『最初の悪い男』ミランダ・ジュライ|自己防衛の孤独から抜け出して、他者へ
効果は、一応はあった。ただし"アブラカタブラ"と唱えたらウサギが消えました、じゃん! というような効き方ではなかった。"アブラカタブラ"を何十億回、何万年もかかって唱えつづけているうちにウサギが老衰で死に、それでもまだ唱えつづけているうちにウサギは腐って分解されて土に還りました、じゃん! という感じだった。
ーーミランダ・ジュライ『最初の悪い男』
人恋しさとさびしさを埋めるには他者の助けがいるが、他者は自分とは違う人間であり、望むとおりに愛してそばにいてくれるとは限らない。期待して心をあずければ、望みが叶わなかった時の痛みは激しいものになる。
他者と真剣に関われば、激しい喜びと激しい痛みが制御不能でやってくる。関わらなければ、傷つくリスクを抑えられる。さて、どちらを選ぼうか?
自己防衛する孤独な女の物語である。
主人公シェリルは43歳の独身女性で、護身術DVDを販売するNPOに勤めている。親しい人間関係はなく、側から見れば孤独に暮らしているが、シェリルからすればぜんぜんひとりではない。
いつも脳内は独り言と妄想でいっぱいで、自分で自分に返事をするのに忙しいし、片思いしている男性との恋愛シミュレーションする時間も必要だ。離れ離れになった運命の相手(クベルト・ボンディという名の赤子で転生している)とも対話している。
わたしは目を閉じた。クッションの海にうずもれ、これから始まる甘い関係の入口に立って、気分はすっかり王だった。すばらしいごちそうを前に玉座に座る、王。
シェリルは、完璧な「システム」の中で暮らしている。世界の構築:私。主演:私。共演:私。演出:私。舞台演出:私。小道具:私。他人のよけいな邪魔などない。あまりにも騒がしい孤独。圧倒的な世界平和。ピース。
しかし、彼女の視点から離れると、いろいろ歪みが生じていることがわかる。妄想フィルター越しで他者と会話してるから会話がかみあわないし、喉になにかがつかえる症状(ヒステリー球)が出ているし、色彩療法やカウンセリングを渡り歩かなくてはならず、悩みを吐き出せるのは医者しかいない。
だが、彼女は現実に目を向けない。自分の箱庭を壊したら、自分を守れなくなるからだ。
人は誰だって自分のことをひどい人間かもしれないと思うものだ。ただしそれを口に出して言うのは、誰かにそんな自分を愛してほしいときだけだ。
そこへ黒船がやってくる。上司の娘クリーが、シェリルのメンタル鎖国ライフをぶち壊す。クリーは巨乳で強烈に足がくさい20歳で、五感と肉感と暴力を具現化したアメコミみたいな存在だ。
妄想によって精神的に自己防衛していたシェリルは、現実の襲来にたいして、物理的な自己防衛を迫られる。
ノーノーノーノーノーノーノー。
なかば強制的に、シェリルは制御不能の他者、制御不能の自分と対峙して驚愕しつづけ、やがて世界線を2つほど飛び越えて、傷つかない孤独な「静」の地平から、他者がいる「動」の地平へたどりつく。
いろいろな意味での「自己防衛」の話であり、多くの人が自分の痛さと共鳴して頭を抱えるはめになるだろう。だが大丈夫、ミランダは全世界の痛い人間に優しい。
初期のシェリルは「自分」以外の人と話すことに不慣れすぎて、自分の意見を言えず、いやなことがあってもノーを言えなかったが、やがてクリーとの対話をとおして、制御不能な他者、制御不能な世界と近づいては別れることを学ぶ。壁の印とベッドでの会話、つららのシーンは胸にせまった。
「反撃したんでしょう?」
「つまり、自己防衛ということ?」
「そう」
「いえ、でもそういうんじゃないんです…」
「大声を出しましたか?」
「いえ」
「"ノー"と言ったりもしなかった?」
「ええ」
人は他者と交わることで、ひとりでは作り出せない幸福を覚えるし、ひとりでは耐えられない痛みに悶絶もする。
こんな思いは消してしまいたいと嘆き、もう二度と他者に期待しないと誓っても、それでも手を伸ばしてしまうのは、痛みを忘れる愚か者だからか、ぬくもりと痛みのきらめきが魅惑的だからか、それとも人間であることをやめられないからか。
そんな事故みたいな恋の寿命はどれくらいなんだろう。一時間。一週間。もってせいぜい数か月だ。それが終わるのは自然の摂理だ。季節のように、老いのように、果物が熟すように。そのことが何より悲しかった――誰が悪いわけでもなく、誰にもそれを止められないということが。
でも、それこそが恋というものなのかもしれないーー考えないことが。
ミランダ・ジュライの作品レビュー
Recommend:身体と孤独の回復
表題の短編「青い野を歩く」の主人公は、シェリルに近い。誰とも触れ合わずに生きてきた男が、他者の温度に触れた時の描写がすごい。
心と体のバランスを失った女性が、静かに回復していく物語。「身体の回復」というテーマは、本書と共通しているものがある。
ひとりだけどぜんぜんさびしくなんかない、なぜなら彼には数千数万の本と言葉があるからだ。シェリルの妄想時代はきっとこんなふうに、あまりにも騒がしい孤独だったのかもしれない。
Miranda July "The First Bad Man",2015.