ボヘミアの海岸線

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『ロリータ』ウラジミール・ナボコフ|愛は五本足の怪物


「だめよ」と彼女はほほえみながら言った。「だめ」
「そうしたら何もかもが変わるんだが」とハンバート・ハンバートが言った。

ーーウラジミール・ナボコフ『ロリータ』

愛は五本足の怪物

はじめて『ロリータ』を読んだのは10年前、海外文学を読みはじめてまもない頃だった。「文庫で値段が手頃&名作」というわかりやすさから手にとり、あの衝撃的な書き出し「ロリータ、我が命の光、我が腰の炎」の洗礼を受けた。

この書き出しは、われらが変態ハンバート・ハンバートの露悪めいた恍惚、純度の高い狂信を凝縮した名文で、10年たった今もほぼ変わらずに、口蓋を三歩も百歩も叩いてくる。ロ。リー。タ。


ロリータ (新潮文庫)

ロリータ (新潮文庫)

 



 私のほうはといえば、いかにも変質者らしく、純真そのものだった。

再読する前に私が覚えていた『ロリータ』は、書き出しのいかれぶり、「ニンフェット」提案のいかれぶり、ハンバート・ハンバートの純粋ないかれぶり、いかれぶり、いかれぶり、最後のシーンの途方もない美しさ、というものだったが、再読してみて、大まかな印象がほとんど変わっていないことに驚いた。

とくに最後の場面は、これまで海外文学を読んできた中でもトップ10にはいるほど印象的だったから、再読することで色あせてしまうかもしれないと思っていたのだが、幸運にもその杞憂は杞憂に終わり、むしろナボコフはこの美しい文章を1ページ書くためだけに、あまりにも美しくないハンバート・ハンバートを500ページにわたってえんえんと書き続けたのではないかと思うほどだ。


陪審席にいらっしゃる紳士淑女のみなさん、震えるような、甘美なうめき声をあげるような、肉体的ではあっても必ずしもそのものズバリとは限らない関係を少女と結びたいと切望する性犯罪者のうち、大多数は人畜無害で、未熟で、受動的で、臆病なよそ者であり、常軌を逸したと言われる者の実際には無害なふるまいや、熱くて濡れた、ささやかで密やかな性的逸脱行為を追求しても、警察や社会から弾圧を受けたりすることがないよう、地域社会にお願いしているだけなのである。

ハンバート・ハンバートは500ページのヘドロをうみだす怪物だが、ヘドロの中心には、14歳以下の少女の絶対的な信仰が光りかがやいている。多くの狂信者や犯罪者は絶対的な信仰を持ち、そのためには他者や己を笑顔で犠牲にする。彼の内面告白はまさに狂信者のそれだ。

ハンバート・ハンバートは典型的なサイコパスであり、他人を自分の欲望のために使い捨てることになんのためらいもない。彼は結婚を2回するが、その理由は「身の安全を考えて結婚」「ロリータと離れたくないからその母と結婚」という自己中心極まる理由だ。

最初の妻に対する態度はどこからどう見てもモラハラだし、暴力で言うことを聞かせようとするあたりはDV男そのもの。しかもその行動になんの悪びれもなく、むしろ自分の権利が侵害されたと怒り狂い内省をしないあたりがいかにも"本物"らしい。そんな人間性であるにもかかわらず、自己像は「紳士」なのだ。


我々は立派な兵士みたいに強姦したりはしない。我々は不幸で、穏健で、犬みたいな目をした紳士であり、大人たちの眼の前では衝動をコントロールできる暮らし、充分に釣り合いは取れているが、ニンフェットに触れる機会を一度与えられるなら、何年懲役になってもかまわないという人間である。断固として、我々は殺人者ではないのである。詩人はけっして人殺しをしないのだ。

なんというグロテスク。ナボコフはここらへんの狂った鬼畜犯罪者の冷徹ぶりを書くのがとてもうまく、「生きた肉鞘でさえあればいい」「成人女性との衛生的関係」など、少女以外の女はすべて粗大ごみのように扱う筆致を徹底させている。そのため、多くの人(特に女性)が第一部で嫌悪感を覚え、怒り狂いながら読むことになる。

第二部ではロリータと性的関係を結んだハンバート・ハンバートが、ことの露見を恐れて就学期まっただなかのロリータとともにアメリカ中を車で横断するという、これまた大炎上しそうな犯罪をやらかす(Twitterがあったら絶対にハンバート・ハンバートはリアルタイムに投稿して大炎上させていただろう)。

さらに「ハンバート・ハンバートが誰かを殺す」という不穏な予告があるために、「誰が殺されるのか?」ということも気にしながら読み進めていくことになるのだが、ハンバート・ハンバートがあまりにも自己中サイコパスのため、誰でもためらいなく殺しそうなので、「あの人も死にそう、この人も死にそう」とフラグを立てまくることになる。

誰が死んだかは、実は序盤で答えが書いてあるのだが、ハンバート・ハンバートのフランス語を交えた言語遊戯と虚言癖のため、初読時はあっさり見逃した。ここらへんの作法がいかにもナボコフらしい。


この何から何までが下品で、危険で、絶対に絶望的だったとしても、それでも私はまだこの自分で選んだ楽園にどっぷりつかった--その楽園は空が地獄の業火の色をしていても、やはり楽園なのだ。

 

「ロリータを途中で読めなくなる」と人は言う。過剰で露悪で自己中でサイコパスで女の敵である犯罪者ハンバート・ハンバートへの嫌悪感と疲弊によりやむなく撤退、と言う人がほとんどだが、報われぬ片思いに苦しんだ記憶がよみがえり悶絶してつらくなる、という人もいる。

そう、ハンバート・ハンバートは報われぬ愛に苦しむ。ロリータは義父を拒絶する。それは当然すぎるのだが、ハンバート・ハンバートは狂信者らしく自分の愛を咆哮するだけで、ロリータの心をまったく理解していない。

成長する前のロリータは、文句を言いはするものの人形のようであり、心を持っている人間としては描かれていない。彼女がなにを考えているのかがわからない。書き手であるハンバート・ハンバートがなにもわかっていないし、愛を絶叫しながらも、結局のところは自分の感情にしか興味がないからだ。


あたしの心をめちゃめちゃにしたのはあの人なの。あなたはあたしの人生をめちゃめちゃにしただけ。

読者とハンバート・ハンバートのつらさが最高潮に達する第二部の終わりで、カタルシスは突然に訪れる。人形でしかなかったロリータが生身の人間となり、自分の心を自らの言葉で語り、彼はその言葉を苦悩しながらも書き留め、これまで500ページにわたり読者の心に堆積したハンバート・ヘドロが怒涛のごとく一掃されていく。

そして、あのラストへ向かう。ハンバート・ハンバートは本書で最初から最後まで愛を語るが、そのほとんどはひとりよがりのグロテスクなオナニーにすぎない。しかし、最後は違う。これほど悪徳によどんだ男が、これほど美しい言葉を吐き出せるものなのか。


お前はもう私を愛していないのか、我がカルメンよ? 愛したことなんて一度もなかった。その瞬間、私は我が愛が相変わらず絶望的なのを知った。

『ロリータ』はつらい。本当につらい。だが嫌いになれないのは、「愛」のグロテスクときらめきが最後の十数ページに凝縮されているからだ。

狂った男は女を愛した。だが男は女の心をなにも、本当になにもわかっていなかった。これは愛だったのか? しかし、愛でないとしたら、この狂気を他になんと名づければいいのか?


私はおまえを愛した。私は五本足の怪物のくせに、お前を愛したのだ。


ウラジミール・ナボコフ作品の感想

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ひとりよがりに少女を愛する男のサイコパス小説といえばこちら。この小説も女性陣を激怒させる才能に満ちあふれている。

愛はコレラという病である。51年9カ月と4日、相手に会わずに片思いをし続けた男の狂気。これもまた相手が目の前にいない「愛」の物語。

 

Vladimir Vladimirovich Nabokov Lolita,1955.