『悪の法則』コーマック・マッカーシー|処刑器具として動き出す世界
自覚しておいてほしいのはあんたの運命はもう固まってるってことだ。
ーーコーマック・マッカーシー『悪の法則』
たとえば国境をわたる時、私たちはたいてい、自分の歩く道は自由に行き戻りできる双方向の道で、ちょっと冒険に出てもすぐに戻ってこられると信じている。私たちが知らない道を安心して気軽に歩けるのは、世界が「自分が知るルール」で動いていると信頼しているからだ。
その信頼はだいたい合っているが、たまに例外がある。自分の知るルールが適用されない世界、簡単に行って戻ってこれると思っていたら二度と戻れない道がある。
アメリカ人男性「弁護士」の人生は順風満帆だった。仕事でうまくいっていて、最愛の恋人がいる。なにも不自由はない。しかし、もっと金が欲しいと欲が出た弁護士は、裏社会につうじる知人経由で「1回きりだから」とメキシコの麻薬取引ビジネスに関わる。
弁護士は、自分のことを「うまくやっている」と思っている男だ。実際にうまくやってきたのだと思う。だが弁護士の自信とは裏腹に、不穏な警句がなんども登場する。ダイヤモンド商、麻薬界隈の人間たちが、さざ波のように何度もつぶやく。「行ったらもう後戻りできない」と。
最初の切子面がカットされるともう後戻りできません。合一の象徴となるべきものが永遠に不実を残すことになるわけですがそこにわたしたちは厄介な真実を見てとることができます。人間の企ての形は良かれ悪しかれ着手した時点で完成するという真実を。
自覚しておいてほしいのはあんたの運命はもう固まってるってことだ。
そしてそのとおりになる。
全編に渡って響く「ポイント・オブ・ノーリターン」「いちど動き出したらとまらない世界」が、容赦なく圧倒的な力で弁護士とその周囲を踏み潰しにかかっていく。
この法則は、やばい処刑器具「ボリート」に凝縮されている。ボリートは、絶対に切れないワイヤーを締めるモーターつきの器具で、ワイヤーを標的の首にかけて発動させると、穴が穴でなくなるまで絶対にとまらない。標的はワイヤーを外すことができず、とめることもできず、頸動脈を切られて死ぬ。リカバリーはできない。とめることもできない。
本書の主人公は、弁護士でもメキシコの麻薬カルテルでも密売人でもなく、「意思を無視する、機械じかけの処刑器具として動き出す世界」であるように思える。
たしかに麻薬カルテルや元凶となる人物はいるが、すべてを仕組み、統率している中心人物はいない。それに、おそらく著者はあえて「誰がなにをたくらみ、どう動いているか」を曖昧に書いている。結果として、悪意ある「特定の人間」ではなく、意思ではどうにもならない処刑システムとしての世界が浮かび上がる。
弁護士の運命は、ギリシア悲劇を思わせる。神々が決めた運命を人間が避けられないように、処刑器具として動き出した世界をとめられない。
ギリシア世界では「神が決めたことだから」と神々にすべてを帰することができるが、最悪なことに、神々がいないマッカーシーの世界では、このスイッチを入れるまでの「選択」はできるのだが、入れた後の選択ができない。
でも、スイッチを入れるまでの選択ができたのだから、入れた後も自由意思で選択できる、まだとめられると思ってしまう。自分のいた世界のルールで考えてしまう。
それに、慣れ親しんだ因果応報の世界観とも違っている。この観点から言えば、弁護士がやった過ちと弁護士の受けた罰は釣り合っていない。弁護士だってきっと思っただろう、「たしかに悪いことはしたが、これほどのことをされるようなことはしていない」と。でも残念ながら、ぜんぜんそういう世界ではないのだ。
受け入れない人間たちにたいして、世界は容赦なく動き続け、血を食らいながら、途方もない認識の落差をえぐり出していく。(弁護士が常識をひきずってもたもた逃げようとするシーンは、本当に胃痛しかない)
おれは人に何かを決められるのが嫌いだ。しかし情報がたくさん集まるのを待って決断を先延ばしにしてると誰かに決められることになるかもしれなん。それでも自分で決断する余地はあると思うだろう。しかしその余地はないんだ。
コーマック・マッカーシーは、すべての結果が運とそれまでの選択によって決まる世界と、その臓腑でうごめく人間たちを描く。
弁護士が受ける警句はどれもこの世界観に沿ったもので、終盤にある弁護士と有力者の会話は、もっとも純度が高い残酷がつまっていて、もっとも好きだ。この地点に到達した時、弁護士と読者は、容赦ない災厄の世界と目を合わせて対峙する。
おれにわかるのはあんたが自分のした間違いをなんとかしようとしている世界はあんたが間違いをしてしまった世界とは別の世界だってことだ。あんたは今自分が十字路に経って進むべき道を選ぼうとしていると思ってる。でも選ぶことなんてできない。受け入れるしかない。選ぶのはもうとっくの昔にやってるんだから。
純度の高い、しかし絶対に関わりたくない世界だった。でも残念なことに、そんな私のちっぽけな意思も、世界はなんとも思っていない。ただ今の私は運よく、その道に至る選択をしていないだけだ。世界の上を揺れ動いているギロチンに気づいただけでも、幸運だというべきだろうか?
Movie
もともとコーマック・マッカーシーは、映画脚本として書いている。リドリー・スコットが監督で映画化しあ。マイケル・ファスベンダー、ブラッド・ピット、ペネロペ・クルス、キャメロン・ディアス、ハビエル・バルデムと、大御所だらけだが、興行収入はいまいちだったらしい。
誰がなにをしてどう悪い方向に進んでいくのかが曖昧でわかりにくいからかもしれないが、そこをはっきり書いていたら、きっとこんな後味にはならなかっただろうと思う。メキシコとアメリカの国境あたりの風景、ブラッド・ピットのあれを含めて、私は好きだった。
コーマック・マッカーシー著作の感想
Ralated books
『悪の法則』と同じ「選択した結果を引き受けろ、ただしやったことと受けることは釣り合わないがな」という残酷世界を描いている。『血と暴力の国』では、残酷世界の体現者はひとりの犯罪者に凝縮されている。この2つは同じ世界を違う形で書いているので、まとめて読むことをおすすめ。
神々の気まぐれによって多大な犠牲(だいたい命)を払う人類。ギリシア・ローマの世界観は、おそろしい世界の原因を神々に見ていたけれど、神々がいないときっとコーマック・マッカーシーの世界になるのだろう。
とにかく関わった人間がほぼ死ぬ、全滅叙事詩。狂気の女によってこの舞台は組み上げられる。災厄としか言いようのない世界。ガイブン怖い女選手権に永久ノミネートされるやばい女たちがたくさんいる。
ヴェイユは不幸を「底の底にまで下っていき、身体と精神が痛めつけられ、奪われた状態」と書いている。弁護士は不幸な人間に転落した。
「余地があると思っている」「選択できると思っている」が、じつはそんな選択はなく、ただ受け入れるしかない世界。
行ったら戻ってこれない世界観は同じだが、リコは弁護士と違って、覚悟を持ってアビスにダイブしている。果てしなく強いが、人間離れしている。