ボヘミアの海岸線

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『シモーヌ・ヴェイユ アンソロジー 』シモーヌ・ヴェイユ|不幸の底へ下り、愛へ飛躍する

わたしたちが生きており、その微小な部分をなしているこの宇宙は、神の<愛>によって神と神とのあいだに置かれたこの距離である。わたしたちはこの距離における一点である。時間・空間、物質を支配しているメカニズムは、この距離である。わたしたちが悪と名づけるものはすべて、このメカニズムにほかならない。神は、神の恩寵がひとりの人間の中心そのものに浸透し、自然法則を害することなく、その人が水の上を歩けるようにした。だが神から目を背けるならば、その人はただ重力にゆだねられるがままになっている。

――シモーヌ・ヴェイユ「神への愛と不幸」

 

本書は、ヴェイユの主要な論考7本をおさめたアンソロジーだ。「ヴェイユ入門書としてちょうどいい」と勧められて手に取った。論考それぞれが主題も論調も違っていて、最初はなかなかつかみどころがないように思える。だが読み進めるうちに、その底には、言葉を尽くして語らざるをえない強い引力、切羽詰まった激情のようなものが沈んでいると気づいてくる。

 ヴェイユの文章には、「美」「善」「不幸」「悪」「キリスト」「力」「犠牲」といった言葉がくりかえし表れる。善と悪、美と不幸、力と犠牲、といった二項対立になりがちなこれらの言葉を、ヴェイユは隣り合わせに並べていく。その並べ方が独特だ。

シモーヌ・ヴェイユ アンソロジー (河出文庫)

シモーヌ・ヴェイユ アンソロジー (河出文庫)

 

不幸を距離としてじっと見つめるのでなければ、不幸の存在を受け入れることはできない。

神は、愛によって、愛に向けて創造した。神は愛そのものと愛する手段以外のものを創造しなかった。……神と神とのあいだのこの無限の距離であり、至高の引き裂かれであり、他の何ものも近づきえない痛みであり、愛の驚異であるもの、それがキリストの磔刑である。

――「神への愛と不幸」

不幸な人はいかに不幸か、どのように不幸かを語った直後に、なんの前置きもなくするりと神の愛に跳躍する。じつにあっさりとあたりまえのように飛ぶので、その軽さにびっくりしてしまう。

ヴェイユが語る、神の愛と犠牲の思想そのものにはなじみがある。愛する御子をつかわして人間の罪すべてを贖罪させるほど神は人間を愛しているのだと、キリストが死の直前に「神よ、なぜあなたは私を見捨てたのか」と嘆く言葉に神が沈黙したことも含めて愛なのだと、シスターからなんども聞かされてきた。「愛」については、「隣人を愛せよ」「弱く苦しんでいる者に親切にせよ」と、人間同士の愛について語られることが多かった。

一方、ヴェイユが語る「愛」は、人間同士のあたたかい交流ではなく、孤独で不幸のどん底であらわれる試練のようだ。神を見上げざるをえないまでに追いつめられた不幸な人(不幸なキリスト)が、悲しいほど遠くにいる神にまなざしを向けることが愛だ、という展開は、「愛」という言葉から想像する安心やぬくもりからはほど遠い。ヴェイユの提案は過酷、ほんとうに過酷である。

 

「神への愛と不幸」には、「人間が不幸なのは、神が人間に愛されたいから」というくだりがある。

このように、不幸は、神がわたしたちから愛されることを欲しているというもっとも確かな徴である。それは神の優しさのもっとも貴重な証である。それは、父権的な懲罰と言ったものとはまったく別のものである。若い婚約者が自分たちの愛の深さを確かめる優しい喧嘩に例えるのが、いっそうふさわしいであろう。

 ギリシアの神々や北欧の神々ならともかく、全能の神が人間の愛欲しさに不幸(人間性のすべてをはく奪され、身体の痛みもある、とてつもない不幸)を与えるのだろうか。この神は、私の周りで見るキリスト教の神々とはだいぶ違っている。

 

こんなふうに、ヴェイユの言葉と思想の連なりに私はいちいち驚いては立ちどまる。だが、繰り返される言葉には「暴力の犠牲になった人、不幸な人が、どう救われるか」といった、弱く不幸な人と向き合おうとする気持ちがあるように思う。

 ヴェイユの言葉は「よりよく生きて、現実を改善して、不幸から離れよう」といった、階段を一段ずつのぼって底から離れていくタイプの言葉ではない。

ヴェイユはむしろ階段をどんどん降りて、奈落の底へと近づいていく。心と体がずたずたになった不幸の底に向かい、不幸な人をじっと見つめ、相手の立場に身を置いて、そこから一気に上を見上げて愛と善に、階段をのぼらずそのまま飛躍する。

よりよい世界や希望といった光(多くの宗教はこちらを提示する)ではなく、不幸や苦しみといった、人が目をそむけたがる暗闇に向けてじっと目をこらし、目を離さずに受けとめようとする視線は、鬼気迫るものがある。

 

いったいなぜ彼女はこの思想にたどりついたのだろう。ヴェイユは、不幸な人が不幸のまま死なないようにしたかったのだろうか。

不幸で疲れ切ってずたずたになった人は、階段をのぼって状況を改善する力も自由も残っていない。いまいる底から神の愛に一直線につながる道筋は、ひとつの救いではある。

 だがその道に至るには、不幸を見つめて不幸とともにあろうとしなくてはならない。とても難しい。ヴェイユ自身も「自殺するより難しい」と書いている。

誰かに耳を傾けるとは、その人が話しているあいだ、その人の立場に身を置くということである。その魂が不幸でずたずたにされている、あるいは差し迫った身の危険がある人の立場に身を置くとは、自分自身の魂を無にすることである。それは、生きるのが楽しい子どもにとって自殺する以上に難しいことである。それゆえ、不幸な人に耳が傾けられることはない。

でもきっと彼女は、そうあろうとしたのだろう。皆が目をそむけるものを目をそらさず見つめよう、誠実であろうとする言葉は、どんどん純化して、清濁混沌の現世からは離れていって、最後の2編はまるで骨でできた結晶みたいだった。

 

Content

  • 『グリム童話』における六羽の白鳥の物語
  • 美と善
  • 工場生活の経験
  • 『イーリアス』、あるいは力の詩篇
  • 奴隷的でない労働の第一条件
  • 神への愛と不幸
  • 人格と聖なるもの

 

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ヴェイユが「『イーリアス』、あるいは力の詩篇」で、もっとも優れた詩と誉めたたえた。力によって死んだ英雄の帰還を待って風呂の準備をする妻たちの姿が、不幸であり美しいと書いている。ヴェイユは、不幸と美についても同じ目線でつなげている。

 

不幸を与えてくる神と対話する善人ヨブ。ヨブについて、ヴェイユは「不幸の例」として挙げている。ヨブの嘆きと神との対話はほんとうにすごい。

 

フラナリー・オコナーに出てくる「恩寵」とヴェイユの「恩寵」、恩寵つながりで読んだ。ふたりの恩寵はどちらも犠牲と不幸が関わるが、オコナーはみずから暴力をもちいるのにたいして、ヴェイユは暴力をふるうことを拒否して受ける側の立場で考えるので、だいぶ違う気がする。