ボヘミアの海岸線

海外文学/世界文学/ガイブンの書評と感想ブログ。昔の名は「キリキリソテーにうってつけの日」

『八月の光』ウィリアム・フォークナー

彼はそれを考えて静かな驚きに打たれた――延びてゆくのだ、数知れぬ明日、よくなじんだ毎日が、延びつづいてゆくのだ、というのも、いままでにあったものとこれから来るはずのものは同じだからだ、次に来る明日とすでにあった明日とはたぶん同じものだろうからだ。やがて時間になった。
――ウィリアム・フォークナー『八月の光』 

邪気眼、非モテ、地母神

八月なので『八月の光』を読もう、と気軽に思い立ったのがそもそもまちがいだった。血のにおいがただよう精神に正面から生暖かい吐息をふきかけられ、暑気払いどころか脳髄がのぼせかけた。

もっとも、フォークナーでさわやかな気持ちになったことはない。『アブサロム、アブサロム!』はとぐろを巻く自意識の濁流と衝撃の結末に身悶え、『響きと怒り』は初見殺し率85%(推定)の白痴オープニングで頓死しかけ、『八月の光』では主人公のあまりの邪気眼に黒歴史の門が開きかけた。

それでもフォークナーを読むのは、彼が描く生きづらさ、特に男の生きづらさについての描写がすさまじく、心をめった刺しにしてくるからだ。

南部、南部、ヨクナパトーファ、なんという修羅の土地。

八月の光 (新潮文庫)

八月の光 (新潮文庫)

あの父なし子! 神様! わしは感じます! わたしは悪魔の歯と牙を感じます!

この物語には、あまりにも生きづらい男と、あまりにも生命力が強い女が登場する。そしてゆかいな狂った仲間たち。いつものフォークナーらしく、全員がそれぞれの極北に向かって振り切れており、中庸な人が登場しない。

男の名はクリスマス。クリスマスの夜に捨てられた孤児であり、アメリカ版DQNネームをみずから名乗り、「俺の黒い血が騒ぐ……」と黒人の血が入っていることをほのめかす、アメリカ南部式の邪気眼をわずらっている。

女の名はリーナ。遊び人の子を妊娠して捨てられるが、「家族は一緒にいるもの」という強固な信念を抱き、地平線の果てまで男を探しに追っていく、鉄の精神を持っている。

本書の大部分は、クリスマスの人生と独白で構成される。クリスマスは邪気眼を発症しているが、それは命の危険をおよぼすものだった。なにせここはアメリカ南部である。「奴隷制を解放すべき」ととなえる北部と「奴隷など人間ではないのだから解放するなどありえない」ととなえる南部が激突した南北戦争が終わってまもない時代だった。

黒人は人間ではなく「財産」であり、財産を取り上げようとする白人は「泥棒」と罵られて撲殺される土地だった。そんな環境で「俺は半分、黒人の血が入っている」と吹聴することが命取りになると、クリスマスが知らないわけはない。

クリスマスが危険を承知で「自分には黒い血が入っている」と語るのは、「自分は他人と違う」「俺は悪いぜ」という自意識と露悪もあるだろうが、それよりも「自分の出自がわからない」ゆえの居心地の悪さからではないだろうか。

自分は孤独から逃れようとしているのだ、自分自身から逃げようとしているのではない、と彼は思いこんでいた。しかし道路は猫のように走りつづけ、彼にとっては一つの場所も他の場所と変りないのだった。それでいてどこにいようと落ち着けなかった。しかし道路は常に空ろに、気まぐれな気分と形をみせて走りつづけ――

幼いころのクリスマスはおとなしく、女の裸を見て逃げ出す小心者だが、年を取るごとにどんどん暴力性を増していく。安心できる場所がない人は、十代の終わりから二十代にかけて、自分のおかれる環境への憤怒を増幅させ、やがて怒りが頂点に達し、多くの場合は激烈な攻撃という形をとって爆発する。

どこにいても落ちつけない、自分の足場がしっかりしていないと、人間はこんなにも傷つき、憤怒を抱えこみ、みずからの精神の突風に巻きこまれて自滅する。他者から認められないことよりも、自分で自分を認められない方がつらい。

彼はいまふたたび入ってゆく、三十年間自分が走りつづけた道路へと入ってゆくのだ。それは舗装されていたから、あんなに早く過ぎ去るのも当然だった道路だ。それは円をなしていて、彼は依然としてその内側にいるのだ。「それでも俺はこの七日間に三十年全部より遠くまで行ったんだ」と彼は考える。「しかしこの円から外へは一度も出なかった。俺は自分のしてきたことの輪から絶対に飛びだせねえし、やりなおしもできねえ」。

「俺の欲しかったのはこれっきりだったというわけか」と彼は静かな、鈍い驚きとともに考える。「この三十年間欲しがっていたものはこれだったのか。これは何も三十年も尋ねまわるほどのものじゃあなかったようだぜ」

クリスマスはみずから黒い沼に足をひたし、黒い粘液は彼の足裏にある小さな傷から脳髄へと這い上がっていく。

いわばそれは自分が白人たちに追いこまれた淵を象徴するかのようであったのだ その淵は彼をおぼれさせようと待ち構え誘い寄せていたのであり、いまついに彼はそこへ踏み込んだのだ、その証拠に彼の踝の高さまでその決定的な拭いえぬ黒いものがはまりこみ、それが次第に上へとのぼってこようとしているのだ。

彼は席に座ったまま考える、彼の前にある泥除けにどっしり両足をのせ、それには黒人の臭いのする靴――それは彼の踵をよぎる決定的な不可避な黒い潮、死が動くように踵から次第に脚のほうへあがってゆく黒い潮。

 
どんどんよどんでいくクリスマスとは対照的に、リーナは黒さとは無縁で超人じみた輝きに満ちている。未婚での妊娠という、クリスマスと同じぐらいの社会的ハンデを背負いながらも、まったく意にかいしていない。周囲の人は哀れみの目を向けるのだが、リーナはなにひとつ気がつかず、ずんずんと彼がいるジェファソンへ向かう。

「あたし、ルーカスからの約束はなにも必要でないと思うの。ただ運が悪くって、それで彼は行かねばならなかったんです。彼の計画がうまくゆかなくって、それで自分の思ったとおりにはあたしのところへ戻ってこれなかっただけで」

リーナは人間よりは地母神に近い。人間の形をしてはいるが、彼女に人間らしい心の機微がいっさい感じられず、宇宙人を見ているような心地がする。彼女は超人的な力で自分を捨てた男を見つけるが、彼との再会シーンはじつに肝が冷える。これほどまでに、見ている者たちの心を凍らせる男女の再会場面はそうそう見られるものではない。

そんなリーナに、非モテの代表バイロン・バンチが人生ではじめてのひとめぼれをする。いきなり「結婚しよう」に飛躍するあたりバイロンはじつに女慣れしておらず、いちいち心をえぐってくる。

とち狂うバイロンを諭すハイタワー牧師は一見まともに見えるが、祖父の英雄潭とキリスト教の区別がついていないという、とんでもない地雷を抱えている。このように『八月の光』では登場人物すべてが地雷なので、爆薬庫の花火を見ているようで、いっそすがすがしい心地にすらなる。

いろんなことが起るからだ。手に負えぬほどたくさんにな、そうなのだ。人間というものは自分が耐えうる以上のたくさんのことをやったり、やろうとしたりする。そうして自分が案外に耐えられるものだと知る。それが恐ろしいところだ。


クリスマス、ハイタワー、バイロン、それぞれがつらさを抱えており、読めば誰でもなにかしら心をえぐられるだろう。一方で、女性の登場人物は地母神か狂人ばかりなので、フォークナーは女性のことをぜんぜん分かっていないのではないかと思わせられる。

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男性描写 ←→ 女性描写
https://www.afpbb.com/articles/-/2963272

男はどこまでも黒く暗く、日陰者となって死へと引き寄せられ、女は太陽のように白く明るく、陽の当たる道を歩いて新しい命をはらむ。 八月の光は、男と女をあまりにも不平等に照らしていた。

人間というものは、たいていのことなら我慢できるもんだなあ。自分がけっしてしなかったことにさえ耐えられるんだ。


 

ウィリアム・フォークナーの読み方

これで、ウィリアム・フォークナーの傑作と呼ばれる『アブサロム、アブサロム!』『響きと怒り』『八月の光』を読んだことになる。フォークナーを読もうかなと考える奇特な人に送る。

三作品のうち、物語として読みやすいのは『八月の光』>>>『アブサロム、アブサロム!』『響きと怒り』。物語の衝撃でいえば『アブサロム、アブサロム!』>>>『響きと怒り』>『八月の光』といったところか。

個人的には『八月の光』『響きの怒り』、そして本丸である『アブサロム、アブサロム!』という順番をおすすめしたいが、そんなにフォークナーを読んだら死ぬという人は、いきなり『アブサロム、アブサロム!』へいってしまってもよいだろう。

どちらにせよ、フォークナーは摂取方法をまちがえると頓死するので、以下の処方箋を守って服用していただきたい。

  1. 体調と精神が健康であることを確認する。どちらか、あるいは両方が優れないときはすばやく本棚に戻す。
  2. 語り手の精神濁流に飲まれそそうになったら、すばやく本棚に戻す。あるいは枕の下に待機させておいたウッドハウスを摂取する。
  3. 語り手の精神濁流にのっとられまいという意思をこめて、盛り塩をする。

 

Recommend:致死率高めの自意識文学

どうも今年になってから、アメリカの自意識文学をよく読んでいる気がする。自意識過多になって頓死しないようにしなければ。

アメリカ文学。女性版のモダンな自意識。こじらせ女子と男子の致死率が高め。

アメリカ文学。小さなアメリカの村で「俺はお前らとは違うんだ!」と誰もかれもが思っている。登場人物たちを作者は「グロテスクな人々」と呼んだ。

ドイツ文学。「俺は彼らの死に加担したんだ……」と露悪してみせる主人公の独白がじつに気持ち悪い。体は子供、頭脳はアダルトチルドレン。この組み合わせは死にます。


ロシア文学。「凡人」でありたくがないゆえに人を殺し、発狂した青年の物語。ラスコーリニコフは発狂できたし、自分のことを泣きながら罵ってくれる人がいるからまだ幸せだった。クリスマスは、自分のために逃げることすらしなかった。この絶望といったら!