キリキリソテーにうってつけの日

海外文学中心の読書録。水を飲むように本を読む。

『崩れゆく絆』チヌア・アチェベ

[弱さを認めぬ弱さ]
Chinnua Achebe. Things Fall Apart.

崩れゆく絆 (光文社古典新訳文庫)

崩れゆく絆 (光文社古典新訳文庫)

崩れゆく絆―アフリカの悲劇的叙事詩 (1977年) (チヌア・アチェベの世界〈1〉)

崩れゆく絆―アフリカの悲劇的叙事詩 (1977年) (チヌア・アチェベの世界〈1〉)

「白人ときたら、まったくずる賢いやつらだよ。宗教をひっさげて、静かに、平和的にやって来た。われわれはあのまぬけっぷりを見ておもしろがり、ここにいるのを許可してやった。しかしいまじゃ、同胞をかっさらわれ、もはやひとつに結束できない。白人はわれわれを固く結びつけていたものにナイフを入れ、一族はばらばらになってしまった」

 
 瓦解する。支柱が折れて崩壊していく教会のまんなかで、降りそそぐ瓦礫の雨を2本の腕で支えようとした男がいた。

 時は19世紀、植民地支配前夜のナイジェリア。オコンクウォは、架空のアフリカ部族社会“ウムオフィア”(アチェベの出身地ナイジェリアの最大部族、イボ族の習慣をもとにしている)で最強の戦士として認められていた。稼ぐことも戦うこともできず、音楽を愛して借金まみれで死んだ父のようになることを病的に恐れ、父が愛したもの、音楽や感情、優しさを、軟弱で女々しいものとして、ことごとく憎んだ。

 そのため、オコンクウォはふりきれてマチズムに走った。相撲で一番になることを誇りにし、納屋をヤムイモでいっぱいにするために幼いころから畑を切り開き、働いた。一方で妻にためらいなく暴力をふるい、男らしくないものについては、周囲の者がたしなめるほど強烈に罵倒して蔑んだ。

 いささか戯画的にすぎるこのいけすかない男は、しかしウムオフィアにおける社会ルールの中では高い地位を得ていた。彼らの一族においては、肉体的に強く、ヤムイモを貯蓄できる男が認められる。だが、キリスト教と白人の来訪により、ルールはもはや後戻りが不可能なまでに、決定的に変わってしまった。

 オコンクウォは悲嘆にくれた。単なる個人の悲しみなどではない。いままさに目の前で崩れゆき、ばらばらに壊れつつある一族を思って嘆いた。そして、かつての倦むオフィアの戦闘的な男たちを思って嘆いたーー男たちは、まったく不可解なほど、女々しく軟弱になってしまったのだ。

 「ただ若い衆のことが気がかりなのだよ。お前たちは親族の絆がどれほど強いかわかっとらん。声をひとつにして話すとはどういうことかわかっとらんのだ。それでどうなったか。忌まわしい宗教が入り込んできたではないか。いまじゃ、父も兄弟も平気で見捨てられてしまう。父祖の神々やご先祖を呪うことさえできる。まるで、猟犬が突然狂いだして、主人に食ってかかっているみたいではないか。お前たちが心配だ。一族が心配でならん」


 前半に描かれるアフリカ部族社会は、幻のように光りかがいている。客を訪問するときのコーラの実、貝殻の貨幣、闇をなめる炎、悪霊が跋扈する深淵の森、仮面の精霊が集まる会議、村の鼓動すべてを統べる太鼓の音。すべてが懐かしく、美しい。

 太鼓はずっと同じ調子で鳴り響いていた。この音は村とは切っても切れないもの。まるで村の心臓が鼓動しているようだ。大気のなか、日の光のなか、木々のなかさえも脈打ち、村を熱気で包み込む。

 だからこそ、ウムオフィアの繁栄とその崩落とのコントラストは、強烈である。だがアチェベは、ヨーロッパの野蛮な人間たちに蹂躙された無垢な被害者であるという立場をとらず、「部族社会とそのルールの構造的な弱さ」が自壊をまねいた、という立場をとる。アチェベの親が熱心なキリスト教徒であり、アチェベはキリスト教文化と伝統文化のはざまにいたから、このような複雑な視点を持っているのかもしれない。

 
 男性的な強さを主軸にした男と社会を描いていながら、この物語の核は「弱さ」と「弱さゆえの崩落」にある。事実、原題 "Falling apart"(分解、崩壊)に、「絆」という単語はない。身体的、社会的に強いオコンクウォの堪えがたい精神的な弱さ、ウムオフィアという成熟した自治社会の、ルールに沿わないものを切り捨てていくことで運営していた構造的な弱さを、アチェベは指摘する。

 オコンクウォは、自分の弱さを他者に見られることを極端に恐れていた。自分が臆病だと思われることに我慢がならず、弱さを認めないことが男の誇りだと考え、震えを隠すために拳をふるった。だが、それこそが臆病だ。オコンクウォは弱さを認められない弱さゆえに、目に見える強さを盲目的なまでに信仰した。

 ウムオフィアもまた、構造的な弱さを抱えていた。ウムオフィアは力を持たない女や奴隷、弱い者を下敷きにして繁栄してきた。“弱き者のための宗教”キリスト教はこうした、社会ルールにおいて周縁におかれた弱い立場の人々、あるいは男性的な野蛮さに耐えられない人々に訴える。

 おのれの弱さを包容できない人と、多様性を包容しない社会には共通点がある。ひとつの価値観に重心を置き、その他を無視しようとする。

それは不満と崩壊の種を身中に抱えることと同義だ。視点の幅が狭いから、想定外の攻撃やルールの変更に耐えきれない。一方で、ウムオフィアとオコンクウォがたどった結末は異なっている。オコンクウォは弱くひとりであった、ただそれだけなのだけれども。

 わたしのまわりにも、弱さを悟られたくないために暴言を吐いて虚勢をはったり、他者を見下すことで優越感を得ようとする人々はいる。彼らは弱さとどう折り合いをつけられるのか。それとも崩壊からしか再生はうまれないのか。

 この物語は辛辣なまでにその原因を示しはするが、ラストはただ衝撃ばかりが残り、救いは見いだせない。自分をはぐくんだ文化への愛というよりはむしろ、自分が勝ち得てきたものを失うことの恐怖により、男は崩れゆく瓦礫の中に飛びこんだ。なんという後味の悪さ。愛ならば、まだよかった。
 

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Reference

ナイジェリア
f:id:owl_man:20140210051651p:plain:w250:left
http://en.wikipedia.org/wiki/File:Location_Nigeria_AU_Africa.svg
現在は石油産出国で稼ぐことができてしまうため、政府の腐敗がひどいことになっているらしい。

『ギリシア神話を知っていますか』阿刀田高

[この世界という不思議]

ギリシア神話を知っていますか (新潮文庫)

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ギリシア神話を知っていますか

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 ギリシア神話はどこかファム・ファタルめいている。いちど読み始めるとその深さにはまり、砂時計に入ったように抜け出せない。次から次へと知りたい物語が増え、この神はどの神と浮気をしたのか、親子関係はどうなっているのかが気になって家系図をたどり、神々の理不尽さと激情にうめき翻弄されながらも目を離せない。2009年以来、ぱったりと途絶えていたギリシア熱がこの春みごとにルネサンスして、つくづくとその底知れぬ引力に驚嘆する。

 ギリシア神話のうちで著名な、かつ理不尽な、情念と欲望が渦巻く物語を12編おさめる。おもしろいことに、各エッセイのタイトルとなった登場人物は、エロスとオイディプスを除いてはすべて女性である。ギリシア神話では、女性たちは神々の情念の的となり、望む望まないにかかわらず、嫉妬と性欲、恨みと殺意のるつぼの中に放り込まれる。だからその人生はより悲劇性を帯び、作家の心をつかむのかもしれない。とまれ、女性たちの話ばかりではなく、恋人となる神々や英雄の話もきちんと出てくるので、ギリシア神話の著名なエピソードをひととおり網羅している。作家らしく、ギリシア神話の影響を受けた小説や劇、映画などをまじえて紹介されているのもよい。

目次

  • トロイアカッサンドラ
  • 嘆きのアンドロマケ
  • 貞淑なアルクメネ
  • 恋はエロスの戯れ
  • オイディプスの血
  • 闇のエウリュディケ
  • アリアドネの糸
  • パンドラの壺
  • 狂恋のメディア
  • 幽愁のペネロペイア
  • 星空とアンドロメダ
  • 古代へのぬくもり

 
 カオス(混沌)からの世界創造からではなく、カッサンドラから始まることにはすこし驚くが、納得する。予言の力を与えられながら、誰もその予言を信じないという呪いに見舞われたトロイアの王女カッサンドラは、その劇的な矛盾から、クリスタ・ヴォルフ『カッサンドラ』をはじめ、多くの画家たちや作家たちの心を惹きつけてきた。家族の死や祖国の滅亡、みずからの死をも知りながら、声を上げても泣いても誰にも届かない。どのような心で彼女は生きたのかと、想像力をかきたてる(岩波文庫版のアイスキュロス『アガメムノーン』では「ぺぅー、ぺぅー」という衝撃的な泣き声をあげていたカッサンドラが記憶に残っている)。

 男も女も神々もそろいもそろって、欲望と情念のるつぼの中で踊り狂っている。踊り狂って煮詰められた結果、ありえない驚異的な幻想の数々が紡ぎ出される。夜這いをするために黄金の雨となって降り注ぐゼウス、絶えずぶつかって船を大破させる海中の大岩、美しさゆえに化け鯨のいけにえとなりかけた王女アンドロメダー、恋のために毒薬を駆使する毒薬系ヤンデレ王女メディア、人間のために火を盗んだゆえ生きながらに内蔵を鷲に食われ続けるプロメテウス。想像をやすやすと超えてくるこの原始の想像力に、わたしはいつも、いまだに驚かされ続けている。


 ギリシア神話の女性はおもに、浮気者の最高神ゼウスに言いよられ子供を生むか、嫉妬する神々(多くはゼウスの妻である女神ヘーラーによるものだが)のせいで大変な目にあうか、貞淑を守るか、みずからの嫉妬に狂うか、殺されるかのいずれかで、だいたいろくな目にあわない。男性も同様だ。オイディプスは「父を殺し母と交わる」という災厄の予言を授けられ、美少年アドニスは男神の嫉妬により突き殺され、トロイア戦争によって多くの英雄が死を遂げた。

 なんという不合理、なんという悲劇。なぜ、自分やあの人がこんな目にあわなければならないのか? なぜ、世界はこうも残酷なのか? なぜ、悲しみや憎しみなど、世界にはつらいことが満ちているのか? 

 神話は、人間が持つこれらの疑問に説明を与えようとする。人々が戦争し続けるのはゼウスが人間の数を減らそうとしているからであり、冬に作物が収穫できないのは農耕の女神が怒っているからであり、嫉妬や悪意が渦巻くのはゼウスの策略によってパンドラが壺の封印を開けたからだと。トロイア戦争は実際のところ、ふたつの都市国家間による10年戦争にすぎないのだが、そこにゼウスの人口減らし作戦、神々の嫉妬と愛による手助けと邪魔など、人間というチェス駒を動かすプレイヤーとしての神々を幻視して、宇宙スケールにまで拡大させた。


 心理学や医学、自然科学の答えを持ち合わせていなかった古代の人々にとって、自然現象のしくみ、人生のつらさや不条理、愛という病、戦争など、人間にとって不思議なことはすべて神話に結びつけられた。むしろ、人間にとって不思議でならないもの、ブラックボックスの中身が、神話として語られるのではないだろうか。戦争をやっている本人たちが、なぜ自分たちはこんなことをしているのかと、不思議でならなかったのかもしれない。

 近代以降、自然現象や宇宙のしくみは科学の手にわたったが、愛や嫉妬などの感情は21世紀になってもなお、神話の領域のままだ。だから、いまでも人間は物語と宗教を必要とする。謎と畏怖、そして好奇心、物語の源泉はここにあるのだと、神話や宗教の逸話を読んでいるとつくづく思い知る。わたしが本を読むのも同じ動機で、世界と人間が不思議でならないのだ。だから物語を知りたいし、人の話を聞いてその心をのぞいてみたいし、よくわからない世界へ足をつっこみ、そこで生まれる感情を記録しようとする。だからわたしは何度でも、原初の物語に立ち返るのかもしれない。


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逃れられない宿命と運命に翻弄される人間たちの物語。

『河岸忘日抄』堀江敏幸

[遭難の作法]
堀江敏幸『河岸忘日抄』、2001年。

河岸忘日抄 (新潮文庫)

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河岸忘日抄

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 ふと、彼は思う。自分は、まだ待機していたい。待っていたい。だが、なにを待つのか?


 霧の深い夜には、たいそう派手な失恋をして、なんの知らせもよこさずに遠い異国へふつりと消えた、気狂いの友人を思い出す。失踪した理由をのちに尋ねてみれば、「誰にも知られずに、ひとりで本を読みたかった」。なんだあの阿呆はと思いつつ、似たりよったりのことをしているのはわたしだった。

 知人と記憶を持たぬ土地でもう数か月、呆然とし続けている。ここ数年間、これだけはわたしにとって本物だと思っていたものを失い、そっと積み上げてきたトランプの塔は崩れ落ち、真っ白な原稿の瓦礫となった。こうなる予感はすでにあったのか、すでに手に入れていた切符を手に、背負えるだけの手荷物を抱えてここへ来た。どうして僕はこんなところに。あらゆる面倒な手続きをこなし、万難を排してこの地に臨みながら、いまなおこの問いへの答えが見つからない。

 おそらく世の中には、SOSも発さずに、異国や図書館で難破したくなる時期、あるいはそういう種類の人間がいる。友人やわたし、そして「彼」のように。

 記憶の中の情景に、レ点を打つ。

 「彼」は、フランスの河岸に繋留したボートに居を構え、日々を忘れるように、本を読み音楽を聞き、思考と言葉を流しつづける。「彼」は、かつてこの異国で勉学にはげんだことがあり、日本での仕事をやめて、かつて世話になった大家のもとへやってきた。

 「少し」働き過ぎたような気がすると再会した大家に挨拶したとき、ご老体はそれこそ「少し」きつい口調で、働き過ぎに「少し」だなんてことがあるものかと彼を難じた。だが彼は彼で、捨てるべきものは捨て、捨てきれないものは抱えたまま、その余計な「少し」を矯正するべく、こんな嵐のなかでたゆたえども沈まぬ船での暮らしをつづけてきたのだと考えている。

 勉学や仕事、そのほか一切のしがらみから解放され、ひとり気ままに本を読み、来客のためにクレープを焼き(クレープ!)、ときおりやってくる郵便配達人や女の子と話をする——。この舞台から推測しうる有閑の優雅さとは裏腹に、彼は疲れ、静かないらだちに満ちている。すべてを白黒つけようとする人々に、吹っ切りなよという言葉の暴力性に、他者を「なになにタイプ」と分類し分析しては満足する社会について、彼は語る。

 彼はけっして、そのいらだちをそのまま表には出さず、口調は穏やかで静かであるーーあろうとしている。そしてときおり、動物園の熊のようにぐるぐるといらだちの周囲をめぐり、文学や音楽、文通相手とのエピソードをまじえながら、その怒りをパン生地のようにこねて熟成させる。

 おそらく、怒りやいらだちをそのままの形で発露させないのは、彼に恥らいと知性、品があるからだろうが、穏やかな口ぶりのあいまにふつりと不穏がよぎる。内爆、という言葉を彼はもちいている。他者や自分の言動にたいして抑えきれない怒りを感じたとき、彼はそれを言葉に出さず、心のうちで爆発させて処理する。

 ながい時間をかけて、一種の内爆に近い処理方法を磨いてきたのである。ビル解体に用いるほどの規模ではなく、不具合の起きた真空管がまとめて破裂する程度のものではあれ、怒りの芽は、いったん散り散りの灰となって胸のうちに音もなく降り積もり、やがて体内に溶け込んでいく。いつかはなんらかの方法で排出されるのだろうが、このない麦の瞬間さえ把握できれば、本格的な暴発、暴走を防ぎうるはずだとの確信が彼にはあった。

 もの静かで穏やかに見える文学青年はだいたい、いらついている。おそらく彼はわかっている。いらだちに気づかぬほど愚かではないが、発露するには知性がありすぎ、手際よく処理するには不器用すぎる。だからこそ、内爆させる。

 物語の中にも、小さな内爆はいくつも見てとれる。分類する人々を嫌いながらも彼らにラベルづけをせずにはいられないジレンマ、「本当の自分はなにか」と問う青くささ、正直ゆえに馬鹿を見る側でいたいという願い、むりに世慣れたくないという矜持。

 ためらい続けることの、なんという贅沢。逡巡につきまとう受け身のエロスの、なんという高貴。

 そうしたいらだちへの疲れから、彼はそれとは真逆のもの——目を見開いてものごとをはっきりと見とおす力強さではなく、薄暗い明かりの中でぼんやりとしたものを眺め、その正体をあきらかにしない姿勢を求める。余白や空白、どちらともとれぬ曖昧な立ち位置へなみなみならぬ関心を寄せてきた著者*1らしく、その不安定なやじろべえの重心をはかりながら、注意深く空白地帯に片足で立ち続けようとする。

 この物語は、まさに河岸で揺れるボートのようだ。ときにはひどく静かで、ときには感情の波をざわりと立てる不穏な嵐の中で、流れに身をまかせて、ゆらゆらと揺れている。

 時間が来れば解放されることもわかっている、まことに煮え切らない待機の姿勢。けれど、と彼はあらためて思う。煮え切らない待機とは、まさにいまの彼自身を指しているのではないか。

 隠遁ともモラトリアムとも似ているようで違うこの絶妙な感覚、煮え切らないこの感覚を、肌身で観じることができる物語だと思う。疲れてはいるが世を倦んでいるわけではなく、ただ少しだけ、ひとりで呆然とする時間が必要なのだ。

 
 ひさしぶりに、ひどく個人的な思いが交錯する読書体験だった。優雅で知的なモラトリアム小説のふりをして、思っていた以上に青くさく、ざわついていた。わかることもあるし、わかりたくないこともある。だが、物語の終わりはああならざるをえないことは知っている。この余白にはいつか、終わりが来ることも。

 緻密に編まれた言葉の中に、ときおり驚くほど素直な言葉があってはっとする。わたしは、こういう言葉のほうが好きだ。そして、心の底から同意する。

 ひとと接するのが嫌いだからでも、社会的な良識とやらを欠いているからでもなく、——少なくとも自分では欠いていないと彼は信じていたーー、たんにひとりでいたかっただけなのだ。


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*1:『回送電車』シリーズには、この空白をテーマにしたエッセイが多くおさめられている。