キリキリソテーにうってつけの日

海外文学/世界文学の感想ブログ。

『HHhH プラハ、1942年』ローラン・ビネ

 いったい何を根拠に、ある人物が、ある物語の主役であると判断するのだろうか? その人物に費やされたページ数によって? ——ローラン・ビネ『HHhH プラハ、1942年』

アンチ歴史スパイ小説

 「事実かどうかを1次情報まで戻って確認せよ、重要なことから書け、つねに自分とすべてを疑え、客観性を忘れるな」。書く者としての心構えを、ボスや教授からくりかえしくりかえし聞かされてきた。

 だが、客観的に書くとはなんだろうか? それは人類に可能なのか?

 フランスの若く野心的な小説家は、この問いについての物語で答えようとした。ラインハルト・ハイドリヒ——第三帝国でもっとも危険な男、プラハの死刑執行人、虐殺者、金髪の野獣、山羊、ユダヤ人ジーズ、鉄の心臓を持つ男、地獄の業火が想像した最悪のもの、女の子宮から生まれたもっとも残虐な男、<HHhH>——Himmlers Hirn heibt Heydrich(ヒムラーの頭脳はハイドリヒと呼ばれる)という通り名を持つ男。

HHhH (プラハ、1942年) (海外文学セレクション)

HHhH (プラハ、1942年) (海外文学セレクション)

HHhH (プラハ、1942年)

HHhH (プラハ、1942年)

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『別荘』ホセ・ドノソ

 「私たちはベントゥーラ一族なのよ、ウェンセスラオ、唯一確かなのは外見だけ、よく覚えておきなさい」——ホセ・ドノソ『別荘』

分厚いベールをかける黄金の白痴

 ドノソはわたしのなかで「液体作家」として分類されている。読んだ後になぜか液体じみた印象が離れないからだ。奇跡のきちがい冥府小説『夜のみだらな鳥』は、どろどろの黒いタールの上に、蛍光色の砂糖菓子人形をぶちまけたような印象。『別荘』は赤緑黄のペンキ缶を壁に投げつけ、金銀の粉をふりかけて血みどろメレンゲをあしらった印象だ。

 端的にいえば、いかれている。頭のおかしい人々がロココにほほえみながら舞踏会を踊り、わたしたち読者に「あなたも踊りましょう?」と指を絡めてくるような作品をドノソは描く。圧倒的な理性の敗北、幼児退化のばぶばぶ、無知蒙昧のグロテスク、なのにそれでも西洋絵画のように美しいのだからいやになる。

別荘 (ロス・クラシコス)

別荘 (ロス・クラシコス)

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なぜ海外文学は売れないのか? もうすぐ絶滅するという海外文学について

海外文学が読まれない、売れない、翻訳できない


 『絶望名人カフカの人生論』の著者、頭木弘樹さん(@kafka_kashiragi)が「海外文学の翻訳が売れないから、翻訳できなくなってきている」というつぶやきが3000RTを超えた。

 「印税と翻訳料の違い」(わたしの周囲は若手が多いためか無報酬の話が多く、あっても微々たるものだろうが)や「業界全体の話なのかどうか」「そもそも本当の話なのか」など考えることはあるが、なにがすごいかといえば、このつぶやきが3000RTを超えたということである。

 3000といえばおなじみのフレーズ「海外文学のコア読者は3000人」の3000だ。3000人のうち全員がTwitterをやっているはずはない(特に文学おじさんはやらなさそう)から、わたしの周囲以外でこのつぶやきが拡散されたということは、コア読者以外がなんとなく興味を持ってRTしたと仮定してよさそうだ。


※「海外文学の翻訳」関連のつぶやきは6ツイートある。

海外文学にほんのり興味がある人はそれなりにいる

 くしくも昨日「ガイブン初心者にオススメする海外文学・文庫編」という記事を書いたところ、2000PV・70ブクマ超えを記録した。この記事を書いていて思った、そしてブクマのコメントなどを読んで感じたのは「海外文学に興味がほんのりある人は意外にいるんじゃないの?」ということだ。ためしに書いてみたら、やっぱりそれなりにいる気がする。

 そもそもこの記事は、「リクエストをもらったらそれっぽい海外文学を1冊オススメする」企画を開催したとき、リクエストをくれた人たちのうち半数ぐらいが「ふだんはあまり海外文学を読まない人」だったために書いた。さらにいえば、わたしのTwitterアカウントはほぼ海外文学ネタと幻想しかたれ流していないにもかかわらず、なぜか1800フォロワーほどいて、ここ1年はとくにフォロワーの増えるスピードが加速している。

 また、ノルウェー・ブック・クラブがまとめた「世界最高の小説100」リストは2000近くのブックマークがついている。リストものはブクマをかせぎやすく、だいたい「あとで読む」タグがついてあとで読まれないものだが、それにしてもこのブクマ数はわたしにとっては驚きだった。

人々は「海外文学」を読みたいわけじゃない。「いい作品」「読んでよかったと思える作品」「最高の作品」を求めているのだ。物語に貪欲な人は、フォーマットは問わない(好き嫌いや相性はあるにせよ)。映画でも、アニメでも、ゲームでも、漫画でも、アマチュアがつくった動画でも、文学でも。残念なことに、文学はこの中ではもっとも敗北している。

 海外文学はもはや、表マーケットで経済活動を続けるか、アマチュアや海賊版翻訳に頼る裏マーケットになるか、という選択肢を突きつけられつつあるとすら思っている。

 本記事は「表マーケットでの経済活動」にポイントをしぼって話を進める。つまり問いはシンプルだ。「なぜ海外文学は売れないのか?」「なぜ海外文学を買わないのか?」

 なお、わたしは仕事上では文学にまったく縁がない分野に生息しているため、これはあくまで外部から見たうえでの話である(ただコンテンツ畑なので、コンテンツのシェア獲得とマーケティング、課金は永遠のテーマだ)。ガイブン業界の慣習やしがらみは抜きにして、話を進めることをご了承いただきたい。

なぜ海外文学は売れないのか?


 なぜ海外文学は売れないのか? 答えは単純で「既存マーケットでは経済活動を維持するのに十分ではない」、つまり「新規マーケットをじゅうぶんに獲得できていない」からだ。

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ガイブン初心者にオススメする海外文学・文庫編

秋の夜長に「読みたい本の雰囲気を伝えてもらったら、それっぽい海外文学をおススメする」企画をTwitterでやってみた。

これまで話したことがない人からのリクエストはたいへん楽しく、とくに「あまり海外小説を読まないけれど興味はある」人たちからのリクエストには感動した。「こういう雰囲気の本を求めている人がいる」という発見は、氷河ビールのように新鮮であった。


というわけで、海外文学/世界文学にほんのり興味があるけれど、あまり読んだことがない人たちに紹介できる「オススメの海外文学・入門編」をつくってみた。ちょっとでも興味がある人たちがもっと増えてくれればうれしいし、出版社だって売り上げがあがれば良い作品をもりもり出してくれるにちがいない。ノーモア絶版。『夜みだ』はまだですか。


今回のリストは「早い・安い・うまい」で選んだ。

  • すぐに手に入る(絶版でない)
  • 文庫本(安い)
  • 訳がわりと新しい or 読みやすい
  • 長すぎない
  • 本ブログで☆4〜5をつけた(わたしが好きな本)

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『ザ・ロード』コーマック・マッカーシー

 この物語の結末をおれにいわないでくれ。 ——コーマック・マッカーシーザ・ロード

命の火を運ぶ


 人類絶滅まであと少し。未来は来ない。

 黒こげた死体の薪に命の火をくべて、血と夜の雫でできた宝石を、頭蓋骨の鍋で煮たような小説だ。なぜ、これほど極限まで振り切れた人間のおぞましさと美しさ、腐臭と愛が、ひとつの世界に存在できるのだろう。

ザ・ロード

ザ・ロード

ザ・ロード (ハヤカワepi文庫)

ザ・ロード (ハヤカワepi文庫)

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『火葬人』ラジスラフ・フクス

 「あいつはどうかしている。いつもこうなんだ。大虐殺の現場に連れていかれるとでも思っているんだ……」 ——ラジスラフ・フクス『火葬人』

ホロコーストという慈善

 心電図が停止しながらも生きている人間は、じつはけっこういるのかもしれない。心臓は動いているし、呼吸も排泄もするし、仕事や社交だってお手のものだが、心がまったいら。好き嫌いといった心のでこぼこを持ち合わせていないから、どんな枠組みにでもスライムのようにするりとはまってみせる。だからおうおうにして彼らは、きわめて常識があって模範的な人間であることが多い。

 普通であることを誇りにし、それを他者にも求める人間には気をつけるがいい。実在可能な哲学的ゾンビは模範的で、社会が求める“普通”で“善良”な人間の顔をしている。

 「この世界には、平和、正義、そして幸せがないとね」

火葬人 (東欧の想像力)

火葬人 (東欧の想像力)

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『氷』アンナ・カヴァン

 今ではもう私たちのどちらかが犠牲者なのか判然としない。たぶん互いが互いの犠牲者なのだろう。 —ーアンナ・カヴァン『氷』

愛の絶対零度

 これぞ唯一無二。手の上に、虹色にかがやく絶対零度の氷塊がある。この氷塊が、わずか数百枚のページでできていることが脅威的だ。世界も魂も人間関係も愛も、なにもかもが氷点下なのに、それでも温もりを求めて絶叫する。壮絶である。人間とはそう簡単に絶望できるものではなく、むしろ絶望の包囲をかいくぐり、針の穴のような希望を渇望する生き物なのだと思い知る。

氷

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