キリキリソテーにうってつけの日

海外文学/世界文学の感想ブログ。

『ヨブ記』

しかし わたしは全能者に語りたい、わたしは神に抗議したいと思うのだ。

理不尽な神に抗う

神様はあなたたちの行いをすべて見ています、だからいい子でいるのですよ、そうすれば神様は神の国へ迎えいれてくれますと、百歳のシスター・イメルダはくりかえした。教会の幼稚園にかよっていたころ、いたずらをすると百合に囲まれたマリア像の前でひざまずき、わたしたち悪童どもは許しを乞いたものだった。

神への畏怖は道徳教育に組みこまれていたから、呼吸のようにしぜんと身についた。しかし、神の千里眼への恐れや天国への憧れよりも、まばゆい五月の木漏れ日の下で、六歳のわたしは神の存在を確信した。こんなに美しい世界をつくれるのは神しかいないと。無邪気だった。わたしの目には、血で血を洗う闘争も、緑色の目をした嫉妬も、力を欲する弱さも、愛を求める咆哮も、望んで叶わぬ痛みと悲しみも、なにも見えていなかった。


人間はいつかおのれと世界の汚濁を見る。他者からの暴力に驚き、傷と痛みにおののいたとき、神を信じる人間は惑うことになる。

なぜ、すべてを見とおす全能の神がいるなら、これほどの悪と苦しみがあるのだろうか?
なぜ、誠実に生きようとしている自分よりも、他者を利用する悪徳が栄えるのだろうか?
神はつねに正しいから災厄をもたらすのか、それとも神は誤ちを犯すのだろうか?

すべてを神に与えられ、すべてを神に奪われた男ヨブは、神を心の底から信じながら抗議し挑戦するという、およそ人類には不可能なことをやってのけた。

旧約聖書 ヨブ記 (岩波文庫 青 801-4)

旧約聖書 ヨブ記 (岩波文庫 青 801-4)

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『カンポ・サント』W.G.ゼーバルト

写真が人の胸をあれほど衝くのは、そこからときおり不思議な、なにか彼岸的なものが吹き寄せてくるからである。——W.G.ゼーバルト『カンポ・サント』

傍らにいるのだ、死者は

ゼーバルトは、どの町を歩いていてもいずれはの第二次世界大戦瓦礫に漂着するという、希有な難破の才能をもっている。彼は旅にまつわる散文をいくつか残しているが、彼が訪れた土地すべてが地続きのひとつの荒野であるような気がしてならない。

陰鬱な英国の海岸も、陽光ふりそそぐ南のコルシカ島も、第二次世界大戦瓦礫の山も、彼の筆にかかればすべてが「死者がざわめくモノクロームの追憶」となる。ゼーバルトは端から見れば観光客だろうけれど、彼は観光客が見ているものを見ていない。アウステルリッツとは彼だったのだと思い知る。

カンポ・サント (ゼーバルト・コレクション)

カンポ・サント (ゼーバルト・コレクション)

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『ワインズバーグ・オハイオ』シャーウッド・アンダソン

自分以外のものの声が、人生には限界がある、とささやきかけてくる。自分自身と自分の将来について自信に溢れていたのが、あまり自信のない状態に変る。もしそれが想像力ゆたかな青年ならば、一つの扉が無理矢理こじあけられ、生まれてはじめて眼にする世界の姿が見えてくる。  シャーウッド・アンダソン『ワインズバーグ・オハイオ

自意識の箱庭

人間は、見たい自分像を見る。有能な自分、愛され尊敬される自分、社会的名誉を得る自分、異性を惹きつける魅力を持つ自分、凡庸な人たちとは異なる“変わっている自分”を切望する。

だけど現実はだいたいその理想とは違っていて、わたしたちは英雄でも姫君でもないという現実が目の前に立ちはだかる。諦めて現実を受け入れる人たちもいれば、理想のために邁進する人もいるし、目の中に丸太を入れて自分の見たい幻想をこそ「真実」と呼ぶ人たちもいる。シャーウッド・アンダソンは、彼らにとって真実を求める「グロテスクな人たち」の自意識と生態を、架空の田舎町ワインズバーグに書きこんだ。

ワインズバーグ・オハイオ (講談社文芸文庫)

ワインズバーグ・オハイオ (講談社文芸文庫)

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『いちばんここに似合う人』ミランダ・ジュライ

あなたは悪くない。もしかしたらそれは、わたしがずっと誰かに言ってあげたかった、そして誰かに言ってほしかった、たった一つの言葉なのかもしれなかった。 ミランダ・ジュライ「共同パティオ」

孤独の黒歴史

なぜわたしはわたしの人生の主人公なのに、こうもうまくいかないのだろう。運のせいだし、占いの結果が良くなかったからだし、というかすべて社会と元彼が悪い。どうしてだろう、ほかの人はみんな幸せそうなのに。わたしは悪くない。君は悪くない、すべて受けとめる、愛していると言ってほしい。イケメンに優しくしてほしい。結婚したい。ぬこかわいい。

いちばんここに似合う人』を日本ぽく表現してみると、こんな感じになるだろうか。孤独を感じるすべての人の心をえぐりにかかってくる短編集である。天井知らずの理想と自意識と、みすぼらしくひとりぼっちの自分というこの耐えがたい落差を、ジュライは容赦なくあばいてさらけ出す。

いちばんここに似合う人 (新潮クレスト・ブックス)

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『彼方なる歌に耳を澄ませよ』アリステア・マクラウド

山々はわれらをわかち、茫漠たる海はわれらを隔てる――それでもなお血は強し、心はハイランド。 ――アリステア・マクラウド『彼方なる歌に耳を澄ませよ』

血は水よりも濃い

スコットランド人に会ったら、まず言われること。イングランドスコットランドを絶対に言いまちがえてはいけない。料理がまずいのはイングランドであって、スコットランドを一緒にしないでほしい。ハギスとウィスキーとバグパイプは最高だ。そして、イングランドスコットランドを絶対に言いまちがえてはいけない。

日本人にとって「英国」という国はロンドンやイングランドのイメージとつながりがちだが、ブリテン島の北半分はスコットランドが占めている。スコットランドは英国連邦内にとどまりながらほぼ独立国家であり*1、そのアイデンティティと誇り高さは上記の言葉にも現れている。

海を数千キロも隔てたカナダのケープ・ブレトン島に住むアリステア・マクラウドの祖先は、こういう土地から来た人々だった。6代たってもなお、彼らはゲール語で話し、ゲール語の歌を歌い、バグパイプのCDを鳴らし、フィドルを弾きウィスキーをかっくらいながら踊る。それでもなお血は強し、心はハイランド。これは、血と塩と氷でできた一族の物語である。

彼方なる歌に耳を澄ませよ (新潮クレスト・ブックス)

彼方なる歌に耳を澄ませよ (新潮クレスト・ブックス)

*1:2014年は独立投票で世界中の注目を集めた。

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