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『重力の虹』トマス・ピンチョン|重力を切り裂いて、叫べロケット

この上昇は<重力>に知られるだろう。だがロケットのエンジンは、脱出を約束し、魂を軋らせる、深みからの燃焼の叫びだ。生贄は、落下に縛り付けられて履いても、脱出の約束に、予言に、のっとって昇っていく…… 

ーートマス・ピンチョン『重力の虹』 

 

これまでの人生で、読書会を開催したのは2回だけ。1回目は2015年『重力の虹』読書会、2回めは2019年『重力の虹』読書会だ。来年からは「ガイブン読書会・鈍器部」として『重力の虹』以外の読書会もやるつもりだが、きっと『重力の虹』読書会はまた開催するだろう。『重力の虹』は、こんなふうに私をパラノイア的に熱狂させる。 

トマス・ピンチョン 全小説 重力の虹[上] (Thomas Pynchon Complete Collection)

トマス・ピンチョン 全小説 重力の虹[上] (Thomas Pynchon Complete Collection)

 
トマス・ピンチョン全小説 重力の虹[下] (Thomas Pynchon Complete Collection)

トマス・ピンチョン全小説 重力の虹[下] (Thomas Pynchon Complete Collection)

 

 

「一筋の叫びが空を裂いて飛んでくる」という一文で始まる本書は、ロケットに始まりロケットに終わる、「ロケット技術」をめぐる巨大なパラノイア小説だ。

ナチス・ドイツが開発した軍事ロケット「V2ロケット」、および「ロケットマン」ことスロースロップ大尉をめぐって、膨大な登場人物と国と組織が、権謀術数とパラノイア妄想を爆発させてヨーロッパ大陸を跋扈する。

 

ロケット技術といえば、アメリカのアポロや、ソ連のスプートニクを思い出す人が多いだろうが、これら大国のロケット技術は、第二次世界大戦のナチス・ドイツが開発したV2ロケット技術を転用したものだ。

当時のナチス・ドイツのロケット技術は世界でも進んでいた。脅威を感じた連合国はドイツを爆撃と戦闘で追い詰めつつ、技術を略奪するためにドイツ人技術者たちを奪い合い、自国の軍事開発と宇宙開発に利用しようとする。これら狂乱の歴史事実を舞台に、ピンチョンは1499ページ、登場人物400人以上をつかって、巨大なパラノイドの虚構世界を組み上げる。

 

だが、この巨大な歴史のうねりは、最初はなにもわからない。なぜならピンチョンの小説はどいつもこいつも圧倒的情報過多、ノイズと事実と狂気と正気とユーモアとえぐさが、無秩序に、圧倒的質量をともなって、散弾銃のように読者を撃ち抜いてくるからだ。

「V2ロケットをめぐる戦勝国の技術略奪」というヘビー級歴史書ばりの事実を追いかけるだけでも苦労するのに、「勃起した場所にV2ロケットが落ちてくる」スロースロップ、スロースロップを追いかける軍部と秘密組織、陰謀、監視、出生の秘密、美女の誘惑、逃走、変装、美少女の誘惑、また逃走……といったスラップスティックなどたばたコメディが、哄笑しながら大挙してくる。

さらに、登場人物たちの関係性は、高度に政治的である。登場する国はアメリカ、ドイツ、ソ連、イギリス、さらに各国ごとに、軍部、巨大企業、秘密結社、対向勢力といった組織があり、対立したり協力したり裏切ったりしている。

とてもではないが、正気で読める小説ではない。私は今回、ScrapboxでWikiを作って「章リスト」「人物リスト」「組織リスト」「企業リスト」「場所リスト」「技術リスト」と分類した。正気と時間を供物にして、ようやく登場人物や組織の関係性が見えてきた。この小説、どう控えめに考えても狂っている。


『重力の虹』の構成と文体はまちがいなく狂っているが、書いてあることはだいぶ正気だ。本書に登場する組織や軍部、巨大企業の多くが実在しているし、利害関係もだいたい事実に基づいている(佐藤氏の注釈は本当にすごい)。

勃起人間スロースロップのような非現実の存在がうろうろしているために目くらましされがちだが、ピンチョンはかなり冷静に、世界大戦時の狂乱を観察している。

ヨーロッパ人が発明したヒストリーの観念は、戦後の時代に両陣営対立の構図が現れるという期待感を植えつけてやまない。だが、事実進行しているのは勝者の側も敗者の側もニコニコ顔でそこにある分け前を分かち合うという巨大なカルテルの動きだけかもしれないのだ。

 本書を読み進めると、戦争によって儲けまくる巨大グローバル企業、企業と政府の癒着が見えてくる。連合国も枢軸国も関係なく「かれら=権力を持つ者」たちはニコニコ分け前を分け合って、表では「敵を殲滅せよ」「人道のため」と叫びながら人々の命と人生をすりつぶし、懐がうるおうのを心待ちにしている。

 最大の利点は、大量死が一般人への、そこらの人たちへの刺激になって、まだ生きてそれらを貪れるうちに<パイ>のひと切れをつかみ取ろうという行動に走らせるところ。市場の祝祭、これが戦争のほんとうの姿なのだ。

 

『重力の虹』の世界は、ばかばかしく振り切れた明るい喜劇と、人を人と思わないおぞましい搾取構造による悲劇が同居している。読者は、制御が切れた振り子アトラクションに乗っているかのように、爆笑できる喜劇と陰鬱な悲劇の両極を、高速で移動し続ける。

だから、すごく笑えるのに、すごく悲しい。家族や恋人や国を愛する個人を、他者を使い潰して利益を得ようとする「かれら=持てる者たち」が貪欲に食らっていく。

ピンチョンはかなりペシミスティックかつ現実的に「強大な権力、制御システム」のおぞましさを暴き、「弱い個人」が飲みこまれる様子を容赦なく描くが、それでも絶望の底にはいたらない。

弱い者たちはカウンターフォース(抵抗勢力)となって、重力のようにのしかかる抑圧と制御に抗う。弱々しくなっても消えはしない抵抗の心が、ひそかに満ちている。電球バイロン(読んだ人全員が好きになる電球)とカズーのエピソードはすばらしかった。

何を言うんだ、全然違うぞ、これは捕らえられ抑圧された全電球に対する、カズーからの愛に満ちた共闘宣言なんだ…。 

  

ロケットは叫ぶ。叫びは、音速を超える速度による轟音、ロケット墜落により命を失った人たちの嘆き、勃起して果てる絶頂の呻き、利益のために人生と命をすりつぶされた人たちの絶叫となり、墜落し、解体され、世界に散らばっていく。

解体されたV2ロケットはもう誰の目にも見えないが、V2ロケットは消えたわけではない。アポロに、スプートニクに、人工衛星に、無人探査機になって、今も私たちの上空をただよっている。その証拠に、エピグラフに掲げられた、ロケット開発の父フォン・ブラウンの言葉を読むとよい。

"自然は消滅を知らず、変換を続けるのみ。過去・現在を通じて、科学が私に教えてくれるすべてのことは、霊的な生が死後も継続するという考えを強めるばかりである"

ーーヴェルナー・フォン・ブラウン

私は2回目に読むときにこのエピグラフの意味に気がついて悶絶した。エピグラフでここまで悶絶した経験ははじめてだったので、じゃっかん自分に引いた。科学者にしてはロマンティックにすぎると思われたこの言葉は、読了後には納得と慰めを与えてくれる。

勃起し、墜落し、大気圏に向かって上昇していったロケットとロケットマンを忘れそうになったら、きっとまた読書会を開くだろう。文句なしに人生ベストのうちの1冊。

この上昇は<重力>に知られるだろう。だがロケットのエンジンは、脱出を約束し、魂を軋らせる、深みからの燃焼の叫びだ。生贄は、落下に縛り付けられてはいても、脱出の約束に、予言に、のっとって昇っていく…… 

 

『重力の虹』読書Wiki

読みながら参照するためのWiki(あらすじは記載なし)。「章リスト」「人物リスト」「組織リスト」「企業リスト」「場所リスト」「技術リスト」に分類していったら、政治的な利害関係がだいぶ整理できて人生がはかどった。

 

トマス・ピンチョンの著作レビュー

 V2ロケットにまつわる歴史の事実

『重力の虹』は、実在の企業や計画をもとにしている。知らないと混乱すると思われるので、重要な歴史事実のみまとめる。

V2ロケット

ナチス・ドイツが開発していたロケット。当時の世界で、制御ができるロケットを開発できたのはドイツだけだった。ドイツ・ノルトハウゼンの地下工場で製造され、のちにペーネミュンデで開発。V2ロケットは第二次世界大戦時、ペーネミュンデ(ドイツ)から海峡を越えてロンドンを爆撃した。アメリカ、イギリス、ソ連が狙う。

ヘルメス計画

アメリカのロケット開発計画。1944〜1954年にかけて開発。米国軍は、ニュー・メキシコ州の砂漠へ、100機のドイツロケットを持ち去った。主契約者はゼネラル・エレクトリック。ヘルメス計画で開発されたロケットは、V2ロケットの基幹システムが使われた。 

ペーパークリップ作戦

アメリカ軍部が、ドイツの科学者をアメリカに連れていく作戦名。

IGファルベン

ドイツの巨大企業。第二次世界大戦当時、有機化学産業における世界最大のコンツェルン。ナチスの御用企業かつ、アメリカのデュポン社、イギリスのインペリアル・ケミカル・インダストリーズ社とも協業関係にあった(枢軸国企業だが連合国とつながっていた)。戦争後は解体されたが、形を変えて生き延びる。

ヴェルナー・フォン・ブラウン

ロケット開発の父と呼ばれるドイツ人。ナチス政権下でV2ロケット開発の最高責任者として従事。戦後はアメリカNASAでロケット開発に従事。アポロ計画に携わる。

ペーネミュンデ

ドイツ北部の沿岸にある町。第二次世界大戦中、ナチス・ドイツ軍がV2ロケット開発を行い、ロンドンへの爆撃もここから行った。ヴェルナー・フォン・ブラウンが最高責任者。

ヘレロ族の虐殺

1903年から1907年にかけて、西アフリカに住む先住民族ヘレロ族にたいして、ドイツ人が虐殺をした。20世紀最初のジェノサイドと呼ばれている。第二次世界大戦におけるドイツ人のユダヤ人虐殺を連想させる。

 

読書会のTwitter

読書会の時期は「重力」としかつぶやいていなかった。