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『血と暴力の国』コーマック・マッカーシー|出会ってしまったら終わりの災厄

出直しなんてできないんだ。そういう話だよ。きみのどの一歩も永遠に残る。消してしまうことはできない。どの一歩もだ。言ってることわかるかい?

ーーコーマック・マッカーシー『血と暴力の国』

 

 『悪の法則』と『血と暴力の国』は異なる手法で同じマッカーシー・ワールドを描いていると思う。

どちらも中心にあるのは「とめられない災厄」「選択がもたらす、変えられない運命への突進」だ。『悪の法則』では複数組織のルール、『血と暴力の国』ではひとりの殺戮者が、命を刈り取る災厄として登場人物の前に立ち現れる。

血と暴力の国 (扶桑社ミステリー)

血と暴力の国 (扶桑社ミステリー)

 

 

ベトナム帰還兵のモスは、アメリカとメキシコの国境近い荒野で、偶然に銃撃戦にあった麻薬組織の車を見つける。死体と麻薬、そして240万ドルの大金を見つけたモスは、金を持ち出す。目撃者は誰もいなかった。しかし、うっかりした理由で、災厄としか言いようのない男シュガーに見つかってしまう。

 

シュガーは、『ブラッド・メリディアン』の判事を思い出させる殺戮者だ。「自分と関わった人間は命が短くなる」と言い放ち、自分の邪魔をした人間は殺すルールを自分に課している。自分にした約束とルールについてはおそろしく律儀で、ぜんぜん関係ない人間でも、自分への約束を守るためにわざわざ殺しに行く。

そしてシュガーはとても饒舌だ。とくに殺す相手を目の前にした時の饒舌ぶりは圧巻で、太陽が東から上るのは当然だろうと言わんばかりに、当たり前のように殺戮を語る。

こんな人外に会ったら出会い頭に脳天を吹き飛ばすしか生き延びるすべはなさそうだが、シュガーの饒舌はブラックホールみたいな真っ黒い底なしの引力があって、つい耳をそばだててしまう。

ほとんどの人はおれのような人間が存在しうるとは信じない。ほとんどの人にとって何が問題かはわかるだろう。自分が存在を認めたがらないものに打ち勝つのは困難だということだ。わかるか? おれがおまえの人生の中に登場したときおまえの人生は終わったんだ。

一人の人間はどんなふうにしてどの順番に自分の人生のあれこれを放棄する決意をするのか? おれたちの職種は同じだ。ある程度まで。おまえはそこまでおれを軽じたのか? なぜそんなことをする気になった? どんなふうにしてこんな目にあうはめになった?

 

シュガーは、人間というよりは、人間の形をした災厄、言語を話す死に近い。そしてシュガー自身も、自分を人間扱いせず、災厄の運命、世界として語る。そのため、シュガーとの対話は、どんどん抽象的かつ運命論的になっていく。

最後はどうなるかわかってるだろうな?

いや。おまえにはわかってるのか?

ああ。わかってる。おまえにもわかってると思う。まだ受け入れてないだけだ。

もっと違ったふうになりえたと言うことはできる。ほかの道筋をたどることもありえたと。だがそんなことを行ってなんになる? これはほかの道じゃない。これはこの道だ。おまえはおれに世界に対して口答えしてくれと頼んでるんだ。わかるか? 

 

欲や感情や恨みといった感情がまるっきりなく、ルールを順守する純粋な「悪」がどう動くのか、「悪」と対峙した人間がどう反応するか。そして、悪は人の心と体をどう変容させていくかを描く小説だった。最後は意外だったが、やはりあれも「悪に対峙した結果」なのだと思う。

生き延びた人間も死んだ人間も等しく、それに出会ってしまったら変わらざるを得ない。そんな存在は、人か人にあらざるかを問わず、悪、災厄と呼ばれるものだと知る。

 

コーマック・マッカーシー著作の感想

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