ボヘミアの海岸線

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アメリカ文学

『地下鉄道』コルソン・ホワイトヘッド|自分をすりつぶす場所から逃げよ

こんなにも家から離れたことはかつてなかったことだった。この瞬間に鎖に繋がれ連れ戻されたとしても、歩んできたこの数マイルは自分のものだ。 ――コルソン・ホワイトヘッド『地下鉄道』 逃げることについて、私はわりと前向きな気持ちを抱いている種類の人…

『ハリエット・タブマン』上杉忍|モーゼと呼ばれた伝説の逃亡奴隷

逃亡者は先のことを何も知らずに自らを投げ出さねばならない。北斗七星と北極星のみを頼りにただひたすら先に進んだ。星が見えないときは、樹木の幹のこけの生えている側から北の方向を知って進んだ。彼女は、州というものがあること自体を知らなかった。 ――…

『海の乙女の惜しみなさ』デニス・ジョンソン|地すべりしていく人の隣に座る

今になってみれば、これから生きる年数よりも、過去に生きた年数のほうが多い。これから楽しみにすることよりも、思い出すべきことのほうが多い。 ――デニス・ジョンソン『海の乙女の惜しみなさ』 デニス・ジョンソンは、底に落ちた人生について、驚くべきフ…

『居心地の悪い部屋』岸本佐知子編|日常が揺れて異界になる

Hにつねにつきまとっていた、あの奇妙な無効の感じを、どう言葉にすればわかってもらえるだろう。 ――岸本佐知子編『居心地の悪い部屋』 言葉は、未知の世界を切り開いて照らす光であり、既知の世界を異界に揺り戻す闇でもある。『居心地の悪い部屋』は、日常…

『優しい鬼』レアード・ハント|傷つけられ続けて鬼になる

かんがえる力をつかってじぶんをどこかよその場所につれていくやり方はクリオミーとジニアから教わったのだった。…… 「よその場所って?」とわたしは訊いた。 「そこでない場所どこでも」とジニアは言った。 「きれいな場所」とクリオミーが言った。 「あん…

『私の名前はルーシー・バートン』エリザベス・ストラウト|実家への割り切れない感情

バートン家という5人の家族がーーだいぶ常識はずれの一家だったがーーいわば屋根のような構造物になっていて、そうと気づいたときには終わっていたのではなかったか。 ――エリザベス・ストラウト『私の名前はルーシー・バートン』 実家への割り切れない感情 …

第五回 日本翻訳大賞の最終選考5作品を読んだ

第五回 日本翻訳大賞に、ウィリアム・ギャディス『JR』(木原義彦訳)とジョゼ・ルイス・ペイショット『ガルヴェイアスの犬』(木下眞穂訳)が選ばれた。2作品の受賞、おめでとうございます。 JR 作者: ウィリアム・ギャディス,木原善彦 出版社/メーカー: 国…

『JR』ウィリアム・ギャディス|僕はアメリカ!

−−できることでもやったら駄目なんだ…… −−何で? −−向こうにいるのは生きた人間だからだ、それが理由さ! ――ウィリアム・ギャディス『JR』 僕はアメリカ 全940ページに1.2kgというその異形ぶりから、2018年末の読書界隈を震撼させた怪物、ウィリアム・ギャデ…

『ジーザス・サン』デニス・ジョンソン|麻薬中毒者は祈る

何をしたらいいのか、こいつにはどうやってわかるのか? 俺の目の端に映る美しい女たちは、俺がまっすぐ見ると消えた。外は冬。午後には夜になる。暗い、暗いハッピーアワー。俺にはルールがわからなかった。何をしたらいいのか、俺にはわからなかった。 ――…

『火を熾す』ジャック・ロンドン|命の炎が燃え上がる

犬の姿を見て、途方もない考えが浮かんだ。吹雪に閉じ込められた男が、仔牛を殺して死体のなかにもぐり込んで助かったという話を男は覚えていた。自分も犬を殺して、麻痺がひくまでその暖かい体に両手をうずめていればいい。そうすればまた火が熾せる。 ――ジ…

『舞踏会へ向かう三人の農夫』リチャード・パワーズ|写真という爆心地

写真を見るだけで、三人が舞踏会に予定どおり向かっていないことは明らかだった。私もまた、舞踏会に予定どおり向かってはいなかった。我々はみな、目隠しをされ、この歪みきった世紀のどこかにある戦場に連れていかれて、うんざりするまで踊らされるのだ。…

『最初の悪い男』ミランダ・ジュライ|自己防衛の孤独から抜け出して、他者へ

効果は、一応はあった。ただし"アブラカタブラ"と唱えたらウサギが消えました、じゃん! というような効き方ではなかった。"アブラカタブラ"を何十億回、何万年もかかって唱えつづけているうちにウサギが老衰で死に、それでもまだ唱えつづけているうちにウサ…

『移動祝祭日』ヘミングウェイ|どこまでもついてくる祝祭

「もし、きみが、幸運にも、青年時代にパリに住んだとすれば、きみが残りの人生をどこで過ごそうとも、それはきみについてまわる。なぜなら、パリは移動祝祭日だからだ」 ーーアーネスト・ヘミングウェイ『移動祝祭日』 どこまでもついてくる祝祭 世の中には…

『パラダイス』トニ・モリスン|楽園で育つ殺意

彼を怒らせたのは、この街、これらの住民たちの何だろう? 彼らが他の共同体とちがうのは、二つの点だけだ。美しさと孤立。−−トニ・モリスン『パラダイス』 楽園で育つ殺意 自分がいる共同体に不満を抱く人間、なじめない人間がとりうる選択肢は3つある。 共…

『大いなる不満』セス・フリード|人間は不合理

それがゆえに、諸君のような若き科学者の多くは、ドーソンの研究に人生を捧げるようになっていく。その主題を扱う長く感傷的な博士論文によって大学図書館はどこも溢れかえらんばかりになっており、多くの論文は取り乱したラブレターのように書かれる傾向に…

『囚人のジレンマ』リチャード・パワーズ|人類全体の世話人

「信じられるか、この世界? 愛するしかないよな」−−リチャード・パワーズ『囚人のジレンマ』 人類全体の世話人 誰かを信じるには、それなりの時間と勇気を必要とする。それに比べて、不信感を抱くのはもっとずっとお手軽だ。疑いを抱くことも、自分を守るも…

『あなたを選んでくれるもの』ミランダ・ジュライ|人間はいやらしい、だが、それでいい

もし自分と似たような人たちとだけ交流すれば、このいやらしさも消えて、また元どおりの気分になれるのだろう。でもそれも何かちがう気がした。結局わたしは、いやらしくたって仕方がないしそれでいいんだ、と思うことに決めた。だってわたしは本当にちょっ…

『ロリータ』ウラジミール・ナボコフ|愛は五本足の怪物

「だめよ」と彼女はほほえみながら言った。「だめ」「そうしたら何もかもが変わるんだが」とハンバート・ハンバートが言った。ーーウラジミール・ナボコフ『ロリータ』愛は五本足の怪物はじめて『ロリータ』を読んだのは10年前、海外文学を読みはじめてまも…

『八月の光』ウィリアム・フォークナー

彼はそれを考えて静かな驚きに打たれた――延びてゆくのだ、数知れぬ明日、よくなじんだ毎日が、延びつづいてゆくのだ、というのも、いままでにあったものとこれから来るはずのものは同じだからだ、次に来る明日とすでにあった明日とはたぶん同じものだろうか…

『ワインズバーグ・オハイオ』シャーウッド・アンダソン

自分以外のものの声が、人生には限界がある、とささやきかけてくる。自分自身と自分の将来について自信に溢れていたのが、あまり自信のない状態に変る。もしそれが想像力ゆたかな青年ならば、一つの扉が無理矢理こじあけられ、生まれてはじめて眼にする世界…

『いちばんここに似合う人』ミランダ・ジュライ

あなたは悪くない。もしかしたらそれは、わたしがずっと誰かに言ってあげたかった、そして誰かに言ってほしかった、たった一つの言葉なのかもしれなかった。 ミランダ・ジュライ「共同パティオ」 孤独の黒歴史 なぜわたしはわたしの人生の主人公なのに、こう…

『ザ・ロード』コーマック・マッカーシー|命の火を運ぶ

この物語の結末をおれにいわないでくれ。 ——コーマック・マッカーシー『ザ・ロード』 命の火を運ぶ 人類絶滅まであと少し。未来は来ない。 黒こげた死体の薪に命の火をくべて、血と夜の雫でできた宝石を、頭蓋骨の鍋で煮たような小説だ。なぜ、これほど極限…

『タイガーズ・ワイフ』テア・オブレヒト

祖父はようやく口を開いた。「分かるだろう、こういう瞬間があるんだ」 「どんな瞬間?」 「誰にも話さずに胸にしまっておく瞬間だよ」 ——テア・オブレヒト『タイガーズ・ワイフ』 トラの嫁と、不死身の男 まずはわたしの話からはじめよう。曾祖父が曾祖母と…

『ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを』カート・ヴォネガット

いったいぜんたい、人間はなんのためにいるんだろう? カート・ヴォネガット『ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを』 絶望からくる博愛 人は誰もが、小さな器を心に抱えてうまれてくる。うまれてまもなく、彼らをこの世に送り出した男女が水をそそぎ…

『V.』トマス・ピンチョン

「あなた、経験から学び取ったことないの?」 「ない、はっきり言ってひとつもない」——トマス・ピンチョン『V.』 世界の歴史は女 奇っ怪である。「あいつ、俺のともだちなんだよ」「私、あの人とつきあってるの」と飲んだくれの男女がひっきりなしにやってき…

『ボディ・アーティスト』ドン・デリーロ

計画を立てることで、時間を組織化する、自分が再び生きられるようになるまで。——ドン・デリーロ『ボディ・アーティスト』 放心と回復 時々、まっ白い部屋にひとり立ちつくしているような感覚に陥ることがある。心と体がうまくつながっていない状態、自身の…

『ウェイクフィールド』ナサニエル・ホーソーン|宇宙の遭難者

こうしてウェイクフィールドは、生きている世界から姿を消し、死者の仲間にも入れてもらえぬ境遇となった。 常ならざる者の存在はいつだって、記録と記憶に強烈な爪痕を残していくものだ。例えば、メルヴィルが生み出した奇妙奇天烈な男『バートルビー』。そ…

『代書人バートルビー』ハーマン・メルヴィル

徐々にわたしは、代書人に関してわたしにふりかかったこれらの災難が、すべて悠久の過去から予定されていた運命で、バートルビーはわたしのごときただの人間風情には測り知れぬ全知の神の不思議な何かの思し召しから、実はわたしのところに割り当てられたの…

『オスカー・ワオの短くも凄まじい人生』ジュノ・ディアス

髪を切って、メガネを外して、運動しなさい。エロ本を捨てなさい。あれは最悪よ。ママも嫌がってるし、あんなもの見てたら彼女なんてできない。——ジュノ・ディアス『オスカー・ワオの短くも凄まじい人生』 君はヒーロー 百貫デブで重度のオタク、年齢=彼女…

『響きと怒り』ウィリアム・フォークナー

[臓腑のような独白] William Cuthbert Faulkner The Sound and Fury,1929. 響きと怒り (上) (岩波文庫)作者: フォークナー,Faulkner,平石貴樹,新納卓也出版社/メーカー: 岩波書店発売日: 2007/01/16メディア: 文庫購入: 1人 クリック: 24回この商品を含む…