キリキリソテーにうってつけの日

海外文学中心の読書録。水を飲むように本を読む。

『ヘンリー四世』ウィリアム・シェイクスピア

[ごろつき紳士の饗宴]
William Shakespeare "Henry IV" 1597-1599?

 名誉ってなんだ? ことばだ。その名誉ってことばになにがある? その名誉ってやつに? 空気だ。結構な損得勘定じゃないか! 

 燃えよ退廃の燈火、愛すべき百貫でぶ、王子ハリーつきの食用豚、騎士フォールスタッフとハル王子たちの掛け合いのなんと楽しいことか!

 
 『ヘンリー四世』は、シェイクスピア歴史劇のうち『リチャード三世』と並んで人気の劇だと言われている。古今東西もっとも、当のヘンリー四世は、それほど印象に残らない。心をとらえて離さないのは、ヘンリー四世の後継者、のちのヘンリー五世となるハル王子と、騎士フォールスタッフと愉快なごろつきどもたちだ。

 ヘンリー四世は、前王の正式な後継者ではなく、もともとは臣下だった。もとの名はランカスター公ヘンリー・ボリングブルック、前王『リチャード二世』のいとこでありながら領地を奪われたことを不当に感じ、反乱を起こして王位についた。

 ここでプランタジネット朝は終わり、ヘンリー四世からヘンリー六世までが、ランカスター朝となる。反乱で王冠を手にした王はイングランドやスコットランドではめずらしくはないが、その地位は盤石ではなく、彼ら自身も反乱におびえることとなる。かつてヘンリー四世を王座につけた貴族たちは、自分たちが冷遇されていることに不満をいだき、ヘンリー四世にたいして反乱をしかける。


 王冠をめぐる王軍と反乱軍の戦い、というあらすじをうっかり忘れるほどの勢いで、身分の高いごろつきどもの愉快な場面が、これでもかというほどに展開される。

 ヘンリー四世の長男ハル王子は、王子なのにしょっちゅう町の酒場に出入りし、ごろつきどもとともに追いはぎなどをたしなむ無頼派王子だ。彼の親友がサー・フォールスタッフ、身分は騎士だが、およそ騎士といえそうなところはなにひとつない。

 フォールスタッフはほら話の金字塔、言い逃れの天才、舌と下っ腹が肥大したようなたいこっ腹のでぶ騎士で、燃やしたらさぞいい蝋燭になるだろうと言われる始末。1秒前に言ったことをひっくり返すわ、戦いからは逃げ出しては英雄も真っ青の武勇伝をこしらえるわ、酒場の女をたぶらかして貢がせるわ、ほら話と調子のいい嘘をえんえんとしゃべり続けるわ、とにかくろくでもない。貴族階級からは鼻つまみ者あつかいだが、酒場やごろつきたちのあいだではたいへん人気者だ。『ドン・キホーテ』セルバンテスが揶揄した「騎士道」を真正面から粉砕にかかるアンチ騎士の言葉には、堕落と機知が混沌として共存している。

 名誉ってなんだ? ことばだ。その名誉ってことばになにがある? その名誉ってやつに? 空気だ。結構な損得勘定じゃないか! その名誉をもってるのはだれだ? こないだの水曜日に死んだやつだ。やつはそれにさわっているか? いるもんか。聞こえているか? いるもんか。じゃあ名誉って感じられないものか? そうだ、死んじまった人間にはな。じゃあ生きてる人間には名誉も生きてるのか? いるもんか。なんでだ? 世間の悪口屋が生かしておかんからだ。だからおれはそんなものはまっぴらだというんだ。名誉なんて墓石の紋章にすぎん。

 フォールスタッフの語りは独壇場だが、ハル王子とのやりとりが加わると、さらに愉快だ。ハル、ジャックと気さくに呼び合いながら、たえまなく罵り合うあたりがたいへんよい。

フォールスタッフ おまえを知るまではな、ハル、おれはなんにも知らなかったんだぞ、それがいまではどうだ、正直言って、おれは悪しきものの一人になっちまった。こんな生活はやめねばならん、よし、やめて見せる。誓って言うが、やめないようならおれは悪党だ。たとえキリスト教国の王子のためであっても、地獄落ちはまっぴらだ。
 
王子 明日はどこで追いはぎをやるとするかな、ジャック?
 
フォールスタッフ ああ、どこだっていいぜ、相棒、おれも断じてついて行くからな、行かないようなら、おれを悪党呼ばわりするなりさらしものにするなり、勝手にしろだ。
 
王子 なるほど、悔い改めるとはこういうことか、いい例を見せてもらったよ、お祈りから追いはぎへ一瞬のうちに改まるものだな。
 
フォールスタッフ なあ、ハル、これはおれの天職なんだよ、ハル。人間、天職に励むは、罪にあらずだろう。

 ハル王子は不思議な人で、フォールスタッフと一緒にろくでもない道を歩きながら、一歩ひいた視点から自分と仲間を観察しているように見える。追いはぎをしていても、なぜか品がある。フォールスタッフのことを無礼な豚めとののしりながら、愉快げに軽妙な会話をかわし、彼をからかうためなら給仕の格好までする。遊びに全力をかけつつ、その心にはどこかハムレットのような憂愁がただよっており、フォールスタッフとは違った魅力がある。

 対する反乱軍の若き英雄ホットスパーは、血気さかんで直情的、剣の腕がおそろしく立ち、ヘンリー四世が「彼が後継者であればよかった」と嘆くほどの正統派騎士である。もうすこし落ち着いたほうがいいのではと思うが、どこか憎めない。正統派ホットスパーと無頼派ハル王子の決闘は第1部の見せ場で、決闘のオチもよい。ほか、ケルトらしい魔術的な雰囲気を持つグレンダワーなど、『ヘンリー四世』には魅力のある登場人物が多い。

 だからこそ、ヘンリー四世からハル王子へと王冠が継承されるとき、ハル王子があれほど豹変したことに驚いた。王冠を受け継いだハル王子、のちのヘンリー五世は英雄だと賞されるが、わたしはごろつきと一緒に遊んでいるハル王子のほうが好きだ。

 王冠を受け継いだことによる責任を自覚したというより、その重みに恐れおののき、心の一部を失ってしまったように見える。アーサー王にしてもそうだが、心を殺さなければ英雄などやっていられないというのなら、王は身分の高い人柱、王冠は豪奢な鎖だ。ヘンリー五世となったハル王子の最初のせりふは「王権という、この新しい豪華な衣装は、わたしにとっておまえたちが思うほど着心地のいいものではなさそうだ」という諦めから始まっている。

 それにつけても、あのゆかいなやりとりが見られないと思うとさびしい。すばらしい一瞬は、つねに失ってからそれと気づく。

 だがしょせん、心はいのちの奴隷、いのちは時の奴隷、そして時は、この世の支配者とはいえ、いずれ止まるべきものだ。

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『クララからの手紙』トーベ・ヤンソン

[気難しくも優し]
Tove Marika Jansson"Brev från Klara och andra berättelser",1991.

クララからの手紙 (トーベ・ヤンソン・コレクション)

クララからの手紙 (トーベ・ヤンソン・コレクション)

 成績表なんて気にしないこと。パパとママに言いなさい。両の手を使って美しいものを造るというのは、場合によってははるかに大切な能力なのだと。——「クララからの手紙」

 他者に気をつかうことは、優しさではない。優しくしたいという願いは嫌われたくないの裏返しで、自分が殺した言葉と感情、譲った願いへの対価を期待する。あなたのためにがんばった、あなたのためにがまんした、あなたによかれと思って、なのにどうして。言えなかった言葉は心に沼をつくり、その水は時が経つほど澱み、やがて水底に怪物をはらむ。

 トーベ・ヤンソンの作品に出てくる人びとは、沼の怪物とは無縁の人びとだ。彼らは気難しく、ささいなことで気分が変わり、文句でもなんでも言いたいことは遠慮なく言い、自分の心を隠さない。

 それがふしぎと心地よい。彼らは彼らなりに家族や友人を大事に思い、同じだけ自分の心を大事にしている。自分にも他者にも寛容なのだ。だからわたしは、この気ままで身勝手な人たちの物語を読み続けたくなる。


 本書は、トーベ・ヤンソン全集のなかではもっとも晩年の短編集である。80を過ぎたトーベが見る世界には、死と老いの色彩がいっそう強まっている。

 「クララへの手紙」ではクララおばあさんがさまざまな人にあてて手紙を書き、若い人には言葉を、古い友人には懐かしみのこもった言葉をよこす。「パーティ・ゲーム」では40年ぶりに顔をあわせた級友たちのぎこちなさと気まずさ、そしてそのあいだにかすかに見える親愛が描かれる。

 「リヴィエラへの旅」は、気難しい老母と娘がスペインに旅する話。彼女たちはやっぱり文句を言い合っているが、やはり親子だからか通じ合っていて、ふたりの大きな少女が遊んでいるようでいい。

 「睡蓮の沼」では、若い世代と老いた世代のあいだに不協和音が響く。若いカップルの旅行にどうどうと割りこむ老いた母親は無遠慮で、息子は母親に振り回されている。そしてその様子を白々と眺めている女性の諦めともつかぬ静かさ。こういう年のとり方はしたくない。

 一方、「海賊ラム」に登場するマリとヨンナの年のとり方はすてきだ。彼女たちの物語『フェアプレイ』はわたしが偏愛する1冊なので、ひさしぶりにふたりが出てきてうれしくなった。あいかわらず会話はかみあったりかみあわなかったりするが、女に辟易している漂流者をひろった時のふたりは、やはりいい相棒どうしだと思う。

 「あいつらは人を所有しようとする。愛で殺してしまうんだ」
 「そうね。わかる」とマリが言う。
 「わかるもんか! なんであいつら気持よくできないんだ、会うのが楽しいように、すこし距離を置くってことをさ」——「海賊ラム」

 ちょっと偏屈で誇り高く、自分の言いたいことははっきり言うが、奇妙な優しさがある。年をとるなら、こうありたい。


 もっとも気に入ったのは、「夏について」。トーベの描く人物たちの中でも、とくに少女の野性味あふれる完成はすばらしい。大人も学校もさっぱり知らないといった風情で、誇り高くひとり遊びに打ちこむ彼女(きっと少女とは呼ばれたくないだろう)を眺めていたい。

 ボートをこぐ練習をする。練習するところを見られたくないので、毎朝みんなより先に起きる。かしこく、しかもいちずでなければならない。——「夏について」

 浮世ばなれした少女と彼女に惹かれる中年男を描いた「エンメリーナ」もよい。エンメリーナは若くして屋敷を受け継いだ少女で、この世に生きていないような、感情が欠落しているのではないかと思わせる、月のような引力がある。あなたにそのドレスは似合わないとお世辞を拒否し、生きていけないインコの首をためらいもなくひねる。仕事がいやで鬱々としている中年男のダヴィドは、エンメリーナに言いようもなく惹かれ、やがて死にたいという思いを加速させていく。死の静寂に近い少女の引力と、それに引きずられる男が織りなす緊迫感は、ほかの短編では見られない。


 トーベの作品には生きることへの強い誇りがあるが、理想や規範はないように見える。彼らは彼らの思うように話し、行動する。その結果がどうなるかはわからない。最後の一文まで読んでもまだわからない、ということだって多い。

 皆が気ままで、人と人は衝突するが、その衝突で風穴があくこともある。人間関係に疲れているあの人に、この本をすすめたくなった。

 

収録作品(気に入った作品には*)

  • クララからの手紙*
  • ルゥベルト*
  • 八月に
  • 睡蓮の沼
  • 汽車の旅
  • パーティ・ゲーム
  • 海賊ラム*
  • 夏について***
  • 絵*
  • 事前警告について
  • エンメリーナ**
  • カリン、わが友*
  • リヴィエラへの旅*

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ウィリアム・シェイクスピア『オセロー』再読

オセロー (新潮文庫)

オセロー (新潮文庫)

 将軍、恐ろしいのは嫉妬です。それは目なじりを緑の炎に燃えあがらせた怪獣だ、人の心を餌食とし、それを苦しめ弄ぶのです。

 白井晃仲村トオルの演出・主演による『オセロ』を観劇するので、4年ぶりにシェイクスピア『オセロー』を再読した。劇で使う底本にあわせて福田恆存訳で。

 劇場に足をはこぶようになってから、この役を訳者はどう演じるのだろうか、と想像しながら読むようになっったことは、わたしにとってよい変化だったように思う。役づくりは、役者による読解の再現だ。オセローとイアーゴーをどう演じるのか、想像しながら読むのが楽しい。


 以前に『オセロー』を読んだとき、なにより強烈に記憶に残るのは、主人公オセローではなく、オセローを破滅においこむイアーゴーの存在感、そして彼から吹き出るどす黒い悪意だった。オセローは戦いにあけくれ人の心を読むことを知らぬ生粋の武人で、イアーゴーを「誠実な男」だと見なしている。一方、イアーゴーは開幕時からオセローを陰でののしって悪意をぶちまけ、彼に地獄の苦しみを味あわせることを宣言して、読者にだけその正体をはやくもあらわにする。

 悪事というやつは、その場その場で目鼻をつけてゆくものさ。

 そうして読者は、イアーゴーの本性を知ったうえで、オセローや周囲の人々が彼のうわべの誠実さと言葉にだまされて破滅していくのをながめるという、真犯人を知る目撃者としての位置につく。

 肌の色はオセローが黒、イアーゴーは白だが、心はまるで逆、オセローは愚かで白い善意を持ち、イアーゴーは奸智に長けた黒き悪意を持つ。イアーゴーが黒いこまを配置していくたびに、ぱたぱたと、人の心は黒く裏がえっていく。

 毒よ、廻れ、手際を御覧じろ、廻れ、廻れ! 信じやすい阿呆どもが、こうして難なく罠に落ちるというわけさ。


 筋としては、オセローがイアーゴーの奸計により最愛の妻デズデモーナの不貞を疑い、緑色の悪魔たる嫉妬に心をのっとられるというものだが、主軸はオセローとデズデモーナの夫婦による戦いではなく、オセローとイアーゴー、オセローのうちにうまれる葛藤の戦いだ。

 とはいっても、主人公たるオセローは、どちらの戦いにおいてもぼこぼこにやられてばかり。開戦そうそう先陣をとられ、ひたすら後方におされていく軍隊のようだ。

 そんなわけで、オセローがどうにもなさけなく見え、イアーゴーに心を奪われがちになるのだが、今回の再読ではオセローに心を持っていかれた。

 イアーゴーはこの劇の主導者、構成者としてふるまい、すべての人間がイアーゴーの策略どおりに動いていく。オセローはひたすら悪意の暴風に耐える受難者として、イアーゴーの支配下にいる者、悪意の塊であるイアーゴーにすべてを奪われて死んでいく、愚かであわれな武人、悲劇の被害者であるように見える。

 しかし、4年前に読んだときより、わたしはオセローの弱さに心を寄せている。なぜイアーゴーがこれほど悪意の塊になったのかばかり考えていたものだが、いまはオセローの心が気にかかる。

 オセローは嫉妬に狂い、貞淑な妻をののしり、殺すと宣言しながらも、それでも妻を美しい、愛しい、かわいらしいと嘆く。オセローが妻を殺そうとするのは、世間体でも、馬鹿にされたことへの怒りでも、愛情を失ったためでもない。ただ愛しさがふりきれてしまったからだ。弟が戦場で死んでもなお、一粒の涙も流さなかった男が、心の底から取り乱すただひとりの女、ただひとりの存在がデズデモーナだった。

 もう一度、もう一度。死んだ後もこのままでいてくれ、お前を殺してなおいつまでもお前をいとおしく思いつづけられるように。

 知性と心が自分の支配下をはずれ、正常な判断を失うほどの力を持つ感情がここにはある。役者として演じるなら、絶対にオセローの方が難しく、そしておもしろいだろう。イアーゴーは、もはやその悪意が完成されてしまっていて、ふりきれてしまっている。最初から黒い心であるよりも、白から黒へとうつっていく心の方が、演じがいがあるのではないかと思った。

 オセローは脳みそが筋肉でできた男だと思っていたが、最後に語るせりふは、自分の状況を冷静に表現している。

 お庇いくだされうには及ばぬ、もとより悪意の曲解もなさらぬよう。ただどうしえもお伝えいただきたいのは、愛することを知らずして愛しすぎた男の身の上、めったに猜疑に身を委ねはせぬが、悪だくみにあって、すっかり取りみだしてしまった一人の男の物語。

 愚かだったのではない、ただ知らなかっただけだ。思えば、人間関係において、うまれたときから他者を疑う人はそうそういないわけで、苦い人生を進むにつれて裏切られ、傷ついて学習していく。戦場では百戦錬磨だったオセロー将軍は、ただ人間関係においては初陣だったのだとすると、初陣でラスボスの存在、ふりきれた悪意、ふりきれた愛にふれてしまったことは、なんとも運が悪かったと思ってしまう。

 主演のふたりが、オセローとイアーゴーの白黒をどのように演じるのかが楽しみ。そしていずれは、グローブ座で見てみたいものだ。