ボヘミアの海岸線

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『はるかな星』ロベルト・ボラーニョ|彼は怪物の詩人

誰にも見られずに落ちていく星はあるのだろうか。 

――ロベルト・ボラーニョ『はるかな星』

怪物の詩人

 「誰にも見られずに落ちていく星はあるのだろうか」。フォークナーの詩から始まる『はるかな星』は、チリの詩人たちにまつわる物語だ。チリは「石をどければ5人の詩人が這い出てくる」と言われるほど詩が盛んで、ボラーニョも自身を小説家ではなく詩人と見なしていた。

それにしても、ボラーニョが生み出した怪物詩人は常軌を逸している。怪物的な詩を生み出すのではなく、怪物そのものである。

怪物の名はカルロス・ビーダー、著者の同級生であり、独裁政権の軍人であり、殺人鬼であり、南極大陸を飛び、空中に詩を書く詩人だった男。

はるかな星 (ボラーニョ・コレクション)

はるかな星 (ボラーニョ・コレクション)

 

 

「僕」(アルトゥーロ・B、ボラーニョの似姿)がカルロス・ビーダーに出会ったのは、彼が学生の頃だった。当時、ビーダーはアルベルト・ルイス=タグレと名乗り、語り手とともに詩人のゼミに参加していた。ビーダーにはどこか不穏な空気がただよい、一部の人間は違和感を覚えていた。

その違和感がまちがっていなかったことが、あとで明らかになる。アジェンデ政権が軍事クーデターによって崩れ落ち、ピノチェトの独裁政権が始まったころに、ビーダーはビーダーとして動き出す。多くの女性詩人たちが行方不明になる。何人かの死んだ知らせが届く。ビーダーは、戦闘機で空中に詩を書くパフォーマンスを始める。

そこで、その高度で、空に詩を書きはじめた。最初は、パイロットの気が狂ったのだろうと思い、それを奇妙だとも思わなかった。その当時、気が狂うというのは少しも特別なことではなかったのだ。

 ビーダーはその狂ったパフォーマンスによってまたたくまに有名になり、ピノチェト政権下の軍部で重宝される。『チリ夜想曲』で控えめな表現で登場した「軍事政権と手を組んだ詩人」が、本書ではっきりと描かれている。

ビーダーは飛行場からはるか離れたサンティアゴ郊外の地区の上空に姿を表した。そこで最初の詩句を書いた。「死とは友情」。…彼は二つ目の詩句を書いた。「死とはチリ」。

 「僕」とビーダー、2人の詩人はまったく異なる道を歩んでいて、もう交わることはないように見えたが、「詩人は詩人を理解する」という途方もない理由により、じつに奇妙な形で――ほとんど冗談のような形で――邂逅する。

 

ボラーニョは、笑いをとる時も、愛情を示す時も、嫌悪を示す時も、不動の真顔を保つため、「彼がなにをどう思っているか」がわかりづらいのだが、「詩人」と「詩」への熱情、「悪」への執着は伝わってくる。ビーダーは、ボラーニョが執着する「詩」と「悪」両方の属性を持つ男であるがゆえに、筆致は物語が進むにつれて割り切れないものになっていく。「怪物は怪物であり、ビーダーと自分はまったく違う人間だ」と突き放せたなら、どれほど簡単だったことだろう。だが、そうはならないところが、本書のエモーショナルなところだと私は思う。

 こんな体験は生まれて初めてです、と僕は打ち明けた。そんなことはない、とロメロはとても穏やかに言った。俺たちにはもっとひどいことが起こったんだから、少し考えてみるがいい。そうかもしれません、と僕は認めた。でも今回のことは特別に恐ろしい。

 

クーデターでこなごなに砕かれたチリ、クーデターでこなごなに砕かれたチリ詩人たち、クーデターを生き延びて空中に詩を書いた戦闘機乗りビーダーは、それぞれが違った形で星となってモンスターの惑星に墜落した。

私は想像する。読書会で会う人たち、書き手たちと、ある日を境に会えなくなり、皆が散り散りになって、そのうち何人かとはもう二度と会えなくなることを。その事態を引き起こしたのが、ごく少数のモンスターであることを。ボラーニョ風に言うなら、そんな世界は糞だ。

 

ロベルト・ボラーニョの著作レビュー

 Recommend

本書の最終章では、カルロス・ビーダーの物語が「ラミレス=ホフマン」として語られる。ほぼ同じ文章が使われているが、『アメリカ大陸のナチ文学』のほうがずっと短い。ニュアンスが異なっているところがあったり、語られていないところが語られていたりする。

 

幽霊たち (新潮文庫)

幽霊たち (新潮文庫)

 

 追跡する者と追跡される者の境界があいまいになり、やがて自身を見失っていく恐ろしさは、「僕」とビーダーの追跡と重なるものがある。

 

夜間飛行 (新潮文庫)

夜間飛行 (新潮文庫)

 

サン=テグジュペリは夜空に墜落し、ボラーニョは怪物の惑星に墜落する。どちらも別の意味でエモーショナルでよい。