ボヘミアの海岸線

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『2666』ロベルト・ボラーニョ|これほどの無関心、これほどの暗黒

「警官とまぐわうのは山の中でその山とまぐわうようなもの、密売人とまぐわうのは砂漠の空気とまぐわうようなもの、ってこと?」

「まさにそうなの。密売人に抱かれると、いつも嵐のなかにいるみたい」

ーー ロベルト・ボラーニョ『2666』

 

年に1〜2回ほど、気まぐれに開催する海外文学読書会 鈍器部の、2020年最初にして最後の課題本がボラーニョ『2666』だった。

『2666』について考えると、最後に開催した読書会のことを思い出す。寒い冬の日だった。あの頃はまだ皆で集まって話して、それぞれの本を積んで写真を撮っていた。そういうことができていた時だった。

 

 

メキシコでは、文学は幼稚園や保育園みたいなものなんです。理解していただけるかどうか。 

 全5章、900ページ弱、すべての章で登場人物とプロットと書き方が異なる独特のスタイルのこの小説は、大きな軌道を描いて核心に近づいていき、核心をかすめて消えていく、巨大な彗星みたいな小説だ。

この小説には「空白」と「爆心地」がある。「空白」は、ノーベル賞間近と言われる謎の覆面作家アルチンボルディ、「爆心地」は、女が絶えず失踪して犯されて殺されるメキシコ国境地帯の町、ソノラ州サンタテレサだ。

空白存在アルチンボルディは、爆心地サンタテレサに向かったところで消息を断ったらしい。理由はわからない。そもそもアルチンボルディがどういう人間なのか、過去も顔も住処も、ほとんど知られていない。

この謎を追い求めて、アルチンボルディとサンタテレサの「周縁」にいる人たちが、それぞれの視点と思惑でもって、爆心地であり消失点であるソノラ州サンタテレサへと近づいていく。

「ソノラで何をなさるんですか?」とエル・セルドは訊いた。

老人は答える前に、口の聞き方を忘れでもしたかのように、一瞬ためらった。

「それを知りに行くんだ」と彼は言った。 

 

本書は5つの章で成り立っている。それぞれの章は独立した中編小説のようだが(実際にボラーニョはばらばらにして出そうとしたらしい)、かすかな点、登場人物や土地でつながっている。かすかな糸を手繰り寄せながら、アルチンボルディとサンタテレサを追っていく。

第1章は「批評家たちの部」で、サンタテレサから最も遠い場所ヨーロッパから始まる。ヨーロッパでアルチンボルディに心酔して研究している若き4人の文学研究者たちは、文学と研究と恋愛とセックスと忙しい日々(コミュニティ内での四角関係という蛸壺蠱毒サークラ青春)を送りながら、アルチンボルディの謎へと近づいていく。

第2章「アマルフィターノの部」ではメキシコ在住の教授の奇妙な生活、第3章「フェイトの部」では、スクープを狙うアフリカ系アメリカ人のジャーナリストの探偵小説ドラマを経て、サンタテレサに足を踏みいれる。

登場人物がぐるぐる入れ替わって、視点を乗り換えていくうちに、読者はじわじわとサンタテレサに近づいていき、第4章「犯罪の部」で、いきなり丸裸のまま、ぽんと爆心地に放りこまれる。

この「犯罪の部」が強烈で、いちど『2666』を読んだ人なら誰もが言及せざるをえない、怪物みたいなテクストだ。この章がつらすぎて挫折する人もいれば、これこそが『2666』の心臓だ、と言う人もいる。

サンタテレサの洗礼を受けた後、ついに5章「アルチンボルディの部」に到達する。

「私たちは死に慣れっこになってしまいました」と若い男の声が言うのが聞こえた。

「今に始まったことじゃない」と白髪の男が言った。「いつだってそうだった」

 

『2666』は、人類の暗黒、犯罪、謎について語る。だが、その語りは曖昧で、示唆と隠喩に満ちていて、探偵小説のような明快さやカタルシスはぜんぜんない。むしろ、ほとんどの人は「犯罪」について言及しない。しない理由がある。

彼らは笑いながら、うなずいたり、視線を交えたり、面倒な人間が行方不明になったりする。たとえば、丘にはゴミがあるらしい。現地の人は近寄らない。なにがあるかを尋ねても答えない。丘にはヒメコンドルが飛んでいる。ヒメコンドルは腐肉を食らう。つまりはこんなふうに物事は進んでいく。

「丘はきれいじゃないのか?」とフェイトは言った。

男はまた笑った。

「丘はゴミか?」

男は笑い続けていた。…「丘はゴミ溜めか?」

男はさらに笑い、頷いた。

「俺達はまだ生きている」と彼は言った。

「わたしたちが生きているのは、何も見ていないし、何も知らないからよ」とロサは言った。 

 

不穏な世界をほのめかす隠喩の語り、悪を直接には描かず、周縁を塗りつぶして、直接には語られない「空白」としての悪を描き出す筆致は、他のボラーニョ作品につうじるテーマだが、著者は『2666』で、ほのめかしだけではなく、ど直球に犯罪そのものを描いている。その筆致からは、「誰もが無関心で語ろうとしない暗黒」そのものを語ろうとする、執念のようなものを感じる。

そのかわりというか、ユーモアは影をひそめている。真顔でホラや奇妙なことをしれっとつぶやくボラーニョのユーモアはけっこう好きなのだけど、『2666』では、笑いの軽さよりも、悪の重さが強く印象に残る。

他者の痛みを事故の記憶に変えるのだ。痛みという持続性のある自然物、つねに勝利するものを、個人の記憶という人間的ではかなく、つねにすり抜けていってしまうものに変える。

不正と悪弊のはびこる野蛮の物語を、始まりも終わりもない支離滅裂な叫びを、つねに自殺の可能性をはらむ、巧みに構築された物語に変える。逃亡を自由に変える。自由がただ逃げ続けることしか意味しないとしても。混沌を秩序へと変える。たとえそれが正気と呼ばれるものを犠牲に成立しているとしても。 

 

爆心地にして消失点、作家や女性たちを飲みこむ巨大な黒い穴、サンタテレサはなんだったのか。

サンタテレサは架空の町だが、ソノラ州と、サンタテレサのモデルとなった町は実在する。サンタテレサのモデルは、同じくメキシコ北部国境近くにある工業地帯、シウダー・フアレスだ。シウダー・フアレスは、20世紀中には「世界で最も治安が悪い町」と呼ばれ、多くの女性が行方不明になった。ほとんど事件にはならなかった。事件にすれば困る人たちが大勢いたからだ。

犯罪は長いあいだ見過ごされて、21世紀になってようやく表沙汰となった。調査によれば、1993年から2005年の間に、370人の女性や少女が殺害された。行方不明者の数はもっと多い。

  今わたしは、サンタテレサで女性たちが無残に殺されていることについて話しているのです。女の子たち、家庭の母親たち、すべての働く女性たちが、この州の北部にあるあの工業都市の街なかで、郊外で、毎日のように遺体となって見つかっていることについて話しているのです。わたしはサンタテレサの話をしているのです。サンタテレサのことを話しているのです。 

  

ものすごく奇妙で強烈な小説だった。大きな軌道を描いて、黒くて巨大な穴に近づいていき、爆心地をかすめてはまた消えていく軌道は、はぐれた巨大な彗星を思わせる。

もし『2666』が冒頭からサンタテレサについて書いている小説だったら、これほど強烈な印象は受けなかっただろうと思う。ゆるい軌道を描きながらいきなり爆心地にぶちこまれるこの動きは強烈だ。

だからこそ、忘れがたい。読書会を開催した個人的な記憶もあいまって、この不思議な読書体験をずっと覚えているだろうと思った。

 これほど多くの殺人事件を放置しておくはずはない。これほどの無関心と、これほどの暗黒。

 

2666

2666

 

『2666』読書Wiki

鈍器会恒例WikiScrapboxでつくった。

ピンチョンみたいに、登場人物が複雑に入れ替わり立ち替わりやってくるのかと思っていたけれど、章ごとの登場人物はわりと独立していて、思っていたよりも複雑な構造ではなかった。とはいえ、怖い人間たちや権力者たちについては、どの人どうし、どの組織どうしがつながっているかがわかるので、つくってよかったと思っている。

 

皆の『2666』タワー。

 

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