ボヘミアの海岸線

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『春にして君を離れ』アガサ・クリスティー|愛に満ちた理想の家族という幻影

 「度しがたい道徳家なんだなあ、きみは」

――アガサ・クリスティー『春にして君を離れ』

 

人間は自分が見たいように世界を見るし、自分が見たいように他者を見る。自分に似たところを見つけたり、自分がなりたい姿を見出せば、他者を好きになるし、自分にあると認めたくないものを他者のうちに見れば、嫌悪して遠ざける。

そうして私たちは自分というフィルター越しに、願望を世界と他者に投影する。そのフィルターが分厚ければ分厚いほど、理想の世界に生きられるが、他者の心からは遠く隔たっていく。

春にして君を離れ (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

春にして君を離れ (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

 

 

舞台は1930年代イギリス。語り手のジョーン・スカダモアは、自分の生活に満足しているイギリス人女性だ。彼女の人生は完璧である。優しく裕福な夫、独立したすばらしい3人の子供たち、お互いがお互いのことを深く理解しあい、愛し合っている。

ところが、偶然に会った旧友の一言が、彼女の完璧で安定した認識に小さな亀裂を入れる。「あなたの子供は、家をそれほど愛していないのでは?」そんなばかな、これだから不幸な女の妄想は、とジョーンは一笑にふすが、たまたま砂漠しかない異国のレストハウスに足どめされてひとりの時間がたっぷりできたことで、ジョーンは亀裂をのぞき見ながら、自分の人生を思い出していく。

 

この小説では、舞台はほとんど動かない。しかし、ジョーンの人間関係と過去、つまり彼女の世界すべてが地すべりして変わっていく。

ジョーンは夫や子供との会話を思い出しながら「私は家族に愛されて、よく理解しあっている理想の家族」と正当化しようとするのだが、思惑とは裏腹に、認知の歪みがじわじわと明らかになっていく。

 自分中心にものを考えるたちじゃない。自分のことなんて、あまり考えたことがない。 

「あなたとわたしって、とてもいい組み合わせだったんですわ」「そうだね。あまり喧嘩もしなかったし」

 

ジョーンは、フラナリー・オコナーの小説に出てくる「善良な人々」、より正確にいえば「自分が善良だと思っている人」だ。

オコナーは登場人物に内省をぜんぜん期待していないので、恩寵光線といった外部からの力によって目の中の丸太を叩き落す。一方でクリスティーは、登場人物に内省させる。気づきたくないこと、見たくないことをじわじわと明らかにする胃痛心理サスペンスによって、丸太の存在に気づかせる。

 

「だいたいお母さんには、お父さんのことなんか、何一つ、わかっていないんだよ」「もうたくさんよ、トニー。もちろん、お父さまのことはよくわかっていますとも――あなたたちよりずっとよく」「へえ、そうかなあ。ぼく、ときどきお母さんって、誰のこともぜんぜんわかっちゃいないって気がするんだ」 

 

ジョーンは、部屋にいながらにして北半球から南半球へ移動してしまったかのような、呆然とするしかない、人生を根こそぎにする激震を経験する。

なにひとつ事件は起こっていないのに、人間関係も事実も変わってはいないのに、世界を揺るがせるその手腕は、さすがクリスティーだとうなってしまう。

 

私たちは、誰もが「自分」という名のフィルターからは逃れられない。人間は他者と心を共有できる仕組みを持っていないから、他者の言動を自分なりに判断して意味づけするしかない。

そういう意味では、誰もが異国の砂漠にひとりぼっちで立っている。

 

もし砂漠に立っていることに気づいて、それでもひとりはさみしいのなら、他者を他者として認め、心の溝をすこしでも埋めるよう、言葉と態度を尽くすしかない。あるいは、なにも見ないことにして、目を開けながら盲目になるか。

どちらにせよ私たちは、ジョーンの孤独をとおして人類の孤独につきあたる。

嫌悪と苛立ちとさみしさと悲しみがない交ぜになって心にしみこんでくる、とてもさみしい小説だった。

 見渡す限り遮るものもない沙漠――けれどもわたしはこれまでずっと、小さな箱のような世界で暮らしてきたのだ。

 

 

アガサ・クリスティーの作品レビュー



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村上春樹が「最後のとっておき」として訳したアメリカ南部文学の古典。自分が見たい幻影を相手に見る人類の孤独を、やさしさと切実さでもって暴いていく作品。さびしい小説の傑作だと思っている。

 

目の中に丸太が入っている人間に、一撃を与えて丸太を叩き落す瞬間を描き続ける。その劇的な一瞬があまりにも劇的なので、思わずなんども見入ってしまう。

 

激しい妄想世界に生きている、孤独な女が、他者を他者として認識する話。ジョーンほど人に悪影響を与えているだけではないが、精神の箱庭ぶりは似ている気がする。