キリキリソテーにうってつけの日

海外文学中心の読書録。水を飲むように本を読む。

『氷』アンナ・カヴァン

[愛の絶対零度]
Anna Kavan "Ice", 1967.

氷

 今ではもう私たちのどちらかが犠牲者なのか判然としない。たぶん互いが互いの犠牲者なのだろう。

 
 これぞ唯一無二。手の上に、虹色にかがやく絶対零度の氷塊がある。この氷塊が、わずか数百枚のページでできていることが脅威的だ。世界も魂も人間関係も愛も、なにもかもが氷点下なのに、それでも温もりを求めて絶叫する。壮絶である。人間とはそう簡単に絶望できるものではなく、むしろ絶望の包囲をかいくぐり、針の穴のような希望を渇望する生き物なのだと思い知る。

 全世界が死に向かっている。氷はすでに何百万人もの人々を埋葬し、生き残っている人々も、抗争と無意味な逃走に奔走しながら、しかし、誰にも打ち負かすことのできない敵が迫ってきていることはわかっている。

 世界はどうやら突然の氷に襲われ、終末まぢかであるらしい。だが、それらしい説明はなにもない。ただ、氷が圧倒的な力でもって前進し、世界はなすすべもなく死に向かっていることだけがわかる。

 しかし、主人公の男にとっては世界の終末などどうでもよいらしく、夢幻の氷めいたアルビノの少女を、文字どおり地の果てまで追いかけていく。彼女を支配する長官と夫から「彼女を助けたい」と男は言うが、彼の思いは恋や愛ととうてい呼べるしろものではなく、ドライアイスのように触る者すべてを低温火傷させる。「愛情をこめて腕を折るのはこの私でなければならない」「彼女を殺していいのは私だけ」と、欲望を全開にして少女を激烈に渇望する、ふりきっていかれた男だ。少女が男を受けいれなければ激昂し、捨てるとわめきながらも地べたを這いずってでも追いかける。愛というよりは呪いに近い。

 少女の眼から大粒の涙が氷のかけらのように、ダイヤモンドのようにこぼれ落ちたが、私は心動かされなかった。私には、それが本当の涙だとは思えなかった。少女自身がとても本当の存在には思えなかった。青白く、ほとんど透きとおっているような少女は、私が夢の中で自分の快楽のために利用する犠牲者だった。

 そしてまったく唐突に、強烈な氷のビジョンが、天から落ちてきて突き刺さる。車の窓をあければ、四方を氷の壁に囲まれて押しつぶされ、またなにごともなかったかのように車が目的地に着くといったぐあいだ。

 と、その時、驚異的なものが現れた。この世のものとは思えない超常的な光景。虹色の氷の壁が海中からそそり立ち、海を真一文字に切り裂いて、前方に水の尾根を押しやりながら、ゆるやかに前進していた。青白い平らな海面が、氷の進行とともに、まるで絨毯のように巻き上げられていく。……その光景を見降ろしながら、私は同時に様々なものを見ていた。私たちの世界の隅々までを覆いつくす氷の世界。少女を取り囲む山のような氷の壁。月の銀白色に染まった少女の肌。月光のもと、ダイヤモンドのプリズムにきらめく少女の髪。私たちの世界の死を見つめている死んだ月の眼。

 この眩暈がするビジョンの切り替えがえんえんと続く。右足は地球を、左足は冥王星を踏みながら断崖絶壁を綱渡りしているようなものだ。正気と生命力が、氷の刃でどんどんとこそげ落とされる。

 しかし、男にとっては、超常的なビジョン、命と体温を奪う氷ですら祝福である。人類を絶滅させる氷は、青白い夢幻の少女を思い出させるトリガーにすぎない。この少女は人妻で、男たちの欲望の犠牲者でありながら、娼婦めいたこともする魔性を持ち、しかもけっこうわがままだ。「それじゃ、私がそのようなことを言わなければ、ずっと私と一緒にいてくれたと言うの?」などという、魔性ヤンデレ気味のせりふを放つ。

 ふたりの男にひとりの少女というシンプルな三角関係でありながら、どの人間関係も冷えきっており、温もりや情愛などは地の果てまで見つからない。あるのは支配欲と嫉妬、冷たい熱狂であり、誰もかれもが自分のことしか考えていない。じつに見苦しい。

 じつに見苦しいが、美しいのだ。カヴァンはこの醜悪きわまりない人物像と人間関係を瞬時冷凍してこっぱみじんに砕き、その破片が七色のプリズムとなって降りそそぐ。だから、とことん醜いのに、とことん美しい。こんな離れ業が可能なのかと、呆然とさせられた。

 もうひとつ呆然としたのは、この無慈悲で支配的で心をつぶしにかかってくる冷たい世界は、おそらくカヴァンが見ていた世界そのものだったのではないか、ということだ。彼女は自分を犠牲者だと感じながら生き、人間と世界の冷酷さに絶望しながらも、南の島でインドリがなかよく寄りそい歌うような温もりを、気が狂うほどに渇望していたのではないだろうか。男のように、あるいは少女のように。

 この狂乱の舞踏の中では、暴虐な行為を冒す者と犠牲者とを区別することなどできない。いずれにしても、そんな区別はもはや何の意味もない。死の舞踏のさなか、踊り手たちはみな、無の崖っぷちでくるくると旋回しているのだから。

 恐るべき愛の極北、魂の絶対零度、頭蓋骨の中が真っ白に吹きさらされた。

 その運命から少女を救えるものがあるとしたら、それは唯一、愛だけだった。だが、少女は決して愛を求めようとしなかった。……結局、残ったのはあきらめだった。運命に逆らって闘っても意味はない。少女はスタートする以前から自分が敗北していることを知っていた。

Recommend


ああ、この愚かなわれわれは、互いが互いの犠牲者なのだ。

 
リザード・アポカリプスもの。

ザ・ロード (ハヤカワepi文庫)

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世界が終末を迎え、氷河期に突入。カートを押しながら父と子が南下する、アポカリプス子連れ狼世界の終わりが、これほどばかばかしい理由だったのなら、いっそ笑い飛ばせる。愛を渇望し、世界を終わらせた親子の話。作家キリコが残した、唯一の短編小説。雰囲気がとても『氷』に似ていると、後書きに書いてあった。
 
愛という名の呪い。

「二人はともに長い人生を生き抜いてきて、愛はいつ、どこにあっても愛であり、死に近づけば近づくほどより深まるものだということにようやく思い当たった」
悪い娘の悪戯

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どんなに手ひどく振られても、なんどでも彼女を追いかける。

愛もまた悪霊である。

存在の耐えられない軽さ (集英社文庫)

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何百人もの女と寝た女狂いの男が、たったひとりの女、地味な女にどうしようもないほど恋をする。お互いがお互いの犠牲者となる。

『タイガーズ・ワイフ』テア・オブレヒト

[トラの嫁と、不死身の男]
Tea Obreht "The Tiger's Wife", 2010.

タイガーズ・ワイフ (新潮クレスト・ブックス)

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 祖父はようやく口を開いた。「分かるだろう、こういう瞬間があるんだ」
 「どんな瞬間?」
 「誰にも話さずに胸にしまっておく瞬間だよ」

 まずはわたしの話からはじめよう。曾祖父が曾祖母と一緒に住みはじめたとき、曾祖母にはすでに子供——わたしの祖父がいた。地元の名士であり信頼の厚い弁護士であった曾祖父が、生涯いちども掃除をせず風呂に数年に1回しか入らず、子供を餓死させかけた野生の曾祖母と結婚したのか、子供の父親が誰なのか、誰も知らなかった。さまざまな憶測が飛びかった。子供の父親は敵国の兵士だったとか、子供の父親と弁護士先生が親友だから引き取ったとか、政治取引の犠牲になったのだとか。20年間、立派な男が籍もいれずに、人間よりは獣に近い女とその連れ子を育てることは、尋常ではない。祖父はなにかを、あるいはすべてを知っていたようだった。しかし彼はあっぱれに逃げきり、すべてを墓の下に持っていった。生きているわれわれには、物語と伝説だけが残った。

 良いものも悪いものも、人生で極端なことに困惑すると、人々はまず迷信にその意味を求め、ばらばらの出来事をつなぎ合わせることで何が起きているのか理解しようとする、ということも学んだ。どれほど秘密が重大で、きっぱりした沈黙が不可欠でも、打ち明けたい気持ちを持った人は必ずいるのだし、解き放たれた秘密はとんでもない力になるのだと学んだ。


 どうやら人間は空白と尋常ならざる事象をそのままにしておけない生き物らしく、わからないこと、語られないこと、自分たちのやりかたとは異なるものや考え、由来がわからないものについて、事実と事実の空白を、想像と噂で満たそうとする。不可解な自然現象の空白を理解するために人類が編み上げた物語が神であり、神話だった。そしていまは、噂とデマがインターネットで渦を巻いている。

 内戦により「あっち側」と「こっち側」に分裂してしまったバルカンの小さな国には、「トラの嫁」と「不死身の男」の物語があった。

 わたしの祖父を理解するために必要なことすべては、二つの物語につながっていく——トラの嫁の物語、そして不死身の男の物語。この二つは、秘密の川のように、祖父の人生のそのほかすべての物語りのなかを流れている。……一つは、祖父がどうやって大人になったかという話で、わたしは祖父の死後にそれを知った。もう一つは、直接聞かされた話で、どうやって祖父がまた子どものなったのかという話だった。

 語り手ナタリアは、若き女性医師である。旧ユーゴスラビアを思わせる彼女の祖国は内戦によって分裂し、かつて彼女が愛した別荘、祖母の故郷は「あっち側」の国になってしまった。電波が届かない辺境の村で慈善活動をしていた彼女は、祖父が行方不明になったのちに誰も知らない辺鄙な村で死んだと聞かされる。

 著名な医師であった祖父は、父を持たないナタリアにとって重大な存在であった。祖父とともに育ち、祖父のように医師を志した。その祖父が死んだ。なぜ辺境の村に? なにをしに? なぜ家族になにも言わずに? 孫に会いにいくと嘘をついてまで、誰に会いに? なぜ自分に会いに来なかった? 死期を悟ったときに最後にしようとしたことは? 残されたナタリアは空白を埋めるために、自分の記憶と祖父から聞いた話、そして祖父の故郷に住む人々の証言という異質の糸をより合わせて、祖父の物語を紡ぎ出す。


 「トラの嫁」は、トラと心をかよわせ、DV夫をトラに食わせてトラの子供を妊娠したといわれる聾唖の少女であり、幼い祖父にとってだいじな存在だった。「不死身の男」は祖父の腐れ縁で、40年ずっと年を取らず、殺しても死なず、人々の死期をぴたりと言い当てる能力を持っている。祖父と不死身の男は、不死身の男がほんとうに不死身なのかどうかで賭けをする。

 どちらも非現実的な存在ではあるが、トラの嫁が巫女のような超然性をたたえているのにたいして、不死身の男は妙に陽気で人間くさく、親しみが持てる。「叔父が死神でね」としれっといいながら、頭蓋骨にめりこんだ銃弾を垢のようにぽりぽりと掻き出して捨てる男も男だが、その様子にきれて、不死身の男をコンクリの簀巻きにして川にまる一夜、沈める祖父も祖父である。彼らのやりとりは悪がき同士のようで、とても楽しい。

 著者は、超常的なふたりの物語を軸にして、バルカン半島の内戦とその結果をも描こうとする。この物語には、あちこちに黒灰色のにおいがつきまとっている。灰色は、爆撃による灰燼であり、いつあけるかもわからない重苦しい吹雪であり、命をつなぐ暖炉の灰であり、土の中でしらじらと照らされる頭蓋骨であった。旧ユーゴスラビアではかつてカトリックイスラム教徒、正教徒たちが隣りあって暮らしていた。しかし、それらは民族主義のもとに、ぜんぶまったいらに整理されてしまった。

 大通りで子どもたちが時速二百キロで飛ばしていて、お子さんがあまり誉められない格好でサンルーフにつかまっていたわよ、と近所の人たちから親が聞いても、戦争中なのよ、みんな死ぬかもしれないでしょ、という言葉には太刀打ちできなかった。親たちは責任を感じていたし、気遣いのなかったわたしたちはその罪の意識につけ込んでいた。

 「連絡を取りたかったとしても、それは無理な相談だろうな。あそこは更地にされてしまったからな」

 戦争はすべてを変えてしまった。いったんばらばらになってしまうと、かつてのわたしたちの国を形づくっていたピースは、パズルのなかでそれぞれ持っていた特徴を失ってしまった。名所や作家、科学者、歴史など、かつては共有されていたものは、新しい所有者に分配されてしまった。

 作者のオブレヒト自身は7歳のころに亡命したため、ナタリアのように長いあいだ内戦を経験していない。だからかもしれないが、グスラゴブレット・ドラムなどのバルカン伝統の楽器や、イスラム教徒がすぐ近くに住む文化、オスマン帝国時代から受け継いだ歴史など、わかりやすいバルカンのモチーフを用いているわりには、作家と土地の距離はどこか遠いような気がしてならない。彼女の描くセルビアはセピア色をしている。

 だが、不死身の男と祖父が最後のディナーをするシーンだけは、すばらしい色に満ちていた。ニンニク添えのセルビア風サラダ、サルマ(葉で包んだひき肉の煮物)、フダンソウを添えたジャガイモの煮物、パセリのソース、ニシマトウダイのグリル、トゥルンバ(ドーナツのシロップ漬け)、バクラヴァ(パイ菓子)、トゥファヒャ(クルミを詰めたリンゴのコンポート)、カダイフ(細い免状の生地をつかった菓子)。どれもこれもおいしそうで、このシーンだけがほかとは比べものにならないほど、ことさら悲劇的に美しく輝いている。祖父の言葉もまた、胸を打つ。

 「人生でずっと愛した町だからだ。最良の思い出はここにある——妻と娘だ。それが、そのすべてが、明日には地獄になってしまう」


 本書は、過酷な現実を生きるために信じられないような物語を必要とした人と、それを信じることに決めた人の物語だ。語られることと語られないことの取捨選択がどのように行われるかを描くことによって、伝説の生まれ方を描いた小説だとも言えるだろう。

 空白は悲しみであり、物語はそれを埋める慰めとなる。祖父が残した空白を、ナタリアはふたつの物語を使って埋めていった。実際にそれが本当であったかどうかは関係なく、ただそれを必要としていた。一方で、彼女はもうひとつの真実も知る。本当に大事な物語は、人は誰にも語らず大事にしまっておく。

 「知っていたとしても、知っているとは言わないだろうから、知っていると思っているだけの人を見分けるのは難しいな。誰かはもう知っているはずだ。わしだとは知らないのかもしれない――でも知っている。……女房には言わないでくれるか、先生? それはやめておいてくれるかな?」

 バルカンにセルビアというなじみのない土地、語りの魔術という好きな要素がありながら、どうもいまいち乗り切れなかったのは、創作科出身らしい文化の料理のしかた、観光パンフレットらしさ、情熱よりも技術の方に目が向いてしまうからかもしれない。物語の力を信じる小説としては、ジャネット・ウィンターソン『灯台守の話』ダニロ・キシュ『砂時計』レオ・ペルッツ『夜毎に石の橋の下で』などの方が好きだった。彼らはもっと切実で、腹の底から絶叫しているからだ。わたしの手の中にあるこの本では、トラは吠えなかった。


Recommend:

異界の住人とのごはん小説。


死者とひたすらごはんを食べ、ワインを開ける。サラブーリョがやたらと食欲をそそる。

らくだの姿焼きで「アー」とみんなが絶叫するシーンがとにかくすさまじい。

生きるために物語を渇望した、つらくも愛おしい人々の物語。


生きるために少女は物語が必要だった。しょっぱなから、崖に突き刺さった家で命綱をつけながら生きるシーンに度肝を抜かれる。

死んでしまった人間を、言葉の魔術で再構築する試み。


これぞ魔術。これぞプラハ。最後の最後で一点で急速に収斂していくところは鳥肌ものである。


罪を償いたいという願いから、物語を編み出す。自己中心的で身勝手だが、痛ましくもある。

『デカメロン』ジョヴァンニ・ボッカッチョ

[ラテンの現実逃避]
Giovanni Boccaccio, Decameron, 1349-51.

デカメロン(上) (講談社文芸文庫)

デカメロン(上) (講談社文芸文庫)

デカメロン(下) (講談社文芸文庫)

デカメロン(下) (講談社文芸文庫)

この世の中では、誰でもとれるだけとっておくのがよろしい、ことに女の場合はそうですよ。女は使えるあいだに、男よりも時間を有効に使わねばなりません。

私は恋愛の経験なしには、いかなる人間も特や情をもつことができないと思う。

 世界の終末に生き延びたとしたら、なにを語るだろうか? カート・ヴォネガット『猫のゆりかご』、コーマック・マッカーシーザ・ロード』、アンナ・カヴァン『氷』のような終末の世界、凍りついた地平線、人類のほとんどが死滅した町、かつて高層ビルだった瓦礫の山、灰色の雨が降りそそぐ空、死が隣り合わせで先のことなどなにもわからない日々で、数少ない隣人たちと、なにを語り合うだろうか。14世紀のイタリア人たちは、とびきりゆかいな恋愛物語を話し続けた。

 『デカメロン』は、壮大なラテン的現実逃避の百物語である。当時、3人に1人がペストで死んだ。死は、じゃんけんで負けることとたいして変わらなかった。いたるところに腐乱した死体が転がり、墓を掘るひまもなく死は広がり続け、しかも終わりも解決方法も見えなかった。ペストの災禍から逃れて屋敷にたてこもったイタリア人の男3人、女7人の10人が、10日間にわたって各人1日ひとつずつ——合計100つ、ゆかいで下世話な恋愛話、教訓もない悪徳の話をしていく。皆くだらない話に笑い楽しむが、彼らの脳髄には地獄の腐臭が焼きついている。

 
 『デカメロン』の逸話は、中世ヨーロッパの閉鎖的な印象は確かに残るのだが、どうも皆、妙に振り切れている。「やきもちをやく男の束縛が悪いのだから、わたしは浮気してもいいのだ」と開きなおる女性、青春には不倫も自由恋愛もなんのそので楽しむべきだと若者に忠告する老婆、不倫は権利ですと裁判で論証して法律を改定させてしまった不貞の妻、愛のために略奪をする男たち、愚かな人間を騙してもうける悪漢ども、欲望とアッモーレに全力でうつつを抜かすさまが、いっそすがすがしい。

 一方で、命の次に大事にしているものを愛のために犠牲にする人々や、憎しみのために愛するものを殺してしまう人々などの話もある。どちらにせよ、『デカメロン』の物語はどこまでも人間くさい。キリスト教の倫理観、教会への敬意や地獄への恐れはあまり感じられない。それはすでに、彼らの生きている世界が地獄だからだろうか。

 
 もっとも有名で、かつもっとも『デカメロン』らしい物語は、「ナスタジオ・デリ・オネスティの物語」だろう。同じフィレンツェ出身の画家、ボッティチェリが4部作の絵画として残している。じつに不思議な絵画である。1枚目では、林の中で、裸の女が犬と剣を持った騎士に追い回されている。2枚目では、女は殺されて背中から内蔵を取り出され、犬に食われている。しかし、その向こうでは1枚目と同じ光景が繰り返されている。3枚目では、麗しい宴のうちに、やはり裸の女と狂気の犬と剣士が乱入してくる。そして4枚目は唐突に、大団円の結婚式。

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http://it.wikipedia.org/wiki/Nastagio_degli_Onesti

 じつに血なまぐさく不可解だが、これは愛の物語である。ナスタジオ・デリ・オネスティは振られ男であった。女に冷たくあしらわれ林の中を傷心で歩いていると、裸の女を追い回す犬と狂気の騎士に会う。しかし、彼らは永遠に殺戮の現場をくりかえす亡霊だ。かつて男を残酷に振った女と、失恋して自殺した男への罰として、男は永遠に愛して憎い女を殺し続け、女は男の剣に倒れて内蔵を犬に食われ続ける。ナスタジオはこのループする幻影たちを思い人に見せる。すると女性は、「男性を残酷に振るとこうなる」と知り、ナスタジオの愛を受け入れる。めでたしめでたし。この絵は、新婚夫婦への祝いとしてつくられた。

 これが中世ヨーロッパの美談である。すさまじい。振られて自殺する騎士も、残酷に振った罰として内蔵を食われる女も、殺戮現場の亡霊たちを思い人に見せるナスタジオも、それを見せられて改心する女性も、それを新婚夫婦に送る富豪一家も、すべてがいかれている。

 『デカメロン』の物語においては、血なまぐささと暴力、愛は切っても切れないようで、恋人の頭部を鉢に入れて泣き濡れる女、娘の恋人の心臓を黄金の杯にいれて娘に送る父親など、人間の心が心臓めいてぬらぬらと光っている。北欧神話『ニーベルンゲンの歌』『オイディプス王』などのギリシャ悲劇やギリシャ神話を読んだときと同じだ。おまえたちの内蔵はこんな色をしているのだぞと、人間の原始的な暴力性と欲の深さをむき出しのまま見せつけられることへ、驚いてしまう。

 『デカメロン』の逸話は玉石混交だが、ときおり特大にいびつな形をしたものがあるからおもしろい。玉か石かは、読んだあとでもわからない。設定から登場人物の脳みそまですべてが噴飯もののくだらなさである「好色な修道士が天使になりすまして悪事をはたらく話」、中世版「聖夜のおくりもの」の「恋に全財産を費やした男が残った最愛の鷹で相手を接待する話」、血玉石のほら話「単純で奇行に飛んだ画家と剽軽な仲間の話」、どこまでも下ネタで押しとおす「細君を雌馬にする魔法が台なしになる話」、スケールの大きさにあぜんとする「羨望のあまり殺意を抱いた相手の鷹揚さに恥じる話」が気にいった。


 デカメロンは、10日すべてのテーマが異なっている。冒頭にタイトルと簡単なあらすじがあるので、気にいったものから読めるのが鷹揚でいい。

1日目:自由テーマ
2日目:さまざまなことに苦められた人がはからずも幸せな結果になったことについて
3日目:望んでいたものを手にいれたり、失ったものを取り返した人々について
4日目:恋が不幸に終わった人々について
5日目:不幸な事件のあとで恋人たちにめぐってきた幸運な事柄について
6日目:他人にいどまれて、見事な返答で危険や嘲弄を逃れた人々について
7日目:婦人たちが恋のために夫を騙したことについて
8日目:騙しあいについて
9日目:自由テーマ
10日目:愛やその他のことで寛大、あるいは鷹揚にふるまった人々について

 寝苦しい夜には、血と汗と涙でできた人間の物語でなぐさめあおう。

われわれがそれを聞いて喜んで大笑いをするのは、善行の話よりもむしろ悪行の話(特にそれがわれわれが犯したのではない場合の)でありますが、そうすることは確かに偶然の悪徳というべきでしょう。しかし、その悪徳が人間の悪い風習のために生じたのか、または人間が生まれつき持っている悪い風習なのか、私にはわかりません。

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『デカメロン』いろいろ

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2012年の最新訳。表紙も美しいが値段も美しい。

ちくま文庫Kindle版。ちくま文庫は最近、絶版ものがどんどんKindle化しているのでうれしい限り。
デカメロン物語 (現代教養文庫ライブラリー)

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抄訳。『デカメロン』の有名な逸話を、イタリアの都市ごとに紹介している。フィレンツェっ子だったボッカチョが自分の都市をひいきにして他はけなし気味である、などの注があっておもしろい。