は若い頃の旺盛な想像力が衰えていくにつれて、現実に迎合し、残された人生を苦々しい思いを抱いて過ごすようになるが、そうならないよう抵抗し続けなければならない。残された道は、しぶとくあきらめずほかの人たちよりも長期間想像力を信じ続け、そうした頑迷なまでの信念を粘り強く保ちつつ成熟することである。 

私がここから出て行けば、人格、もしくは良識、パリのありとあらゆる郷愁が溶解、分解、崩壊し、粉みじんに砕け散るだろう。要するに、アイロニカルになるということは、姿を消すことなのだ。

 

 Recommend:自意識文学、登場した作品(の一部)

同じようなタイトルと構成だが、内容はまったく異なる。ヘミングウェイのパリは「光に満ちたパリ」で、ビラ=マタスのパリは「暗黒メンタルのパリ」だ。感想もぜんぜん違うものになった。


ミランダは、こちらが驚いてしまうほど、「ものを書く自分のいやらしさ」を素直に開陳する。アイロニーはやはりかっこつけ感があるが、ミランダの素直さこそ最強では、と思っている。

アメリカの「自意識文学」として名高い。ワインズバーグ・オハイオの住民たちは「ものを書く」ことに固執しているわけではないが、皆が「認めてほしい」「愛してほしい」と叫んでいる。

愛人 ラマン (河出文庫)

愛人 ラマン (河出文庫)

 

 語り手とビラ=マタスが住んでいた部屋のオーナーがデュラスだった。すばらしいフランス語を話す彼女から家賃を踏み倒し続けた主人公には恐れ入る。

淡い焔

淡い焔

 

 「知的に見える」という理由で、本書で思いっきり丸ぱくりされている。確かに見た目もタイトルもかっこいいよね。わかる。

ナボコフと同じく丸ぱくりされた人。読者を殺そうとするビラ=マタスは当然ボルヘスも殺そうとする。

主人公の部屋にポスターが貼ってあった。「本の形をした睡眠剤」と名高い(『灯台へ』はおもしろい)ウルフのポスターが貼ってあるのはギャグである。

そして誰もいなくなった (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

そして誰もいなくなった (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

 

 語り手を打ちのめしたミステリの女王。あの本がこの文脈で出てくるとは。

ランボー全詩集 (ちくま文庫)

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 マラルメ? それともランボー

「なんとも評しようのない作家」と書かれていて笑った。フォークナーの自意識文学ぶりはフレッシュ臓物そのものなので、私はわりと好き。

 

ヴァルザーの詩と小品 (大人の本棚)

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 「ここで学ぶことはほとんどない。先生が足りない。…つまり、将来僕たちはみんな人に使われる取るに足りない人間になるのだ」

煙滅 (フィクションの楽しみ)

煙滅 (フィクションの楽しみ)

 

 語り手が書店で会ったウリポ勢。『煙滅』は「い段」を抜く(フランス語では"e")という驚異の書物。

「パリに終わりはこない」と言われたら絶望するだろう、と本書で言及のあった作家。「死の作家」と呼ばれるキローガにとって「終わりはない」ことは絶望だった。