ボヘミアの海岸線

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『アオイガーデン』ピョン・ヘヨン|悪臭と腐敗にまみれたパンデミック都市

それらすべてを抜いて、いざ街を占領しているのは悪臭だった。都市全体が腐乱しながら悪臭を漂わせている。偏頭痛を起こし、舌を鈍らせ、鼻を詰まらせ、絶えず吐き気を催させる悪臭だ。悪臭は都市を構成する有機物の一つになっている。その悪臭の真中にアオイガーデンがある。

ーーピョン・ヘヨン『アオイガーデン』

 

私の人生におけるもっとも強烈な悪臭体験は、モンゴル平原で遭遇した、深さ2メートル、直径2メートルほどの巨大な糞便穴である。遊牧民のパオの近くにあったその穴は、彼らとその客が使うトイレで、穴の端に渡してある2枚の板のすきまから用を足すものだった。板のすきまからのぞきこんだ2メートル下の穴底は、糞便が大量に堆積していて、地獄のように黒く、涙を流すほどの悪臭が押し寄せた。臭気に「押される」感覚がしたのは、後にも先にもあの時だけだった。

悪臭は耐えがたくおぞましいが、この悪臭の源は、かつて人間の体内にあったもので、今も自分の体内にあるものだ。ピョン・ヘヨンの小説は、自分がいずれ腐っていく有機物であることを思い出させる。

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『ある島の可能性』ミシェル・ウエルベック|望みが叶わない人生の苦痛とその解放

僕がセックスで幸せを感じるためには、少なくとも――愛がないのであれば――同情か、尊敬か、相互理解が必要だった。人間性、そうなのだ、僕はそれを諦めてはいなかった。

――ミシェル・ウエルベックある島の可能性

 

幸せはどこまでも主観的なものであり、他者から見て「成功している」「幸せである」ように見える人が、本人もそう感じているとは限らない。

仕事での名声、高額の報酬、著名人との交友関係、自由な性愛、結婚、これら世間が羨む成功を手に入れてもなお孤独で不幸だと苦しむ人がいたら、周囲はきっと「これ以上なにを欲しがる必要があるのか」と言うだろう。しかし本人にとって最も望む願いが叶わないなら、それは不幸であり、人生は苦痛となる。

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『パストラリア』ジョージ・ソウンダース|アメリカンドリームの陰にいる人たち

「すべてを手に入れる人間もいるっていうのに、あたしはどうしてなんにも手に入れられなかったんだ? どうしてなんだ? いったいどうしてなんだ?」

ーージョージ・ソウンダース『パストラリア』

 

アメリカ人の下層半分を合計すると、彼らの純資産はマイナスである」。これはアメリカのジャーナリストが2019年に書いた記事の一文だ*1。「1:99」の世界、1%の人が持つ富が残り99%の人の持つ富より多い現代では、かつての「努力すれば報われる」アメリカンドリーム神話は姿をひそめ、「努力しても報われない」壮絶な格差社会アメリカの代名詞となりつつある。

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『夜』エリ・ヴィーゼル|日常の底が抜ける時

「黄色い星ですって。なんですか、そんなもの。それで死んだりはしませんよ……」

ーーエリ・ヴィーゼル『夜』

 

歴史を振り返るにつけ、生活が根こそぎ変わってしまう激震は、巨大な隕石が落ちるようにまったく突然にやってくるものと、水温が上がるようにじわじわと小さな変化が積み重なるものがある。

どちらも恐ろしいが、前者は恐怖が初期にその姿を現すのにたいして、後者は後から振り返ってはじめてそれが恐怖だったと気づく点において、より恐ろしい。

強烈な変化は反発や反応が起きやすいが、ゆるりとした変化は「これぐらいたいしたことない」「生活に直結するわけではない」と見逃し続けて、ある時ふと底が抜けて、自分が穴に落ちていることに気づく。 

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『十二月の十日』ジョージ・ソーンダーズ|ポップで過酷な選択の岐路

 あれは今まで食らったいろんなヤキの中でも最大級にきついヤキだった。最近じゃもう、加速度的にきつさを増すヤキ入れられの連続こそが自分の人生なんじゃないかと思えてくるほどだ。

ーージョージ・ソーンダーズ「アル・ルーステン」

 

この短編集には、「選択肢が限られている」人たちが多く登場する。

彼らの多くは、貯金がなかったり職業や時間の余裕がない「生活に余裕がない人」たち(いわゆる社会的弱者)、あるいは監獄にいれられたり、緊急事態に遭遇したりして「物理的に選択肢が限られている人」たちだ。

余裕がある人は「今は余裕がないから後にしよう」と選べるが、余裕がない人は「1回休み」の手札を持っていない。だから彼らは、状況が悪くなりそうでも、少ない手札の中からなにかを選択する。

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『フライデー・ブラック』ナナ・クラメ・アジェイ=ブレニヤー|人種差別のディストピア・アメリカ

「たくさん買えましたか?」と俺は訪ねた。彼女は激しくうなずくと、テレビが入った箱の表面を撫でた。「ご家族はまだ買い物中で?」

女性は目の前の血溜まりの中に、人差し指を突っ込んだ。

「四十二インチ、HD」と彼女は言った。

この家族がこのテレビを変えるのは、ブラック・フライデーだけだ。

ーーナナ・クラメ・アジェイ=ブレニヤー「フライデー・ブラック」 

 

アメリカの小売業界に関わる人間にとって、「ブラック・フライデー」と「サイバー・マンデー」は1年のうち最も長い日だ。1日で数週間分から数か月分の売上があがるこの日のために、数カ月かけて莫大な人と金と欲望が動く。関係者たちは前日と当日は寝ずに過ごし、顧客たちは店に突撃してカートにものを突っこんでいく。

この狂乱の1日を思いっきり誇張して、資本主義、ブラック労働、ゾンビ、ショッピングモールと、あらゆるアメリカ要素を全部載せしたのが、表題作「フライデー・ブラック」だ。

フライデー・ブラック

フライデー・ブラック

 

 

「フライデー・ブラック」では、店で最も売る店員である語り手の黒人が、戦場(職場)であるショッピングモールで、ショッピング亡者(お客様)を迎え撃ち、まさかの「ゾンビ×ショッピングモール」パニック話が展開する。さらに、資本主義の奴隷となった顧客(ゾンビ)、労働者(薄給とやりがい搾取)、格差社会といった、資本主義社会の暗黒面も書きこまれる。

まるでトリプルチーズバーガーに特製BBQソースとブルーチーズソースとオニオンリングをトッピングしたかのような、胸焼けがするレベルの「アメリカ全部のせ」だが、かつてアメリカ小売屋の一員として狂乱に立ち会ったことがある私は思わず笑ってしまった。それに現実だって似たようなものだ。需要より多くつくって大量廃棄する一方、生活必需品を買えないほど困窮する人たちがいる。すべてが過剰、あるいは不足している狂乱騒ぎ。

きっと著者も楽しかったのだろう。全部で3本の小売シリーズ小説が収録されている。

「たくさん買えましたか?」と俺は訪ねた。彼女は激しくうなずくと、テレビが入った箱の表面を撫でた。「ご家族はまだ買い物中で?」

女性は目の前の血溜まりの中に、人差し指を突っ込んだ。

……

「どうしたんですか?」俺は訪ねた。

「死んだの」と彼女は言った。「バイ・スタイで。圧死」

「そんな」と俺は言った。

「そうよ」「娘は弱かった。夫も弱かった。私は強い」

ーー「フライデー・ブラック」

  

表題作「フライデー・ブラック」は楽しくばかばかしくおぞましいが、他の作品はもっと深刻だ。著者は、アフリカ系アメリカ人やいじめ被害者など、「差別される側・抑圧される側」に立って、抑圧される側が感じる居心地の悪さと怒りを表明する。

背景には、白人による黒人殺人が無罪になった事件、なにもしていない黒人に「不安だから」と暴力をふるう白人の暴力、いじめ被害者による無差別乱射殺人、「Black Lives Matter」運動のきっかけとなった白人による黒人殺害事件など、現代アメリカの社会問題が横たわっている。

黒人であるだけで、犯罪者予備軍として扱われる無言の圧力と差別、「白人にとって黒人は怖いから」「正義のため」という歪んだ正当化のもと暴力を振るわれたり殺されたりする差別への怒りが、ストレートに伝わってくる。 

本書に、暴力が多いのは当然の帰結だろう。差別する側は抑圧として、差別される側は抵抗と復讐として、暴力をもちいる。暴力は、友好関係を築いていない人間たちにとって、もっとも原始的な接点、もっとも密なコミュニケーション作法である。

著者の暴力レパートリーは幅広く、殴る蹴るの暴力、銃撃や斧によるセンセーショナルな暴力、フィクションでしか見られないレベルのギャグめいた暴力が描かれる。B級スメル全開の振り切れた暴力が炸裂する「フライデー・ブラック」「閃光を越えて」が好みだった。 どちらも、深夜枠アニメや映画で再現できそうだと思った。

 「あなたは無限の存在。だから大丈夫。愛してるわ、カール。あなたは完璧。あなたは最高。あなたは無限。私たちは永遠」

「何て素敵な言葉。ねえ、ミセス・サミュエル、教えて欲しいんだけど」と私は微笑みながら優しい声を出した。

「ウェルダンとミディアム、どっちがいい?」

ーー「閃光を越えて」

著者はジョージ・ソーンダースのもとで小説を学んでおり、アメリカ社会を生きるつらさや社会構造の闇を、ポップでばかばかしい文体で戯画化してアメリカン・ディストピアとして描くスタイルが似ている。

ブレニヤーのほうが師匠よりもB級クンフーを積んでいると思われるので、私は本書のほうが好きだった。というのも、私はたいてい、ニンジャになったり、マリオのように飛び跳ねながら屋根の上を逃げたりといった、B級アクション映画系の夢を見るので、どうもB級ブラックユーモアに親近感を覚えてしかたがないからだ。

 

「君って奴は!」ファーザー・マクストウが言った。「本物のコメディアンだなあ」

「本物のコメディアンって?」と俺は訪ねた。

「冗談を言って、みんなを笑わせる人のことだよ」とファーザー・マクストウは言った。

「昔の世界では、みんなを笑わせることが立派な職業だったんだ。旧世界の暮らしには興味深いことがたくさんあるが、これもその一つだな」

ーー旧時代<ジ・エラ>

 

収録作品

気に入った作品には*。

フィンケルスティーン5*
黒人の少年少女5人をチェーンソーで殺した白人が無罪になった事件にたいして、黒人たちが抵抗運動を起こす。「ブラックネス」(黒人らしさ)の値を言うあたりは、アフリカ系アメリカ人の間でもあるのだろうか。暴力が際立っていてユーモア度は少なめ。

母の言葉
暴力もディストピアも登場せず、作者の心がわりと素直に描かれている。

旧時代<ジ・エラ>*

お世辞や建前を言いすぎて戦争になった「旧時代」と決別し、ストレートトークを重んじる新時代の話。でも結局、生きづらい人は生きづらいし、救われる人と救われない人が変わっただけ。ブラックユーモア要素は少なめ。

ラーク・ストリート*
若年層の妊娠に堕胎というまじめなテーマに、胎児の妖精(?)というファンキー&グロテスク要素をトッピングしている。

病院にて

病院に入院する父親を送る息子が、病院にいる人々を観察する。私もこの前、入院デビューしたので、病院にいる間はいろいろ混乱する気持ちはわかる。

ジマー・ランド**
「正義を行使する」ためにテロリストや怪しい黒人を殺す、「正義執行パーク」で働く黒人の独白。

フライデー・ブラック***
小売B級ドタバタブラック喜劇。ブラック企業で狂乱の1日を過ごしたことがある人は、きっと笑える。

ライオンと蜘蛛
黒人家族の物語。めずらしく暴力もディストピアも登場しない。静かでいい作品だが、この著者でなくても読める気はする。

ライト・スピッター──光を吐く者
いじめ被害者による無差別殺人という、これまた社会派のテーマに「天使」要素を加えた作品。加害者が被害者と会話することは実際にはほとんどないが、だからこそこの形で会話を成立させたかったのだろうか。あまり笑い要素がなくて、いまいち。

アイスキングが伝授する「ジャケットの売り方」&小売業界で生きる秘訣
「フライデー・ブラック」で売上1位に輝いた語り手のスピンオフ。意外とちゃんとした仕事論になっていて、基本的に著者はまじめなのだなあと思う。ブラックな職場で生き残れなかった人への周囲の反応がなんともリアルでやるせない。

閃光を越えて **
日本人ならおなじみ、悲惨な世界を繰り返すループもの。語り手の少女が暴力を極めており、楽しく殺伐終末舞踏会が開かれるので笑ってしまった。最後のシーンは、いかにも最後らしくて、すごくよかった。

Black Lives Matter

2012年、トレイヴォン・マーティンという17歳の黒人少年が、近所の「自警ボランティア」である白人男性ジョージ・ジマーマンに射殺された事件が起きた。ジマーマンが無罪になったため激しい抗議活動が起き、「Black Lives Matter」(黒人の命を大切に)というスローガンがうまれた。その後、白人警官が無抵抗な黒人を窒息死させたエリック・ガーナー事件が起きた時は「I can't breathe」というスローガンもうまれた。

その後も、無抵抗な黒人を白人経験が射殺する事件が続いた。2020年、ミネアポリスで起きた暴動や「フィンケルスティーン5」は、この延長線にある。

 

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十二月の十日

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パストラリア

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創作学科における、ナナ・クラメ・アジェイ=ブレニヤーの師匠。確かに語り口や「社会問題×ブラックユーモア」といった構成は、ソーンダースの影響を強く受けていると思う。著者が師事したジョージ・ソーンダースはプアホワイトの苦境を描き、弟子のナナ・クラメ・アジェイ=ブレニヤーはアフリカ系アメリカ人の苦境を描いている。21世紀アメリカの創作学科は、こうした「つらい立場にいる人々」について書くことが主流なのかもしれない。いい話風に終わらせがちな『十二月の十日』より、『パストラリア』のほうが好き。

 

黒人奴隷の少女が、地下鉄道に乗って逃亡する。既存の暴力を空想世界で再現する手法は、最近のアメリカで人気なのかもしれない。『フライデー・ブラック』とともに、『地下鉄道』も映画化される。

 

 

「暴力×映画」のアメリカ文学の大御所。マッカーシー・ワールドにブラックユーモア要素はほとんどないが、『悪の法則』には架空の処刑器具が登場する(ものすごく怖い)。

 

高慢と偏見とゾンビ(字幕版)

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  • 発売日: 2017/03/04
  • メディア: Prime Video
 

「ジェーン・オースティン×ゾンビ」映画だが、意外とちゃんと『高慢と偏見』していたのでびっくりした。

 

翻訳者・藤井光氏による本書の解説。アメリカ文学の文脈や実際の事件について詳しく書いている。本書の読了後に読むことをおすすめ。

 

『チャイルド・オブ・ゴッド』コーマック・マッカーシー|孤立と貧困で転落する神の子

蝙蝠の群れが去ったあとは煙出しの穴から見える冷たい星の大集団を眺めてあれらの星は何でできているのか、自分は何でできているのかと考えた。

コーマック・マッカーシー『チャイルド・オブ・ゴッド』

 

「なぜつらい小説を読むのか、つらい話が好きなのか」としばしば聞かれることがある。つらさは別に好きではない。私がつらい小説を読むのは、人間がそういうつらさをつくる存在だからだ。美しい一面もおぞましい一面も含めて人間で、私はこの不可思議な生き物を知りたいと思い続けている。だから美しい話もつらい話も驚嘆すべき話も、人間に関するものなら読むことにしている。

コーマック・マッカーシーは悪について書き続けている作家で、読んでいてつらいタイプの作家だが、彼の悪への目線は、人間の極北を見極めようとしているように思えるから、ついなんども読みたくなる。

チャイルド・オブ・ゴッド

チャイルド・オブ・ゴッド

 

サクソン人とケルト人の血。おそらくあなたによく似た神の子だ。

舞台はアメリカ南部テネシー州。「あなたによく似た神の子」と呼ばれるプアホワイト、レスター・バラードが、じょじょに社会から追われ、生活が苦しくなり、道を外していく。

現金も仕事も人付き合いもほとんどないバラードは、社会から切り離されて孤立している。税金滞納により持ち家を追われたことにより、バラードは山奥の無人小屋に住み着いて、ますます孤立を深めていく。

バラードの生活はおおむね、ライフルと暴力と性欲によって成り立っている。性欲はあっても貧しく粗暴なので女から相手にされず、売春しようとしてもたった25セントすら払えない。家を失ってからのバラードは性欲と暴力が先鋭化していき、ついに決定的な瞬間をむかえ、陰惨な事件を起こす。

あんた見たいの。

見てえ、とバラードは言った。

じゃ二十五セント。

持ってねえよ。

娘は笑った。

 『ブラッド・メリディアン』 『血と暴力の国』 『悪の法則』)で、著者はすでに完成されきった悪を描いてきた。これら3作より10年以上前に書かれた「神の子」(Child of God)という名の本書で、著者は「悪が悪になるまで」を描く。

バラードは、自身がなぜこうなったかについて、自分の言葉では語らない。そのかわり、バラードの行動や周囲の人間の証言から、家庭環境からくる人づきあいのしづらい性格、社会的紐帯の弱さと極貧生活が彼を追い詰めていったことがわかる。

本書の時点では「人間が悪になるのは、運の悪さによって追いつめられたためだ」ととらえているように思える。人外めいた判事やシュガーレベルになると共感や同情の余地などまるでなく、非人格的な災厄に思えてくるが、バラードはどこまでも人間としか感じない。

 そういう意味では、バラードは「人間」であり、「おそらくあなたによく似た神の子」だった。

本書は殺伐系マッカーシーと比べるとだいぶ人間らしさがあり、社会問題にもなりうるテーマで、これまで読んできたマッカーシーの中ではいちばん「他の人でも書きそう」と思えるものだった(初期作品だからかもしれない)。一方、句読点がない息の長い文章、光と影のコントラストが美しい描写は健在で、マッカーシーはこのころからすでにスタイルを確立していたことがわかる。

また著者は人道主義的なスローガンは出さず、あくまで個人が追い詰められて一線を越えるまでの描写に徹している。

ほぼ内省しないバラードが自身について思索するシーン、そして涙を流すシーンは、孤独で陰鬱で美しい。「自分は何でできているのか」という問いの答えが、本書なのかもしれない。

ある夜に火のそばの寝床に横になっていたバラードは蝙蝠の群れがトンネルの闇の仲から出てきて頭上の穴から灰と煙を激しい羽ばたきではね散らしながら冥府から飛び立つ魂のように昇っていくのを見た。蝙蝠の群れが去ったあとは煙出しの穴から見える冷たい星の大集団を眺めてあれらの星は何でできているのか、自分は何でできているのかと考えた。

昔のほうが悪い奴が多かったと思いますか、と保安官補が聞いた。老人は水に浸かった町を眺めやった。いやそうは思わんね。人間てのは神様がつくった日からずっと同じだと思うよ。

 

Movie

チャイルド・オブ・ゴッド(字幕版)

チャイルド・オブ・ゴッド(字幕版)

  • 発売日: 2018/11/02
  • メディア: Prime Video
 

2018年に映画化された。バラードが住む森の描写が、小説を読んでいた時に想像していた森とほとんど同じで、マッカーシーの自然描写の巧みさにあらためて驚く。そうそう、まさにこういう枯れた陰鬱な森を想像していたんだ。 

 

コーマック・マッカーシー著作の感想

 

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「善人はなかなかいない」のミスフィット(はみだし者)とバラードは、泣きそうになっている神の子だと思う。

 

陰惨な世界を孤立して生き延びる少年の地獄めぐり。今年に映画が上映される。

 

『血と暴力の国』コーマック・マッカーシー|出会ってしまったら終わりの災厄

出直しなんてできないんだ。そういう話だよ。きみのどの一歩も永遠に残る。消してしまうことはできない。どの一歩もだ。言ってることわかるかい?

ーーコーマック・マッカーシー『血と暴力の国』

 

 『悪の法則』と『血と暴力の国』は異なる手法で同じマッカーシー・ワールドを描いていると思う。

どちらも中心にあるのは「とめられない災厄」「選択がもたらす、変えられない運命への突進」だ。『悪の法則』では複数組織のルール、『血と暴力の国』ではひとりの殺戮者が、命を刈り取る災厄として登場人物の前に立ち現れる。

血と暴力の国 (扶桑社ミステリー)

血と暴力の国 (扶桑社ミステリー)

 

 

ベトナム帰還兵のモスは、アメリカとメキシコの国境近い荒野で、偶然に銃撃戦にあった麻薬組織の車を見つける。死体と麻薬、そして240万ドルの大金を見つけたモスは、金を持ち出す。目撃者は誰もいなかった。しかし、うっかりした理由で、災厄としか言いようのない男シュガーに見つかってしまう。

 

シュガーは、『ブラッド・メリディアン』の判事を思い出させる殺戮者だ。「自分と関わった人間は命が短くなる」と言い放ち、自分の邪魔をした人間は殺すルールを自分に課している。自分にした約束とルールについてはおそろしく律儀で、ぜんぜん関係ない人間でも、自分への約束を守るためにわざわざ殺しに行く。

そしてシュガーはとても饒舌だ。とくに殺す相手を目の前にした時の饒舌ぶりは圧巻で、太陽が東から上るのは当然だろうと言わんばかりに、当たり前のように殺戮を語る。

こんな人外に会ったら出会い頭に脳天を吹き飛ばすしか生き延びるすべはなさそうだが、シュガーの饒舌はブラックホールみたいな真っ黒い底なしの引力があって、つい耳をそばだててしまう。

ほとんどの人はおれのような人間が存在しうるとは信じない。ほとんどの人にとって何が問題かはわかるだろう。自分が存在を認めたがらないものに打ち勝つのは困難だということだ。わかるか? おれがおまえの人生の中に登場したときおまえの人生は終わったんだ。

一人の人間はどんなふうにしてどの順番に自分の人生のあれこれを放棄する決意をするのか? おれたちの職種は同じだ。ある程度まで。おまえはそこまでおれを軽じたのか? なぜそんなことをする気になった? どんなふうにしてこんな目にあうはめになった?

 

シュガーは、人間というよりは、人間の形をした災厄、言語を話す死に近い。そしてシュガー自身も、自分を人間扱いせず、災厄の運命、世界として語る。そのため、シュガーとの対話は、どんどん抽象的かつ運命論的になっていく。

最後はどうなるかわかってるだろうな?

いや。おまえにはわかってるのか?

ああ。わかってる。おまえにもわかってると思う。まだ受け入れてないだけだ。

もっと違ったふうになりえたと言うことはできる。ほかの道筋をたどることもありえたと。だがそんなことを行ってなんになる? これはほかの道じゃない。これはこの道だ。おまえはおれに世界に対して口答えしてくれと頼んでるんだ。わかるか? 

 

欲や感情や恨みといった感情がまるっきりなく、ルールを順守する純粋な「悪」がどう動くのか、「悪」と対峙した人間がどう反応するか。そして、悪は人の心と体をどう変容させていくかを描く小説だった。最後は意外だったが、やはりあれも「悪に対峙した結果」なのだと思う。

生き延びた人間も死んだ人間も等しく、それに出会ってしまったら変わらざるを得ない。そんな存在は、人か人にあらざるかを問わず、悪、災厄と呼ばれるものだと知る。

 

コーマック・マッカーシー著作の感想

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「善人はなかなかいない」のミスフィット(はみ出し者)とシュガーは、饒舌な殺人者として似ている。ただ、ミスフィットは悲しみを語るが、シュガーはそういう情動はなにもない。シュガーは人間を超越している。

 

『悪の法則』コーマック・マッカーシー|処刑器具として動き出す世界

自覚しておいてほしいのはあんたの運命はもう固まってるってことだ。

ーーコーマック・マッカーシー『悪の法則』

 

たとえば国境をわたる時、私たちはたいてい、自分の歩く道は自由に行き戻りできる双方向の道で、ちょっと冒険に出てもすぐに戻ってこられると信じている。私たちが知らない道を安心して気軽に歩けるのは、世界が「自分が知るルール」で動いていると信頼しているからだ。

その信頼はだいたい合っているが、たまに例外がある。自分の知るルールが適用されない世界、簡単に行って戻ってこれると思っていたら二度と戻れない道がある。

悪の法則

悪の法則

 

 

アメリカ人男性「弁護士」の人生は順風満帆だった。仕事でうまくいっていて、最愛の恋人がいる。なにも不自由はない。しかし、もっと金が欲しいと欲が出た弁護士は、裏社会につうじる知人経由で「1回きりだから」とメキシコの麻薬取引ビジネスに関わる。

 弁護士は、自分のことを「うまくやっている」と思っている男だ。実際にうまくやってきたのだと思う。だが弁護士の自信とは裏腹に、不穏な警句がなんども登場する。ダイヤモンド商、麻薬界隈の人間たちが、さざ波のように何度もつぶやく。「行ったらもう後戻りできない」と。

最初の切子面がカットされるともう後戻りできません。合一の象徴となるべきものが永遠に不実を残すことになるわけですがそこにわたしたちは厄介な真実を見てとることができます。人間の企ての形は良かれ悪しかれ着手した時点で完成するという真実を。 

自覚しておいてほしいのはあんたの運命はもう固まってるってことだ。

そしてそのとおりになる。

全編に渡って響く「ポイント・オブ・ノーリターン」「いちど動き出したらとまらない世界」が、容赦なく圧倒的な力で弁護士とその周囲を踏み潰しにかかっていく。

この法則は、やばい処刑器具「ボリート」に凝縮されている。ボリートは、絶対に切れないワイヤーを締めるモーターつきの器具で、ワイヤーを標的の首にかけて発動させると、穴が穴でなくなるまで絶対にとまらない。標的はワイヤーを外すことができず、とめることもできず、頸動脈を切られて死ぬ。リカバリーはできない。とめることもできない。

  

本書の主人公は、弁護士でもメキシコの麻薬カルテルでも密売人でもなく、「意思を無視する、機械じかけの処刑器具として動き出す世界」であるように思える。

たしかに麻薬カルテルや元凶となる人物はいるが、すべてを仕組み、統率している中心人物はいない。それに、おそらく著者はあえて「誰がなにをたくらみ、どう動いているか」を曖昧に書いている。結果として、悪意ある「特定の人間」ではなく、意思ではどうにもならない処刑システムとしての世界が浮かび上がる。

 

弁護士の運命は、ギリシア悲劇を思わせる。神々が決めた運命を人間が避けられないように、処刑器具として動き出した世界をとめられない。

ギリシア世界では「神が決めたことだから」と神々にすべてを帰することができるが、最悪なことに、神々がいないマッカーシーの世界では、このスイッチを入れるまでの「選択」はできるのだが、入れた後の選択ができない。

でも、スイッチを入れるまでの選択ができたのだから、入れた後も自由意思で選択できる、まだとめられると思ってしまう。自分のいた世界のルールで考えてしまう。

それに、慣れ親しんだ因果応報の世界観とも違っている。この観点から言えば、弁護士がやった過ちと弁護士の受けた罰は釣り合っていない。弁護士だってきっと思っただろう、「たしかに悪いことはしたが、これほどのことをされるようなことはしていない」と。でも残念ながら、ぜんぜんそういう世界ではないのだ。

受け入れない人間たちにたいして、世界は容赦なく動き続け、血を食らいながら、途方もない認識の落差をえぐり出していく。(弁護士が常識をひきずってもたもた逃げようとするシーンは、本当に胃痛しかない)

おれは人に何かを決められるのが嫌いだ。しかし情報がたくさん集まるのを待って決断を先延ばしにしてると誰かに決められることになるかもしれなん。それでも自分で決断する余地はあると思うだろう。しかしその余地はないんだ。

 コーマック・マッカーシーは、すべての結果が運とそれまでの選択によって決まる世界と、その臓腑でうごめく人間たちを描く。

弁護士が受ける警句はどれもこの世界観に沿ったもので、終盤にある弁護士と有力者の会話は、もっとも純度が高い残酷がつまっていて、もっとも好きだ。この地点に到達した時、弁護士と読者は、容赦ない災厄の世界と目を合わせて対峙する。

おれにわかるのはあんたが自分のした間違いをなんとかしようとしている世界はあんたが間違いをしてしまった世界とは別の世界だってことだ。あんたは今自分が十字路に経って進むべき道を選ぼうとしていると思ってる。でも選ぶことなんてできない。受け入れるしかない。選ぶのはもうとっくの昔にやってるんだから。

純度の高い、しかし絶対に関わりたくない世界だった。でも残念なことに、そんな私のちっぽけな意思も、世界はなんとも思っていない。ただ今の私は運よく、その道に至る選択をしていないだけだ。世界の上を揺れ動いているギロチンに気づいただけでも、幸運だというべきだろうか?

 

 

Movie 

悪の法則 オリジナル版 (字幕版)

悪の法則 オリジナル版 (字幕版)

  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video
 

もともとコーマック・マッカーシーは、映画脚本として書いている。リドリー・スコットが監督で映画化しあ。マイケル・ファスベンダー、ブラッド・ピット、ペネロペ・クルス、キャメロン・ディアス、ハビエル・バルデムと、大御所だらけだが、興行収入はいまいちだったらしい。

誰がなにをしてどう悪い方向に進んでいくのかが曖昧でわかりにくいからかもしれないが、そこをはっきり書いていたら、きっとこんな後味にはならなかっただろうと思う。メキシコとアメリカの国境あたりの風景、ブラッド・ピットのあれを含めて、私は好きだった。

 

コーマック・マッカーシー著作の感想

 

Ralated books

血と暴力の国 (扶桑社ミステリー)

血と暴力の国 (扶桑社ミステリー)

 

『悪の法則』と同じ「選択した結果を引き受けろ、ただしやったことと受けることは釣り合わないがな」という残酷世界を描いている。『血と暴力の国』では、残酷世界の体現者はひとりの犯罪者に凝縮されている。この2つは同じ世界を違う形で書いているので、まとめて読むことをおすすめ。

 

完訳 ギリシア・ローマ神話 上 (角川文庫)

完訳 ギリシア・ローマ神話 上 (角川文庫)

 

神々の気まぐれによって多大な犠牲(だいたい命)を払う人類。ギリシア・ローマの世界観は、おそろしい世界の原因を神々に見ていたけれど、神々がいないときっとコーマック・マッカーシーの世界になるのだろう。 

 

とにかく関わった人間がほぼ死ぬ、全滅叙事詩。狂気の女によってこの舞台は組み上げられる。災厄としか言いようのない世界。ガイブン怖い女選手権に永久ノミネートされるやばい女たちがたくさんいる。

 

ヴェイユは不幸を「底の底にまで下っていき、身体と精神が痛めつけられ、奪われた状態」と書いている。弁護士は不幸な人間に転落した。

 

賭博黙示録 カイジ 1

賭博黙示録 カイジ 1

  • 作者:福本 伸行
  • 出版社/メーカー: フクモトプロ/highstone, Inc.
  • 発売日: 2013/07/25
  • メディア: Kindle版
 

 「余地があると思っている」「選択できると思っている」が、じつはそんな選択はなく、ただ受け入れるしかない世界。

 

メイドインアビス(1) (バンブーコミックス)

メイドインアビス(1) (バンブーコミックス)

  • 作者:つくしあきひと
  • 出版社/メーカー: 竹書房
  • 発売日: 2014/06/19
  • メディア: Kindle版
 

行ったら戻ってこれない世界観は同じだが、リコは弁護士と違って、覚悟を持ってアビスにダイブしている。果てしなく強いが、人間離れしている。

『春にして君を離れ』アガサ・クリスティー|愛に満ちた理想の家族という幻影

 「度しがたい道徳家なんだなあ、きみは」

――アガサ・クリスティー『春にして君を離れ』

 

人間は自分が見たいように世界を見るし、自分が見たいように他者を見る。自分に似たところを見つけたり、自分がなりたい姿を見出せば、他者を好きになるし、自分にあると認めたくないものを他者のうちに見れば、嫌悪して遠ざける。

そうして私たちは自分というフィルター越しに、願望を世界と他者に投影する。そのフィルターが分厚ければ分厚いほど、理想の世界に生きられるが、他者の心からは遠く隔たっていく。

春にして君を離れ (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

春にして君を離れ (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

 

 

舞台は1930年代イギリス。語り手のジョーン・スカダモアは、自分の生活に満足しているイギリス人女性だ。彼女の人生は完璧である。優しく裕福な夫、独立したすばらしい3人の子供たち、お互いがお互いのことを深く理解しあい、愛し合っている。

ところが、偶然に会った旧友の一言が、彼女の完璧で安定した認識に小さな亀裂を入れる。「あなたの子供は、家をそれほど愛していないのでは?」そんなばかな、これだから不幸な女の妄想は、とジョーンは一笑にふすが、たまたま砂漠しかない異国のレストハウスに足どめされてひとりの時間がたっぷりできたことで、ジョーンは亀裂をのぞき見ながら、自分の人生を思い出していく。

 

この小説では、舞台はほとんど動かない。しかし、ジョーンの人間関係と過去、つまり彼女の世界すべてが地すべりして変わっていく。

ジョーンは夫や子供との会話を思い出しながら「私は家族に愛されて、よく理解しあっている理想の家族」と正当化しようとするのだが、思惑とは裏腹に、認知の歪みがじわじわと明らかになっていく。

 自分中心にものを考えるたちじゃない。自分のことなんて、あまり考えたことがない。 

「あなたとわたしって、とてもいい組み合わせだったんですわ」「そうだね。あまり喧嘩もしなかったし」

 

ジョーンは、フラナリー・オコナーの小説に出てくる「善良な人々」、より正確にいえば「自分が善良だと思っている人」だ。

オコナーは登場人物に内省をぜんぜん期待していないので、恩寵光線といった外部からの力によって目の中の丸太を叩き落す。一方でクリスティーは、登場人物に内省させる。気づきたくないこと、見たくないことをじわじわと明らかにする胃痛心理サスペンスによって、丸太の存在に気づかせる。

 

「だいたいお母さんには、お父さんのことなんか、何一つ、わかっていないんだよ」「もうたくさんよ、トニー。もちろん、お父さまのことはよくわかっていますとも――あなたたちよりずっとよく」「へえ、そうかなあ。ぼく、ときどきお母さんって、誰のこともぜんぜんわかっちゃいないって気がするんだ」 

 

ジョーンは、部屋にいながらにして北半球から南半球へ移動してしまったかのような、呆然とするしかない、人生を根こそぎにする激震を経験する。

なにひとつ事件は起こっていないのに、人間関係も事実も変わってはいないのに、世界を揺るがせるその手腕は、さすがクリスティーだとうなってしまう。

 

私たちは、誰もが「自分」という名のフィルターからは逃れられない。人間は他者と心を共有できる仕組みを持っていないから、他者の言動を自分なりに判断して意味づけするしかない。

そういう意味では、誰もが異国の砂漠にひとりぼっちで立っている。

 

もし砂漠に立っていることに気づいて、それでもひとりはさみしいのなら、他者を他者として認め、心の溝をすこしでも埋めるよう、言葉と態度を尽くすしかない。あるいは、なにも見ないことにして、目を開けながら盲目になるか。

どちらにせよ私たちは、ジョーンの孤独をとおして人類の孤独につきあたる。

嫌悪と苛立ちとさみしさと悲しみがない交ぜになって心にしみこんでくる、とてもさみしい小説だった。

 見渡す限り遮るものもない沙漠――けれどもわたしはこれまでずっと、小さな箱のような世界で暮らしてきたのだ。

 

 

アガサ・クリスティーの作品レビュー



 Related books

村上春樹が「最後のとっておき」として訳したアメリカ南部文学の古典。自分が見たい幻影を相手に見る人類の孤独を、やさしさと切実さでもって暴いていく作品。さびしい小説の傑作だと思っている。

 

目の中に丸太が入っている人間に、一撃を与えて丸太を叩き落す瞬間を描き続ける。その劇的な一瞬があまりにも劇的なので、思わずなんども見入ってしまう。

 

激しい妄想世界に生きている、孤独な女が、他者を他者として認識する話。ジョーンほど人に悪影響を与えているだけではないが、精神の箱庭ぶりは似ている気がする。

 

『シモーヌ・ヴェイユ アンソロジー 』シモーヌ・ヴェイユ|不幸の底へ下り、愛へ飛躍する

わたしたちが生きており、その微小な部分をなしているこの宇宙は、神の<愛>によって神と神とのあいだに置かれたこの距離である。わたしたちはこの距離における一点である。時間・空間、物質を支配しているメカニズムは、この距離である。わたしたちが悪と名づけるものはすべて、このメカニズムにほかならない。神は、神の恩寵がひとりの人間の中心そのものに浸透し、自然法則を害することなく、その人が水の上を歩けるようにした。だが神から目を背けるならば、その人はただ重力にゆだねられるがままになっている。

――シモーヌ・ヴェイユ「神への愛と不幸」

 

本書は、ヴェイユの主要な論考7本をおさめたアンソロジーだ。「ヴェイユ入門書としてちょうどいい」と勧められて手に取った。論考それぞれが主題も論調も違っていて、最初はなかなかつかみどころがないように思える。だが読み進めるうちに、その底には、言葉を尽くして語らざるをえない強い引力、切羽詰まった激情のようなものが沈んでいると気づいてくる。

 ヴェイユの文章には、「美」「善」「不幸」「悪」「キリスト」「力」「犠牲」といった言葉がくりかえし表れる。善と悪、美と不幸、力と犠牲、といった二項対立になりがちなこれらの言葉を、ヴェイユは隣り合わせに並べていく。その並べ方が独特だ。

シモーヌ・ヴェイユ アンソロジー (河出文庫)

シモーヌ・ヴェイユ アンソロジー (河出文庫)

 

不幸を距離としてじっと見つめるのでなければ、不幸の存在を受け入れることはできない。

神は、愛によって、愛に向けて創造した。神は愛そのものと愛する手段以外のものを創造しなかった。……神と神とのあいだのこの無限の距離であり、至高の引き裂かれであり、他の何ものも近づきえない痛みであり、愛の驚異であるもの、それがキリストの磔刑である。

――「神への愛と不幸」

不幸な人はいかに不幸か、どのように不幸かを語った直後に、なんの前置きもなくするりと神の愛に跳躍する。じつにあっさりとあたりまえのように飛ぶので、その軽さにびっくりしてしまう。

ヴェイユが語る、神の愛と犠牲の思想そのものにはなじみがある。愛する御子をつかわして人間の罪すべてを贖罪させるほど神は人間を愛しているのだと、キリストが死の直前に「神よ、なぜあなたは私を見捨てたのか」と嘆く言葉に神が沈黙したことも含めて愛なのだと、シスターからなんども聞かされてきた。「愛」については、「隣人を愛せよ」「弱く苦しんでいる者に親切にせよ」と、人間同士の愛について語られることが多かった。

一方、ヴェイユが語る「愛」は、人間同士のあたたかい交流ではなく、孤独で不幸のどん底であらわれる試練のようだ。神を見上げざるをえないまでに追いつめられた不幸な人(不幸なキリスト)が、悲しいほど遠くにいる神にまなざしを向けることが愛だ、という展開は、「愛」という言葉から想像する安心やぬくもりからはほど遠い。ヴェイユの提案は過酷、ほんとうに過酷である。

 

「神への愛と不幸」には、「人間が不幸なのは、神が人間に愛されたいから」というくだりがある。

このように、不幸は、神がわたしたちから愛されることを欲しているというもっとも確かな徴である。それは神の優しさのもっとも貴重な証である。それは、父権的な懲罰と言ったものとはまったく別のものである。若い婚約者が自分たちの愛の深さを確かめる優しい喧嘩に例えるのが、いっそうふさわしいであろう。

 ギリシアの神々や北欧の神々ならともかく、全能の神が人間の愛欲しさに不幸(人間性のすべてをはく奪され、身体の痛みもある、とてつもない不幸)を与えるのだろうか。この神は、私の周りで見るキリスト教の神々とはだいぶ違っている。

 

こんなふうに、ヴェイユの言葉と思想の連なりに私はいちいち驚いては立ちどまる。だが、繰り返される言葉には「暴力の犠牲になった人、不幸な人が、どう救われるか」といった、弱く不幸な人と向き合おうとする気持ちがあるように思う。

 ヴェイユの言葉は「よりよく生きて、現実を改善して、不幸から離れよう」といった、階段を一段ずつのぼって底から離れていくタイプの言葉ではない。

ヴェイユはむしろ階段をどんどん降りて、奈落の底へと近づいていく。心と体がずたずたになった不幸の底に向かい、不幸な人をじっと見つめ、相手の立場に身を置いて、そこから一気に上を見上げて愛と善に、階段をのぼらずそのまま飛躍する。

よりよい世界や希望といった光(多くの宗教はこちらを提示する)ではなく、不幸や苦しみといった、人が目をそむけたがる暗闇に向けてじっと目をこらし、目を離さずに受けとめようとする視線は、鬼気迫るものがある。

 

いったいなぜ彼女はこの思想にたどりついたのだろう。ヴェイユは、不幸な人が不幸のまま死なないようにしたかったのだろうか。

不幸で疲れ切ってずたずたになった人は、階段をのぼって状況を改善する力も自由も残っていない。いまいる底から神の愛に一直線につながる道筋は、ひとつの救いではある。

 だがその道に至るには、不幸を見つめて不幸とともにあろうとしなくてはならない。とても難しい。ヴェイユ自身も「自殺するより難しい」と書いている。

誰かに耳を傾けるとは、その人が話しているあいだ、その人の立場に身を置くということである。その魂が不幸でずたずたにされている、あるいは差し迫った身の危険がある人の立場に身を置くとは、自分自身の魂を無にすることである。それは、生きるのが楽しい子どもにとって自殺する以上に難しいことである。それゆえ、不幸な人に耳が傾けられることはない。

でもきっと彼女は、そうあろうとしたのだろう。皆が目をそむけるものを目をそらさず見つめよう、誠実であろうとする言葉は、どんどん純化して、清濁混沌の現世からは離れていって、最後の2編はまるで骨でできた結晶みたいだった。

 

Content

  • 『グリム童話』における六羽の白鳥の物語
  • 美と善
  • 工場生活の経験
  • 『イーリアス』、あるいは力の詩篇
  • 奴隷的でない労働の第一条件
  • 神への愛と不幸
  • 人格と聖なるもの

 

Related books

ヴェイユが「『イーリアス』、あるいは力の詩篇」で、もっとも優れた詩と誉めたたえた。力によって死んだ英雄の帰還を待って風呂の準備をする妻たちの姿が、不幸であり美しいと書いている。ヴェイユは、不幸と美についても同じ目線でつなげている。

 

不幸を与えてくる神と対話する善人ヨブ。ヨブについて、ヴェイユは「不幸の例」として挙げている。ヨブの嘆きと神との対話はほんとうにすごい。

 

フラナリー・オコナーに出てくる「恩寵」とヴェイユの「恩寵」、恩寵つながりで読んだ。ふたりの恩寵はどちらも犠牲と不幸が関わるが、オコナーはみずから暴力をもちいるのにたいして、ヴェイユは暴力をふるうことを拒否して受ける側の立場で考えるので、だいぶ違う気がする。

 

 

 

 

 

『秘義と習俗』フラナリー・オコナー|私は南部とキリスト教の小説家

真のカトリック小説は、人間を決定されたものとは見ない。人間を、まったく堕落したものと見ることはない。かわりに、本質的に不完全なもの、悪に傾きやすいもの、しかし自身の努力に恩寵の支えが加われば救済されうるものと見るのである。

 ――フラナリー・オコナー『秘義と習俗』

 

小説家が、作品の意図や背景について語ることはめずらしい。小説家は小説で語り、読みは読者にゆだねる存在だと思っていた。ところがフラナリー・オコナーは『秘儀と習俗』で、自分の作品に通底するものや背景、作品の意図についてびっくりするほど率直に語る。

秘義と習俗―フラナリー・オコナー全エッセイ集

秘義と習俗―フラナリー・オコナー全エッセイ集

  • 作者: フラナリーオコナー,サリーフィッツジェラルド,ロバートフィッツジェラルド,Flannery O'Connor,Sally Fitzgerald,Robert Fitzgerald,上杉明
  • 出版社/メーカー: 春秋社
  • 発売日: 1999/12
  • メディア: 単行本
  • この商品を含むブログ (1件) を見る
 

 

著者と作品を形作るものについてのエッセイ集である。オコナーといえば「南部」「キリスト教」がその特徴としてあげられる。作品を読んでいる時、著者が「南部」「キリスト教」についてどう考えているのかが気になっていたが、本書ではその問いへの答えが書いてある。

私の書物に性格を与えた環境上の事実は、南部人であることと、カトリック教徒であることの2つである。

彼女にとってキリスト教は「秘儀」、南部は「習俗」であり、秘儀と習俗を表すことが小説だという。

習俗(マナーズ)をとおして秘義(ミステリー)を具体的に表すのが小説の務めである。…秘義とは、この世にわれわれが在る常態についての神秘であり、習俗とは、芸術家の手を経てそのわれらの存在の中心的神秘を明らかにするような、しきたりのことである。

オコナーの小説は似た構成が多いと思っていたが、なるほどここまではっきりと「小説とはなにか」を決めているならと納得する。そしてオコナーは「南部」「キリスト教」をとても重視し、誇りを持っていることがわかる。

習俗は、作家にとって非常に重大なものであって、だからどんな種類の習俗(マナーズ)でも用に足るのだ。野卑な習俗だって、ぜんぜんないよりよい。われわれ南部人は常態の習俗(マナーズ)を失いつつあるから、きっと必要以上にそれを意識するのだが、こういう状況は作家を生み出すのに適しているようだ。 

われわれのほとんどがここしばらく見てきた苦悩は、南部が国全体から孤立しているということが原因で起きたのではなく、孤立が十分ではないという事実によって引き起こされたのである。 

私にとって生の意味は、キリストによる罪の贖いを中心にしているということであり、この世で私がものを見るとすれば、そのものがこの贖罪とどう関わるかという点をとおして見るのである。

 

オコナーの激烈な一撃をもたらす手法についても、本人の言葉があった。これには驚いた。

キリスト教を心に留める小説家は、自分にとっては不快な歪みを現代生活の中にきっと見出すものだ。そして彼は、その歪みを当然と見ることに慣れた読者に、歪曲を歪曲と見させることを自分の問題とするはずである。そんな敵意ある読者に、作家が、自分の想像を誤りなく伝えるために、いやましに暴力的な方法をとらざるをえかったとしても、それは当たり前というものである。

…作家は、自分のヴィジョンを明確に伝えるために、衝撃を加えるという手段に頼らざるを得ないのである。耳の遠いものには、大声で呼びかけ、ほとんど目の見えぬ者には、図を示すと大きくぎくりとさせるような形に描かねばならぬのと同じ道理である。 

現代小説で非常に多く暴力が使われる理由は、作家によってちがうと思うが、私の作品では、人物たちを真実に引き戻し、彼らに恩寵の時を受けいれる準備をさせるという点で、暴力が不思議な効力を持つということに気づくからである。人物たちの頭は非常に固くて、暴力の他に効き目のある手段はなさそうだ。真実とは、かなりな犠牲を払ってでもわれわれが立ち戻るべき何かである、という考えは、気まぐれな読者にはなかなか理解されない。しかし、それはキリスト教の世界観にはもともと内在する考えなのだ。

 ここまではっきりと自分で言い切ってしまうとは! 

オコナーは身近に感じる習俗を用いて、私たちに近い人物を描き、読者にもたらす効果を狙っている。はっと目が覚める一撃という点では、その試みは成功していると思う。一方で、彼女がめざす「理想の人間」を読者が受け取れるかどうかはわからない。読書会でも、一撃の効果については皆が気づいたが「ならばどういう人間を理想としているのか」については、迷う声が多かった。

下記の一文は、読者とオコナーの距離をあらわす、ユーモアあふれる一文だと思う。オコナーが本気なのか真顔ギャグなのかは判断が難しいところではあるが。

一度、カリフォルニアに住む年寄りの女性から手紙をもらったことがあるが、彼女の言うところによれば、労働に疲れて夜に帰宅する読者は、何か心を明るくするものを読みたいものだそうだ。彼女の心は、私の作品のどれを読んでも明るくならなかったらしい。私は、彼女の心の在処さえ正しかったら十分明るくなっただろうと思う。

フラナリー・オコナーの短編集を読んだ後で本書を読むと、また短編集を楽しめるようになるので、じつにおもしろい本だった。オコナー短編集とともに楽しむための本だと思うので、一緒に文庫化入りしてほしいところ。

 

 フラナリー・オコナーの著作レビュー

 

Related books

南部生まれの著者が簡潔にまとめた南部の文化と歴史。「アメリカの均質化は進む一方である。しかし、それでもなおかつ南部は南部であり続けている」という一文が、オコナーの言葉と似ている。

 

シモーヌ・ヴェイユ アンソロジー (河出文庫)

シモーヌ・ヴェイユ アンソロジー (河出文庫)

 

オコナーとヴェイユは、どちらもキリスト教と恩寵について語った。恩寵つながりでつなげて読んでみたら思いのほか響き合うものがあった。

 

死を与える (ちくま学芸文庫)

死を与える (ちくま学芸文庫)

  • 作者:J・デリダ
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2004/12/09
  • メディア: 文庫
 

 死と恩寵を結びつけて考えるところから連想した本。「死を与える」とは、聖書のイサク説話からきている。

 

2019年は休む年だった

2019年は、休む年だった。

ここ数年ほどなにかに取り憑かれていたらしく、人生にいろいろ詰めこみすぎて、動き続けていた。刺激的で楽しかったけれど、やはり無理がきていたのだろう。2018年12月にふつりとなにもしたくなくなった。メールを見るのに1か月かかったり、飲み会を設定するのに2か月かかったり、原稿を書くのに3か月かかるようになった。これはまずいと思って、いろいろ放り投げた。子供の世話以外は、全部やめるか一部やめるかした。

仕事の量を3分の1ぐらいに減らして、やらないと人生が回らないことだけ残したら、ここ数年でいちばん暇になった。いつもだったら、暇があればすぐいろいろ始めたがるけれど、新しいことをする気力がなかった。バッテリーセーブモード。あと15分で電源が切れます。そんな感じ。

しばらく寝落ちをくりかえす日々が続いた。それでも根がホリック気質で、なにかをしたがってしょうがないので、少ない体力ゲージでできること、慣れていて好きなことだけを選んだ。そうしたら、海外文学を読んで、読書ブログを書いていた。まあこうなるね、と思う。この飽き性の私が、10年以上続けているものなんて、ごはんと旅行と読書と書くことぐらいしかない。

そんなわけで、2019年はひさびさに小説を読んで、ブログを書いた。安定的に書けていたわけではない。これまでは読んだら書くサイクルで動いていたのに、読んでも書けない日が断続的に続いた。書けない時は諦めて、読むだけ読んで、書けそうな時にまとめて書いた。だから2019年前半は、たくさん書いている月と、ほとんど書いていない月が交互にある。半年ぐらい休んでいればどうにかなるかと思っていたけれど、気力が戻ってきたのは10月くらいからで、ようやく記事数がでこぼこしなくなった。

2019年にわかったのは、読んで書くことは、食べること、寝ること、歩くことと同じぐらい、私にとってバランスを保つために必要だということとだ。人生が低空飛行になって、だいたいのものを捨ててもなおこれらは残る。小説以外の本は読んでいたから大丈夫だろうと思っていたけれど、そうでもなかった。ここ数年は栄養不足や睡眠不足と同じぐらい、私にとっては不養生なことだったのだろう。自分のことがわかっていないと無理がくる。

まる1年休んでだいぶやる気が出てきたので、2020年はもうすこしいろいろ活動を戻したい。いきなり広げると、また人生を骨折するからほどほどに。

 

2019年に読書関連でやったこと

低空飛行ながらにできたこと。

Scrapboxで読書Wikiをつくった

2月、ウィリアム・ギャディス『JR』読書会のために、Scrapboxで読書Wikiをつくった。登場人物100人以上、900ページ、声だけで描かれる狂気の小説を読むには、手書きのメモではもはや追いつかないと思ったので始めてみた。Scrapboxはポストモダン小説と相性がいいとわかったので、『重力の虹』でもつくったら、ものすごく楽しめた。

ガイブン読書会・鈍器部を始めた

たぶん飲み会かなにかで「『重力の虹』読書会をやってくれ」と言われたので、酔っぱらいのノリで5月に『重力の虹』読書会を主催した。どうせならなにか楽しい名前をつけようと思って、ウィリアム・ギャディス『JR』から「鈍器」(500ページ以上の小説)が続いたので、鈍器部にした。

由来はこんなふうに適当だけど、鈍器小説は読書会向きだと思う。長いからつい後回しにしがちだし、長いから多様な切り口があるし、人によって見えるものが変わりやすい。あとは「高い本を買う理由になる」とも言われた。たしかに。

 

たくさん読書会に参加した

今年はおそらく人生でもっとも読書会に参加した年だった。

  • ウィリアム・ギャディス『JR』
  • トマス・ピンチョン『重力の虹』
  • ウラジミール・ナボコフ『淡い焔』
  • エドゥアール・グリッサン『レザルド川』
  • フラナリー・オコナー『フラナリー・オコナー全短篇』

読書会は8年ぐらい前から参加しているものの、読書会そのものには年に1回ぐらい参加するだけで、もっぱら飲み会勢だった。今年はじめてまともに参加した。定期的に参加したり開催している人はすごい。

ブログの名前を変えた

4月にブログの名前を変えた。ブログを始めて11年になったし、前の名前は長いし、「ボヘミアの海岸線」という単語を使いたかった。いま思えば、だらりと休んでいろいろ変えたい気持ちがあったのだろう。 

海外文学以外の感想を書いた 

ブログの名前を変えたので、ついでに書く感想の幅をちょっとだけ広げてみた。これまでは、書く冊数が増えると締切が重くなることがいやで、海外文学の感想だけを書くように絞っていた。とはいえ、もともと記憶力が持たない私が子育てによりいろいろ忘れるようになったので、海外文学と海外文学に関係ありそうな本だけ、ブログに残しておくことにした。

ブログを常時SSL(https)化した

暇になったのでこれまでやれなかったことをやろうと思い、ようやっとSSL化した。SSL化すると一時的にGoogleランクが下がる。PVが半分ほどに下がり、検索にインデックスされない記事がたくさんあった。Google Search Consoleであれこれしつつ放っておいたら、半年ぐらい経ったところで数日でPVが戻っていった。今は前と同じに戻っている。

 

読書以外の活動をほぼ休止していたので、読書活動はそれなりにできた。来年はかどうなるわからないので、目標は立てないでおくつもり。

『フラナリー・オコナー全短篇』フラナリー・オコナー |目の中の丸太を叩き落とす、劇的な一瞬

「なにを言うの! 田舎の善人は地の塩です! それに、人間のやりかたは人それぞれなのよ。いろんな人がいて、それで世の中が動いてゆくんです。それが人生というものよ!」

「そのとおりですね。」

「でも、世の中には善人が少なすぎるんですよ!」

ーーフラナリー・オコナー「田舎の善人」

 

2019年は、前半に「重力」と言い続けて、後半は「恩寵」と言い続けた年だったように思う。飲み会では「タイムラインが恩寵だらけになった」「『重力と恩寵』はふくろうの妄想だと思っていたら、実在する本だったので驚いている」と言われた。このような恩寵モードになったのは、『フラナリー・オコナー全短篇』を読んだからだ。

恩寵とは、人間に与えられる神の慈愛、神の恵みのことで、熱心なキリスト教徒であるオコナーは「恩寵の瞬間を描く作家」と言われている。だが、オコナーが描く恩寵は、恵みや慈愛といったあたたかいイメージとはほど遠く、血と暴力、死に満ちている。

この落差が衝撃的だったので私はオコナーの恩寵をずっと考え続けていて、恩寵恩寵と鳴く鳥になり果てた。

フラナリー・オコナー全短篇〈上〉 (ちくま文庫)

フラナリー・オコナー全短篇〈上〉 (ちくま文庫)

 
フラナリー・オコナー全短篇〈下〉 (ちくま文庫)

フラナリー・オコナー全短篇〈下〉 (ちくま文庫)

 

 

オコナー作品を読むことは、オコナー的恩寵の一撃を受け続ける巡礼のようなものだ。

本書を読み始めた読者は巻頭「善人はなかなかいない」でさっそく恩寵洗礼を受ける。「善人はなかなかいない」は、アメリカ南部に住む一家が「はみだし者」と呼ばれるならず者と出会う話だ。この短編では、すべてのプロットが最後の2ページに収斂する。登場人物は、空が落ちるような強烈な変化を経て、結末へと突進していく。

読み終わった時、風邪をひいていた私は呆然として(おそらく多くの人がこうなるだろう)、この結末以外はありえない、いやこれ以外の結末もできたのでは、やはりこの結末以外なかっただろう、とぐるぐる考えて、具合が悪くなった。それでも次の作品を読みたくてページをめくり続けた。

 

いくつか作品を読むと、オコナーの短編はどれも「自分に疑問を抱かない登場人物が、価値観を揺さぶる衝撃を受けて、見える世界が変わる」一瞬を描き続けていると気づく。

 登場人物の多くが、自分がのことを善人で、よいキリスト教徒だと信じている。しかし、その言動には自己弁護や正当化、差別や支配欲がひそむ。

「私は本当につつましい」と言いながら「黒人や貧乏白人なんかに絶対になりたくない」と考えたり、「人を助けることが生きがい」と言いながら子供の心を認めずに支配しようとしたりする。彼らは、悪人と呼ぶような罪を犯しているわけではないが、聖書風に言えば「目の中に丸太が入っている人」たちだ。

夜眠れないとき、ミセス・ターピンはこんなことを考える。もしも自分がいまの自分でいられないとしたら、どういう人になるのを選ぶだろうか。イエスがこういう自分をおつくりになる前に、「二つの中から選ぶしかないのだよ。黒いやつか、貧乏白人か、どっちにする?」と言われたとしよう。 私はどうするか? 「どうぞイエスさま、お願いですから、別の空きができるまで待たせてくださいまし」

ーー「啓示」

「なんだ、あれは。」ジョンソンはかすれた声で言った。「おまえ、あんなの我慢できるのか?」顔が怒りでひきつっている。「あいつ、自分のことをイエス・キリストだと思ってやがる!」 

ーー「障害者優先」

自分のことが正しいと思っている人たちが向かう道は3つある。ひとつは、内省により自己を見つめて、みずからの意思で変わろうとする道。ひとつは、これまでの価値観を変えざるを得ない衝撃的な出来事が起きて、変わらざるをえない道。そして最後は、そのまま気づかず変わらずに生きて死ぬ道。

著者はこの3つのうち「衝撃的な出来事が起きて変わらざるをえない道」を登場人物たちに提示する。聖書の文脈においては、衝撃的な出来事は、イエス・キリストとの出会い、神や天使の降臨、奇跡だろう。オコナーは、キリストや奇跡の代わりに、暴力、犯罪者、詐欺、差別、死によって、衝撃をもたらす。

まるで、目の中に入った巨大な丸太を取るには、丸太が落ちるような強烈な衝撃を与えなければならない、とでもいうかのように、著者は容赦なく、鮮烈に、劇的な一瞬を書き続ける。

登場人物はその衝撃によって、違う世界線にたどりつく。その描写はときに天使が降りてきた啓示、あるいはエル・グレコの宗教画のようで、異世界めいた色彩と光に満ちている。

森と空の境界線は、世界にぱっくりあいた暗い傷口のようだった。ミセス・メイ自身の表情もかわっていた。いままで見えなかった人が急に視覚を取り戻したものの、まぶしさに耐えられないでいる。そういう顔だった。ーー「グリーンリーフ」

 ミスタ・ヘッドはとても静かに立ち、神の憐れみがもう一度自分にふれるのを感じていた。…人間が死ぬとき、作り主なる神のもとへ持ってゆけるのは、神から与えられた哀れみがすべてなのだ。

ミスタ・ヘッドはそのことを理解し、突然、自分が持ってゆけるもののわずかさを自覚して、はずかしさで体がかっと熱くなった。…これまで自分が大罪を犯した罪人だと思ったことはなかった。だが、こういうほんとうの堕落でありながら、しかも堕落した当人が絶望に陥らないように、これまでかくされていたのだとわかった。…神の愛は、神の許しに釣り合うほど大きいのだから、自分はこの瞬間、天国に入れるようになったのだ。

ーー「人造黒人」 

なんと暴力的な啓示だろう。これを著者は恩寵と呼ぶのだろうか? 丸太が目から叩き落されて目のくもりがとれた人は、天国に近づくからだろうか? キリストや奇跡がもたらす啓示を、暴力でもたらすことを、キリスト教徒としての彼女は受け入れるのだろうか?

そしてオコナーは、人間をあまり好きではないし、知性を信用していなかったように思える。人は、衝撃的な事件だけではなく、内省や対話にだって変わりうるが、オコナーは外部からの衝撃にこだわる。だが、対話の道を選んだら、きっとこんな劇薬みたいな短編はうまれなかっただろう。

 

 こうして思い返してみると、私が恩寵恩寵と言い続けていたのは、オコナーが好きで同意しているというよりは、彼女がもたらす心のざわめきを言葉にしたくて考え続けていたからなのだろう。だとするなら、オコナーはやはり最高の短編作家である。これだけ人間と作品について考えさせる手腕は、まちがいなくすさまじいものなのだから。

 

 収録作品

気に入った作品には*。

上巻

  • 善人はなかなかいない**
  • 河***
  • 生きのこるために
  • 不意打ちの幸運
  • 聖霊のやどる宮
  • 人造黒人***
  • 火の中の輪*
  • 旧敵との出逢い
  • 田舎の善人***
  • 強制追放者**
  • ゼラニウム*
  • 床屋
  • オオヤマネコ
  • 収穫
  • 七面鳥
  • 列車 

下巻

  • すべて上昇するものは一点に集まる**
  • グリーンリーフ**
  • 森の景色**
  • 長引く悪寒**
  • 家庭のやすらぎ
  • 障害者優先***
  • 啓示*
  • パーカーの背中*
  • よみがえりの日
  • パートリッジ祭**
  • なにゆえ国々は騒ぎ立つ 

読書会まとめ

恩寵鳥になる原因となった読書会。短編小説の読書会に参加したのははじめてだったが、意見がたくさん出て大変おもしろかった。皆が好きな短編がいい感じにばらけつつ、人気の作品もあった。私はだいたい好き(印象的)だったので、だいたいに手を挙げたので反省している。

『重力の虹』トマス・ピンチョン|重力を切り裂いて、叫べロケット

この上昇は<重力>に知られるだろう。だがロケットのエンジンは、脱出を約束し、魂を軋らせる、深みからの燃焼の叫びだ。生贄は、落下に縛り付けられて履いても、脱出の約束に、予言に、のっとって昇っていく…… 

ーートマス・ピンチョン『重力の虹』 

 

これまでの人生で、読書会を開催したのは2回だけ。1回目は2015年『重力の虹』読書会、2回めは2019年『重力の虹』読書会だ。来年からは「ガイブン読書会・鈍器部」として『重力の虹』以外の読書会もやるつもりだが、きっと『重力の虹』読書会はまた開催するだろう。『重力の虹』は、こんなふうに私をパラノイア的に熱狂させる。 

トマス・ピンチョン 全小説 重力の虹[上] (Thomas Pynchon Complete Collection)

トマス・ピンチョン 全小説 重力の虹[上] (Thomas Pynchon Complete Collection)

 
トマス・ピンチョン全小説 重力の虹[下] (Thomas Pynchon Complete Collection)

トマス・ピンチョン全小説 重力の虹[下] (Thomas Pynchon Complete Collection)

 

 

「一筋の叫びが空を裂いて飛んでくる」という一文で始まる本書は、ロケットに始まりロケットに終わる、「ロケット技術」をめぐる巨大なパラノイア小説だ。

ナチス・ドイツが開発した軍事ロケット「V2ロケット」、および「ロケットマン」ことスロースロップ大尉をめぐって、膨大な登場人物と国と組織が、権謀術数とパラノイア妄想を爆発させてヨーロッパ大陸を跋扈する。

 

ロケット技術といえば、アメリカのアポロや、ソ連のスプートニクを思い出す人が多いだろうが、これら大国のロケット技術は、第二次世界大戦のナチス・ドイツが開発したV2ロケット技術を転用したものだ。

当時のナチス・ドイツのロケット技術は世界でも進んでいた。脅威を感じた連合国はドイツを爆撃と戦闘で追い詰めつつ、技術を略奪するためにドイツ人技術者たちを奪い合い、自国の軍事開発と宇宙開発に利用しようとする。これら狂乱の歴史事実を舞台に、ピンチョンは1499ページ、登場人物400人以上をつかって、巨大なパラノイドの虚構世界を組み上げる。

 

だが、この巨大な歴史のうねりは、最初はなにもわからない。なぜならピンチョンの小説はどいつもこいつも圧倒的情報過多、ノイズと事実と狂気と正気とユーモアとえぐさが、無秩序に、圧倒的質量をともなって、散弾銃のように読者を撃ち抜いてくるからだ。

「V2ロケットをめぐる戦勝国の技術略奪」というヘビー級歴史書ばりの事実を追いかけるだけでも苦労するのに、「勃起した場所にV2ロケットが落ちてくる」スロースロップ、スロースロップを追いかける軍部と秘密組織、陰謀、監視、出生の秘密、美女の誘惑、逃走、変装、美少女の誘惑、また逃走……といったスラップスティックなどたばたコメディが、哄笑しながら大挙してくる。

さらに、登場人物たちの関係性は、高度に政治的である。登場する国はアメリカ、ドイツ、ソ連、イギリス、さらに各国ごとに、軍部、巨大企業、秘密結社、対向勢力といった組織があり、対立したり協力したり裏切ったりしている。

とてもではないが、正気で読める小説ではない。私は今回、ScrapboxでWikiを作って「章リスト」「人物リスト」「組織リスト」「企業リスト」「場所リスト」「技術リスト」と分類した。正気と時間を供物にして、ようやく登場人物や組織の関係性が見えてきた。この小説、どう控えめに考えても狂っている。


『重力の虹』の構成と文体はまちがいなく狂っているが、書いてあることはだいぶ正気だ。本書に登場する組織や軍部、巨大企業の多くが実在しているし、利害関係もだいたい事実に基づいている(佐藤氏の注釈は本当にすごい)。

勃起人間スロースロップのような非現実の存在がうろうろしているために目くらましされがちだが、ピンチョンはかなり冷静に、世界大戦時の狂乱を観察している。

ヨーロッパ人が発明したヒストリーの観念は、戦後の時代に両陣営対立の構図が現れるという期待感を植えつけてやまない。だが、事実進行しているのは勝者の側も敗者の側もニコニコ顔でそこにある分け前を分かち合うという巨大なカルテルの動きだけかもしれないのだ。

 本書を読み進めると、戦争によって儲けまくる巨大グローバル企業、企業と政府の癒着が見えてくる。連合国も枢軸国も関係なく「かれら=権力を持つ者」たちはニコニコ分け前を分け合って、表では「敵を殲滅せよ」「人道のため」と叫びながら人々の命と人生をすりつぶし、懐がうるおうのを心待ちにしている。

 最大の利点は、大量死が一般人への、そこらの人たちへの刺激になって、まだ生きてそれらを貪れるうちに<パイ>のひと切れをつかみ取ろうという行動に走らせるところ。市場の祝祭、これが戦争のほんとうの姿なのだ。

 

『重力の虹』の世界は、ばかばかしく振り切れた明るい喜劇と、人を人と思わないおぞましい搾取構造による悲劇が同居している。読者は、制御が切れた振り子アトラクションに乗っているかのように、爆笑できる喜劇と陰鬱な悲劇の両極を、高速で移動し続ける。

だから、すごく笑えるのに、すごく悲しい。家族や恋人や国を愛する個人を、他者を使い潰して利益を得ようとする「かれら=持てる者たち」が貪欲に食らっていく。

ピンチョンはかなりペシミスティックかつ現実的に「強大な権力、制御システム」のおぞましさを暴き、「弱い個人」が飲みこまれる様子を容赦なく描くが、それでも絶望の底にはいたらない。

弱い者たちはカウンターフォース(抵抗勢力)となって、重力のようにのしかかる抑圧と制御に抗う。弱々しくなっても消えはしない抵抗の心が、ひそかに満ちている。電球バイロン(読んだ人全員が好きになる電球)とカズーのエピソードはすばらしかった。

何を言うんだ、全然違うぞ、これは捕らえられ抑圧された全電球に対する、カズーからの愛に満ちた共闘宣言なんだ…。 

  

ロケットは叫ぶ。叫びは、音速を超える速度による轟音、ロケット墜落により命を失った人たちの嘆き、勃起して果てる絶頂の呻き、利益のために人生と命をすりつぶされた人たちの絶叫となり、墜落し、解体され、世界に散らばっていく。

解体されたV2ロケットはもう誰の目にも見えないが、V2ロケットは消えたわけではない。アポロに、スプートニクに、人工衛星に、無人探査機になって、今も私たちの上空をただよっている。その証拠に、エピグラフに掲げられた、ロケット開発の父フォン・ブラウンの言葉を読むとよい。

"自然は消滅を知らず、変換を続けるのみ。過去・現在を通じて、科学が私に教えてくれるすべてのことは、霊的な生が死後も継続するという考えを強めるばかりである"

ーーヴェルナー・フォン・ブラウン

私は2回目に読むときにこのエピグラフの意味に気がついて悶絶した。エピグラフでここまで悶絶した経験ははじめてだったので、じゃっかん自分に引いた。科学者にしてはロマンティックにすぎると思われたこの言葉は、読了後には納得と慰めを与えてくれる。

勃起し、墜落し、大気圏に向かって上昇していったロケットとロケットマンを忘れそうになったら、きっとまた読書会を開くだろう。文句なしに人生ベストのうちの1冊。

この上昇は<重力>に知られるだろう。だがロケットのエンジンは、脱出を約束し、魂を軋らせる、深みからの燃焼の叫びだ。生贄は、落下に縛り付けられてはいても、脱出の約束に、予言に、のっとって昇っていく…… 

 

『重力の虹』読書Wiki

読みながら参照するためのWiki(あらすじは記載なし)。「章リスト」「人物リスト」「組織リスト」「企業リスト」「場所リスト」「技術リスト」に分類していったら、政治的な利害関係がだいぶ整理できて人生がはかどった。

 

トマス・ピンチョンの著作レビュー

 V2ロケットにまつわる歴史の事実

『重力の虹』は、実在の企業や計画をもとにしている。知らないと混乱すると思われるので、重要な歴史事実のみまとめる。

V2ロケット

ナチス・ドイツが開発していたロケット。当時の世界で、制御ができるロケットを開発できたのはドイツだけだった。ドイツ・ノルトハウゼンの地下工場で製造され、のちにペーネミュンデで開発。V2ロケットは第二次世界大戦時、ペーネミュンデ(ドイツ)から海峡を越えてロンドンを爆撃した。アメリカ、イギリス、ソ連が狙う。

ヘルメス計画

アメリカのロケット開発計画。1944〜1954年にかけて開発。米国軍は、ニュー・メキシコ州の砂漠へ、100機のドイツロケットを持ち去った。主契約者はゼネラル・エレクトリック。ヘルメス計画で開発されたロケットは、V2ロケットの基幹システムが使われた。 

ペーパークリップ作戦

アメリカ軍部が、ドイツの科学者をアメリカに連れていく作戦名。

IGファルベン

ドイツの巨大企業。第二次世界大戦当時、有機化学産業における世界最大のコンツェルン。ナチスの御用企業かつ、アメリカのデュポン社、イギリスのインペリアル・ケミカル・インダストリーズ社とも協業関係にあった(枢軸国企業だが連合国とつながっていた)。戦争後は解体されたが、形を変えて生き延びる。

ヴェルナー・フォン・ブラウン

ロケット開発の父と呼ばれるドイツ人。ナチス政権下でV2ロケット開発の最高責任者として従事。戦後はアメリカNASAでロケット開発に従事。アポロ計画に携わる。

ペーネミュンデ

ドイツ北部の沿岸にある町。第二次世界大戦中、ナチス・ドイツ軍がV2ロケット開発を行い、ロンドンへの爆撃もここから行った。ヴェルナー・フォン・ブラウンが最高責任者。

ヘレロ族の虐殺

1903年から1907年にかけて、西アフリカに住む先住民族ヘレロ族にたいして、ドイツ人が虐殺をした。20世紀最初のジェノサイドと呼ばれている。第二次世界大戦におけるドイツ人のユダヤ人虐殺を連想させる。

 

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読書会の時期は「重力」としかつぶやいていなかった。