ボヘミアの海岸線

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『ロクス・ソルス』レーモン・ルーセル

 再び切子面の前に立った私たちは、緋色の軽い丸い玉が水中に落ち、ゆっくり沈んでゆくかと思うと、突然、肌がばら色で、毛のない例の動物が、それを通りすがりに飲みこむのを見た。カントレルは、この動物は、すっかり毛を抜き去った本物の猫で、コン=デク=レンという名前だと言った。アカ=ミカンス――先生は、私たちの眼前の、きらきら輝く水をこう呼んだ――は、特殊な酸化作用の結果、さまざまな珍しい特性をそなえており、とくに、純粋の地上の生物が、その中ではなんの不自由もなく呼吸できるのだった。——レーモン・ルーセル『ロクス・ソルス』

想像力の乱反射

 ロクス・ソルスとは、ラテン語で「人里離れた場所」という意味である。なるほど、この魔法じみた響きをもつフランス郊外の屋敷には、魔術師のような科学者が住むのがふさわしい。

ロクス・ソルス (平凡社ライブラリー)

ロクス・ソルス (平凡社ライブラリー)

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『イカロスの飛行』レーモン・クノー

イカロス ぼくの時代には、令嬢は青年に恋を打ち明けたりしなかったもんだが。
アデライード 近代小説にはそういうことも書いてありますわ。
イカロス ああ、ぼくは読者というより読まれる方なんで。

——レーモン・クノー『イカロスの飛行』

空を目指した

 ウリポのレーモン・クノーが残した、最後の長編小説。
 ギリシャ神話のイカロスは、蝋の翼を使って牢獄から脱出し、高く飛びすぎたあまり墜落死した、悲しき運命の青年である。クノーが描くイカロスは、19世紀末のパリをさまよう青年だ。彼もまた、囚われの身の上である。捕えているのは小説家のユベール、イカロスを主要登場人物にして、なにやら憂鬱な人生の小説を書こうとしている。

イカロスの飛行 (レーモン・クノー・コレクション)

イカロスの飛行 (レーモン・クノー・コレクション)

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『ユビュ王』アルフレッド・ジャリ

ユビュ親父
 そうかも知れん。だがわしは政府を変えちまったし、今後はすべての税金を二倍にふやし、指定された者はとくに三倍の税金を支払うよう、官報で通告したのじゃ。かかる方法によって、わしは速やかに大金持ちとなり、かくしてありとあらゆる者を皆殺しにしたあげく、おさらばしようと思っておる。

——アルフレッド・ジャリ『ユビュ王』

くそったれ!

 先日見にいったシュルレアリスム展でマックス・エルンスト「ユビュ皇帝」を見た。赤い体にコマのような足、「この奇怪な王は何者だ」と興味がわいて読んでみた。

 1896年、パリでの『ユビュ王』初演は、それは大スキャンダルだったらしい。主人公ユビュ親父による第一声「MERDRE!(くそったれ!)」に劇場は蜂の巣をつついたような大騒ぎになり、初演後の新聞には賛否両論(主に批判が多かったが)が飛び交ったという。

 だが、結果として、本作によってジャリの名声は高まった。“法王”アンドレ・ブルトンを筆頭としたシュルレアリストたちに『ユビュ王』は熱烈に受け入れられ、ムンクやルオー、エルンストなど名だたる画家たちがくそったれなユビュ親父の肖像を残している。

ユビュ王 (1970年)

ユビュ王 (1970年)

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『ブルターニュ幻想民話集』アナトール・ル=ブラーズ

 プレスタンに住んでいた老人が、ある盤、ドゥーロン川の土手で一人の女と出会いました。お女は土手に腰かけ、川を見つめていました。過疎の村ランムールを去ってラニオンへ行く途中でした。
 女は、「ねえ、おじいさん! 私を型に乗せてこの川を渡していただけないかしら? お礼ははずむわ」と叫びました。見知らぬ女でしたが、頼みに応えることにしました。
 女を肩に乗せて川に入りました。しかし進むほど肩に重く伸しかかってきます。流れは激しく、とうとう我慢できずに、「もうだめだ。あんたを手放しますよ。溺れ死にたくはないんだ」といいました。
 「お願いだからそれはやめて。それだったら引き返して頂戴」
 「分かった」
 岸が近くなるに従って女が軽くなったので、大した苦労ではありませんでした。 
 こうしてラニオンの町はペストから守られたのです。もし老人が川の真ん中でおぞましい妖精を放り投げていたら、この疫病は世になかったことでしょう。


 「肩に乗せてペストをもってきた男」  (話し手、我が父、N=M・ル・ブラーズ)

川のほとりに死神

 フランスの柳田國男ことアナトール・ル=ブラーズが収集した、ブルターニュに伝わる「怪奇民話」97話。
 フランスの北西部ブルターニュ地方は、ブリテン島からやってきたケルト人の末裔ブルトン人が暮らす土地だ。人々はブルトン語を話し(今ではフランス語がかなり通じるらしい)、言語も風俗もフランスのそれとは異なる。

 死者や死神、悪魔らが跋扈するケルト世界と、カトリックの信仰世界が、時にぶつかり時に混じり合う。キリスト教に死霊や死神は出てこないはずだけど、ブルターニュ民話はおかまいなしにまるっと融合させている。

ブルターニュ幻想民話集

ブルターニュ幻想民話集

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『砂の都』マルセル・ブリヨン

[砂に埋もれた記憶]
Marcel Brion La Ville de sable,1976.

砂の都

砂の都

 わたし自身、母岩から砂を払いのけられた真新しい人間ではないのか。それとも、砂の奥底に潜んでいた墓のなかから、風が外へ出してくれた、ごく昔の人間ではないのか。


 砂の中から現れ、また砂の中に消えた、幻のような都の記憶。マルセル・ブリヨンは考古学や歴史学に明るい人物だったらしい。なるほど、この物語に懐かしい異国情緒を感じるのはそのためかもしれない。彼が描く砂漠の手触りはどこかやさしく、浪漫を含んでいる。


 舞台は近代、中央アジアの砂漠。マニ教の洞窟を調べるためにやってきた考古学者が、砂嵐に巻き込まれて洞窟へと逃げ込む。嵐は長く、いく日経ってもやまない。やがて風は過ぎ去って、膨大な砂を押し流した。考古学者は、砂の中から現れた古代の都市を目の当たりにする。
 この長い砂嵐のシーンが、物語のひとつの軸となっている。だんだん時間の概念がかき消え、夢想が頭をめぐる間、世界はゆるりとその姿を変える。主人公が洞窟を出て、幻の都市に向かって石段を降りていくシーンは、『不思議の国のアリス』のほら穴、あるいは『雪国』のトンネルのように、異界への移動を予想させる。


 さて、主人公である考古学者だが、「幻の都市」を前にしてほとんど考古学者らしいことをしていないのが興味深い。学問的好奇心はどこへやら、しごくあたりまえに都市の端にもぐりこみ、水を浴びてバザールで食べものを買い、いつの間にか言葉を覚えて友人や嫁といった人間関係を築いていく。『エペペ』の主人公(こちらも学者だ)が、ファンタジックな異国の現地ルールにいつまで経ってもなじめず、自分の知識を総動員してもがきまくったのとは対照的だ。

 彼は、息を吸うように自然に「都市の一部」となる。絨毯屋は次々に黄色、緋色、褐色が豊かな絨毯を広げてみせて、金銀細工師はメノウの指輪を見せて「持っておいきなさい」と言う。街角では、講釈師や<しるしの母>といった、どこか達観した人々が謎めいた言葉を吐いている。そんな日常が淡々と続く。
 時という名の砂は静かに降り積もるが、読み手はその静かさゆえに気づかない。どれほど時が経っているのか、この都市はどこから来ているのか……。読み手も考古学者も、すんなりと都市の日常を受け入れる。「その存在を疑わない」、この態度は神秘にはやさしいが学問的ではない。だからこの本は、どこまでも「幻想小説」なのだと思う。


 「あのセリフが印象に残った」「あの場面がよかった」といった、明確な印象を残す物語ではない。だが、「幻を見た」という茫漠とした記憶は残る。
 砂時計のような物語だと思った。読者は最初のページをめくった時に、現実と幻想をひっくり返す。幻想の都市は現実となるが、時が経つにつれてまた砂の中に埋もれていく。そして最後の一粒が落ちた時、物語は終わり、夢もまた終わりを告げて、ゆらりとかき消える。

 われわれの人生は、片時に流れる砂より大きいのだろうか、または優れているのだろうか。諸世紀の重要性は、砂時計を一度ひっくり返す以上のものだろうか。


recommend:
ブッツァーティ『タタール人の砂漠』……吹き抜けるように時は過ぎゆく
エドモン・ジャベス『問いの書』……砂漠のような言葉を吐き続ける。
シュペルヴィエル『海に住む少女』……フランス生まれの幻想。

『夜間飛行』サン=テグジュペリ

[影の中の一つの星]
Antoine-Jean-Baptiste-Marie-Roger de Saint-Exupery Vol de Nuit,1931.

夜間飛行 (新潮文庫)

夜間飛行 (新潮文庫)

 ――天候いかが?」彼は無線で搭乗員に尋ねさせた。
 十秒ほど時間が過ぎた。
 ――快晴」と、返信が来た。


 小さい頃の私は、夜のライトを見ると興奮して走り出す奇癖があったらしい。ちびっこのすばしこさに手を焼いた親は、人ごみにまぎれて見失わないよう、子供の背中に風船をくくりつけた。私は夜が来るたび、オレンジ色の街燈、赤いテールランプ、遠くに見えるカフェの窓に灯る光に向かって走り出したそうで。風船をくくりつけられなくなった今でも夕暮れ時を愛するのは、それぞれの光が「そこに誰かがいる」ことを示しているからかもしれない。


 夜を飛び星に墜落した男、サン=テグジュペリが残した傑作。本書について私が語れることはそう多くない。登場人物やあらすじはもちろん興味深いが、本書ではやはり、青い鉱石みたいな美しい世界描写を堪能したい。

 山はただ動かずそこにあるのではなく、飛行士に向かって脈打って尖ってくる。星は瞬きながら沈黙の信号を送り、無線は受信者知らずのメッセージを持って夜空を横断する。

 彼がその機の翼で一礼して行き過ぎようとすると、この船とも見える一軒家は、牧原のうねりのなかに人間の積み荷を乗せて、後方へと走り去るらしかった。

 ついで、あらゆるものがとげとげしくなった。山々の背も、峰々もすべてが尖ってきた。船首のように、強い風に、それらが突き刺さっていくと感じられた。


 「光」の物語なのだと思う。人は灯りを眺めることで他者の存在を知り、その遠さを知って己の孤独を知る。人を恋しく思うが、地上に混ざり切れない距離感と孤独がそこにはある。

 夜はすでに、黒い煙のように地表から昇ってきて、谷間々々を満たしていた。平野と谷間の見分けがもうつかなかった。早くもすでに、村々には灯火がついて、彼らの星座は、お互いに呼びかわしていた。

 それぞれの家が、その星に点火して、これを巨大な夜に向けた、海に灯台の火を向けるように。

 天上には星が、地上には家々が灯す星がある。飛ぶファビアンや戦うリヴィエール、耐えるロビノー。それぞれの星に愛着を持ちながら、それでも孤独を抱えて飛ぶ、この不器用な世界への相対方法が好きだ。


 夜のそっけなさにに焦がれる人間だからこそ、灯りを求める心も強い。嵐に巻き込まれ、自分の手すら見えない真っ黒な闇に飲まれたファビアンが、光を求めて雲の切れ間に向かって上昇するシーンはただ圧巻のひとことにつきる。上れば燃料は切れる。だが、ファビアンはどこにも見えない地上の星よりも、空の星を求めて上昇した。なんと極上な死刑宣告。彼は雲の上で静寂の世界を知り、星に向かって音もなく墜落した。


 そういえば、読んでいる途中で本書がどこかに消えた。地上に飽きて飛んでいったのかもしれない。そんなわけで、今回の感想はかろうじて地上に残っていた覚書がもとになっている。

 さて、こうして夜警のように、夜の真っただ中にいて、彼は、夜が見せている、あの呼びかけ、あの灯、あの不安、あれが人間の生活だと知るのだった。


recommend:
メルヴィル『白鯨』……世界という名の鯨と対峙し、そして負ける。
バタイユ『空の青み』……硬質な夜の美しさ。


追記:
 最近、光文社古典新訳文庫でも『夜間飛行』が出た。人気のある作品だから、いろいろな出版社が出したいのは分かるのだけど、これはやさしい訳文より堀口の美文で読みたい作品だと個人的には思う。

夜間飛行 (光文社古典新訳文庫)

夜間飛行 (光文社古典新訳文庫)

  • 作者: アントワーヌ・ドサン=テグジュペリ,Antoine de Saint‐Exup´ery,二木麻里
  • 出版社/メーカー: 光文社
  • 発売日: 2010/07/08
  • メディア: 文庫
  • 購入: 2人 クリック: 19回
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『パルムの僧院』スタンダール

[愛を中心に、踊れ世界]
Stendhal La Chartreuse de Parme,1839.

パルムの僧院(上) (新潮文庫)

パルムの僧院(上) (新潮文庫)

パルムの僧院(下) (新潮文庫)

パルムの僧院(下) (新潮文庫)

「こんなことを笑いながら話すのはまちがっている」


 イタリアに恋する作家が、イタリアで恋する人々の群像劇を書いた。「愛」を中心に、小さな世界で人間がぐるぐる踊る物語。

 スタンダールはイタリアが本当に好きなんだなあと思った。とにかく、人物全員がそれぞれ自分の思うままに生きていて、きらきらしている。「え、そんなんでいいの?」と思う場面が多々見受けられるが、そんな些細なつっこみを無効化できそうな、物言わぬ迫力がある。読んでいて、『源氏物語』を思い出した。主人公(貴族)をめぐる恋愛が、政治のトリガーになるところが似ている(というか、貴族政治のころは「愛憎」が政治の原動力となっていたのかもしれないが)。


 主人公の貴族青年ファブリスは、ナポレオンを崇拝して戦争に参加するが何ひとつできなくて帰国するという、典型的な坊ちゃん貴族だ。ファブリスはパルム公国で、ファブリスは叔母のサンセヴェリーナ公爵夫人と再会する。
 この「サンセヴェリーナ公爵夫人」というキャラクターが強烈だ。愛嬌と華がある非常に魅力的な女性で、王様や伯爵などの権力を持つ男性の心をしっかりとつかんでいる。そんな彼女は、かわいい「甥」であり立派な「青年」であるファブリスを、これでもかというほど熱愛している。そして、彼のために自分の魅力を利用して、政治を動かすよう権力者に迫っていく。
 サンセヴェリーナ夫人の恋人である伯爵の独白が印象的。

 偶然一つの言葉がお互いに感じていることに名を与えるなら、万事おしまいだ。
……<今ここでも俺はterzo incomodoにすぎない(美しいイタリア語は恋のために作られている)。Terzo incomodo(邪魔な第三者)! 才知ある男が、そんないやな役割を演じていると知るのは悲しい。しかも、立ちあがって帰ってしまえないなんて>

 サンセヴェリーナ夫人もファブリスも、かれらの愛が「肉親愛」なのか「異性愛」なのか分かっていない。しかし傍目八目、伯爵は気づいてしまった。

 下巻から物語は加速する。ファブリス青年の殺人にまつわる政治的取引、さらには獄中恋愛に不倫――「恋愛」を中心に国と政治はめぐる。
 ファブリス青年は常に「幸福」を追求していた。自分の心のおもむくままに、誰かを愛して行動する。誰も彼も「もっと考えて動けばいいのに」と端から見ていると思う。しかし、理論よりもまず感情で動く彼らは、ある意味で非常に人間なのだと思った(というか、何よりもまずイタリア人)。

 10代のころには「へえ」としか思わなかった、伯爵の苦悩と献身が印象に残った。報われない愛、さてそれも愛か。

recommend:
トルストイ『アンナ・カレーニナ』…恋と陰謀と社交界。
シェイクスピア『十二夜』…貴族の三つ巴。

『水いらず』サルトル

[生きるために死ぬことについて]
Jean-Paul Charles Aymard Sartre Intimite, 1937.

水いらず (新潮文庫)

水いらず (新潮文庫)


 この前、風の文字がつくバーで、隣のおじさんたちが「サルトルかカミュか」論争を繰り広げていた。実存主義、マルクス主義が一世を風靡する時代に青春を送った人はなら必ず出会ったであろう会話に、まさか自分が立ち会うとは思わなかった。「ぼくはねえ、あの頃からカミュ派だったんですよ。サルトルは好きじゃなかった」と、赤ら顔のおじさんは言う。

 「実存は本質に先立つ」「アンガージュマン」など、サルトルをめぐる言説は一通り読んだけれど、なんというか、どうもいまいち肌になじまない。全体的に漂う坊ちゃんくささに辟易しているのかもしれない。マロニエの木の根に吐き気を催す本は、最後まで読まなかった。
 というわけで、わたしの中でのサルトルの位置づけは、じつに微妙である。で、今回もやっぱりいろいろとつらかった。読み応えがあったのは、「壁」「エロストラート」ぐらいなものだろうか。肉体への嫌悪を示す「水いらず」「部屋」は、正直もういいよという感じ。
 
 「壁」は、戦争で捕虜になった男が、自分の死と他人の命を天秤にかけて、自分が死ぬことに決めた話。死ぬのを決めた途端に、世界が希薄になって、死を部屋のあちこちに感じとるようになる。

自分は他人をも自分自身をもあわれむことはできない。きれいに死にたい、わたしは心にそう言った。

 そういえばかつてわたしの傍に、うまく死ぬことばかりを考えている人がいた。自尊と自虐と、執着と無関心が同居するような男だった。読んでいて、久しぶりに彼のことを思い出した。命には価値がないと言いながら、自分より他者の命を優先させる。つまりこれは意地である。「エロストラート」は、ラスコーリニコフのように、犯罪によって自分を高めようとする男の話。これもまた、自尊と自虐に強烈に縁取られた心情を描く。
 彼の作品が不条理ではないと思うのは、ラストが両方とも明るいからだ。カフカのような惨めな犬死にがない。「きれいに死にたい」とか言っちゃったり、最後に楽天的になるあたり、やはりサルトルはお坊ちゃんだと思う。
 サルトルは、哲学史で読むぐらいでちょうどいいんじゃないだろうか。時代の寵児であったことは確かだし、実存主義の主張を知るには、彼の哲学は外せない。しかし海外文学としてはどうだろう? 
 やっぱり今回も微妙だったサルトル。たぶんわたしの中で、彼はずっとそういう位置付けなのだろう。


recommend:
サルトル/カミュ「革命か反抗か」…革命はついに成らなかった。
セリーヌ「夜の果てへの旅」…「ノン」を突きつける。

『異端教祖株式会社』ギョーム・アポリネール

[わたしは信じる]
Guillaume Apollinaire, L'Heresiarque et Cie,1910.

異端教祖株式会社

異端教祖株式会社

かれは心の底で、このようにして、いつかカトリシスムに代わるに違いない輝かしい一宗派を、自分は準備しているのだと思っていた。あらゆる異端の教祖がそうであるように、彼も教皇の無謬の教義を認めず、自分こそ神から教会改革の権力を授けられたもの、と信じて疑わなかった。  (「異端教祖」より)


 ピカソ展やシュルレアリスム展に行くと必ず見かける「アポリネール」の名だが、彼がこんな小説を書いているとは知らなかった。
 ローマ生まれ、ポーランドの血を引く作家による異色短編集。タイトルからして度肝を抜く本書、掲載されている短篇すべて「異端だらけ」という、なかなか名前負けしない本である。中身をのぞきこまれないか、ひやひやしながら読了。
 そもそも「宗教=うさんくさい」というイメージが定着している日本において、「異端」とくれば際物扱いの何者でもないだろう。いや実際に登場人物たちはもれなくクレイジーなのだが、「信仰とは何か」というテーマを浮き彫りにしたクラシックな作品でもある。
 宗教には絶えず「正統」と「異端」が存在する。宗教の定義はさまざまあるが、根本は「信じる心」だと思う。宗教システムへの信用がほとんど失われた現代でも、人はなかなか信じることはやめられない。数学者は「世界を数式で解き明かせる」と信じているし、無神論者は「神がいない」と信じている。人間として生きる上で、なんの信仰も持たないで生きることは、じつはとても難しい。
 で、異端の話。誰もが何かを信じるなら、それが社会一般で決められている「正統」とずれることは往々にしてある。本書の登場人物たちは、誰もが何かを信じているが、対象がことごとく「正統から外れた異端」である。


 「異端教祖」「涜聖」「教皇無謬」などは、正統カトリックからスピンアウトした神父の話。「三位一体」はゴルゴダで磔刑にされた2人の強盗とキリストなんじゃないかと神父が考える、じつに由緒正しい「異端」ぶり。
 「プラーグで行き逢った男」「オトゥミカ」「ヒルデスハイムの薔薇 あるいは東方三博士の財宝」「ピエモンテ人の巡礼」では、ある自分の妄執に取りつかれた人々が、そのまま自分の信念に基づいて突っ走る。「プラーグで行き逢った男」は、何千年も生きていると自称し、死に間際に「また例の時が来た。90年か100年ごとにかかる病気だが、すぐに治る」と言ってぶっ倒れる。実際彼が本当に長寿の人間だったのかなんて分からないけれど、この放り投げられるようなシュールな感覚はなかなかおもしろい。「オトゥミカ」は、男が女を誘拐して妻にするという風習である。本当にこういう風習あるのかな。恋に思いつめた男をなぐさめ知恵を与えるのは神父なのだが、略奪と強姦って思いっきりキリスト教義に違反してるよね? うーむ狂ってる。
 「ケ・ヴェロ・ヴェ?」は歌うたいのハンサム・ボーイが恋愛沙汰で人を殺して逃げる話。多くの会話が「ケ・ヴェロ・ヴェ(何をお望みかね)?」「ケ・ヴェロ・ヴェ(何をお望みかね)?」と歌のように繰り返される。いかにもフランス。
 「オノレ・シュブラックの失踪」「アムステルダムの船員」「贋救世主アンフォイフォン」は、奇想系。ポーぽいかもしれない。「アンフォイフォン」は、悪役の活劇譚で、「巨匠とマルガリータ」を思い出してなかなか楽しく読めた。最後のオチがいかにもシュールだったけど。
 地味に変なのが「徳高い一家庭と負籠と膀胱結石の話」。題名からいかれているが、中身もやっぱりいかれている。説明らしい説明もなく突き抜ける雰囲気はただものではない。人生で一番送られたくない指輪ナンバーワンは間違いなくこれだろう。

 シュルレアリスム、奇想シュール系が好きな人におすすめ。必ずどこかで「いかれてやがる……!」と叫べること請け合い。


recommend:
エドガー・アラン・ポー『黄金虫、アッシャー家の崩壊他9篇』…奇想の系譜。
アンドレ・ブルトン『ナジャ』…シュルレアリスムの先駆者。
シオドア・スタージョン『海を失った男』…ぶっ飛び系。唐突さと突き放し方の雰囲気が似ている。

『空の青み』ジョルジュ・バタイユ

[愛と死と]
Georges Bataille Le Bleu du Ciel,

空の青み (河出文庫)

空の青み (河出文庫)

暑かった。額の汗を拭った。すがりつける神を持った人々が羨ましかった。彼らにひきかえ私ときたら・・・・・・もう間もなく「目はただ泣くため」ということになるのだ。


バタイユの作品は、空のイメージに通じている。「目玉の話/マダム・エドワルダ」でも触れたけれど、あらためてそう思う。

自堕落な生活を送る男の恋物語である。彼は「不吉の鳥」と呼ぶ複数の女性たちと関係を持ちながら、その実、一人の女性を崇拝に近い心で愛している。だけど彼女は彼を捨てる。男はますます自分を堕落に追いつめていく。・・・

不思議な本だ。けっこう赤裸々なことが書いてあるわりには、どろどろしていない。主人公は、心から執着する女性ダーティの前でだけ不能になるらしい。その理由を、彼は比喩的な意味で「自分は死体でないと反応しない」と分析してみせる。これだけ見ると「自堕落な変態」と思いそうなものだが、不思議とあまり嫌悪感がわかないのだ。

愛の隣には常に「死」がひそめいている。自身を追いつめるような自堕落な生活に、スペインの戦争。死はいつも身近にある。バタイユの持ち味は、死に対する愛だと思っていたけれど、死と愛はむしろ同義、明確な境界線を持たないように思える。死に近づけば近づくほど、愛情もより深くなっていくらしい。墓場でのラブシーンは、まさにその極限ともいえるか。

硬質なロマンのある作品だと思った。酒におぼれ、倒錯的な性をさらけ出しながらも、むしろ純粋さが際立つ不思議な雰囲気がある。電話が鳴るのを死にそうな気持ちで待ったり、彼女に会うことが想像できなかったり、敵意のこもった幻滅感があり、一人で泣きに行ったり。心が粟立って振り切れる、コントロールのきかない恋心。青くさいといえば青くさい。だけど甘ったるくないところがいい。

空の青さに、無意味に泣きたくなる。こんな陳腐と紙一重の表現を、ここまで美しく描いてみせるのは、さすがバタイユといったところ。不吉であるが、純情である。こういう恋もたぶんある。


ジョルジュ・バタイユの作品レビュー:
「目玉の話/マダム・エドワルダ」


recommend:
硬質なロマン。
ラディゲ『肉体の悪魔』…魔につかれた激情。
>サン・テグジュペリ『夜間飛行』…空と星と。

『愚者が出てくる、城寨が見える』マンシェット

[たやすくない獲物]
Jean Patrick Manshette O Dingos, O Chateaux!,1972.

愚者(あほ)が出てくる、城寨(おしろ)が見える (光文社古典新訳文庫)

愚者(あほ)が出てくる、城寨(おしろ)が見える (光文社古典新訳文庫)

  • 作者: ジャン=パトリックマンシェット,Jean‐Patrick Manchette,中条省平
  • 出版社/メーカー: 光文社
  • 発売日: 2009/01/08
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「なんていかれた女なんだ!」「本当にな」


 誘拐で被害者としてうってつけなのは、女性と子供であろう。犯罪者が頑強な男ならなおのこと、女性や子供は、腕力では男にかなわずに連れ去られる。たやすい獲物としての主人公ジュリーと金持ちの甥の少年ぺテール。しかしこの物語では、獲物はちっともたやすくない。むしろ、こいつらがもっとも手強い。

 フランスの「ロマン・ノワール=暗黒小説」がどんなものかと思って読み始めた。ハードボイルド、硬派な文体の犯罪小説の体裁だが、なぜか出てくる人間が全員いかれている。子守として雇われたジュリーは、精神病院から出てきた警察嫌い。ギャングにさらわれて逃げるのだが、その道程中は、ギャングよりやっていることがひどい。いったい何人殺したんだ、このお嬢さん。キレっぷりがすごすぎる。一方で、殺し屋は胃痛持ちで、銃を握るたびに胃が痛む。逆にこちらは、殺し屋なんかやらずに、農園やっていた方がよさそう。

 狂いっぷりのイメージとしては、こんな感じ↓。
 ジュリー(子守の女性)>慈善家>建築家=殺し屋>ギャングの下っ端>子供
と思ったら、実は子供の位置が、最後で変わる。

 小説のイメージは、題名を見ると分かるかもしれない。本題の直訳は『おお愚者よ!おお城よ!』。愚者というのは全員で、城というのはジュリーたちが逃げ込む迷宮のような家のことを指す。著者の執筆中は、『たやすい獲物』という題名だったらしい。どこがたやすいんだどこが、という、殺し屋のつっこみが聞こえてきそうだ。

 最初から最後まで、読者はある一定の距離をとらされる。犯罪被害者は、同情しようにもしきれない、犯罪者組の方がむしろあわれになってくる。かなり戯画っぽくエッジをきかせたドタバタ話という印象。映画にしたらおもしろいだろう。


recommend:
>荒木飛呂彦『ジョジョの奇妙な冒険』…読んでいる時ずっと、ジョジョの効果音が脳内に響いていたもので。善悪の判断が一様でないところや、エッジのききっぷりは似ているような気がする。

『調書』ル・クレジオ

[透徹した省察]
Jean-Marie Gustave Le Clézio Le Procès-verbal, 1963.

調書

調書

大地はオレンジのように青い。


 2008年ノーベル賞作家 クレジオの、23歳時の処女作。
 軍隊から出てきたのか、それとも精神病院からなのかよくわかっていなかった男の話。著者いわく、「仮に小説の主人公が最後の章で死ぬか、そこまで行かなくても、パーキンソン氏病に冒されでもしたら、悪口雑言に充ちた無署名の手紙の洪水が私を襲う、そんな小説をいつの日か書くこと」。


 読み手を選ぶタイプの本だと思う。手からこぼれ落ちるような話だった。主人公アダム・ポロが、裸で日がな一日日向ぼっこをして、いろんなところをふらふら回り、たまに手紙を書いたりするという、それだけの話である。読むのを、何度挫折したかしれない。ちっともなじめないのだが、それがこの本のスタイルなのかなと思った。あえて、なじませようとしないこと。

 なんでこう感じたかというと、世界をどう見るかという視点、重点の置き方が違うからなのだと思う。世界の中心に自分がいて、そこから自分の世界を構築する人がいる。一方で、広大な世界の中に放り出されて、絶えず世界と自分を対置させていこうとする人がいる。たいていの人は前者だが、アダム・ポロは後者に属している。

 アダムが世界を眺める視点は、どこか普通と違っている。ねずみを殺しながらねずみになったり、ライオンを見ながらライオンになったりする。世界との同化がある一方で、異質な世界は読み手から剥がれ落ちる。アダムの目線は、人間の境界をゆるりと越えてない交ぜにする。ない交ぜになりながら、それにうっとりするのだ。見ているこちらはうっとりできない。この本が、なじめない人にとってはなじめないまま終わるのは、たぶんここらへんなんだろうと思う。逆に、世界の見方が他者と違うと自覚している人には、世界に対する態度の「ズレ」に、かいま見るものがあるのだろう。

 精神分析やレッテルへの批判、神の不在、物語による世界の整列への抵抗、実存主義の系譜、こういったものがいろいろと展開されている本なんだろうと思う。

 おもしろいなと思ったのは、池澤夏樹氏の「アダム・ポロは僕だと思った」という発言。それはそうとうな根性がいるような気がするのだが、確かになっちゃんはアダム・ポロと同系譜上にいる気がする。(『スティル・ライフ』あたりとか)「大地はオレンジのように青い」という言葉に対して、どういう態度をとるかという話なのかなと思う。
いつか再読したい。もしくは、もっと別のクレジオの本を読むとするか。

「そういったものは何の役に立つんですか、そういう神秘主義のなには?」
「なんにも。なんにも。まったくなんにもです。」

「もうわかろうとすることなんかやめてください」


recommend :
>池澤夏樹『スティル・ライフ』…遠い世界に重点を置く男の話。
>カミュ『異邦人』・・・他者との異質さ。
ダニロ・キシュ『砂時計』…残された手紙。

『巴里の憂鬱』ボードレール

[雲を愛す]
Charles Pierre Baudelaire Le spleen de Paris ,1869.

巴里の憂鬱 (新潮文庫)

巴里の憂鬱 (新潮文庫)

  • 作者:ボードレール
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1951/03/19
  • メディア: 文庫


 19世紀フランス詩人による、散文詩。アンニュイという言葉が似合うボードレールの詩と、三好達治の漢語めいた美文が合わさって、じつにクラシックな仕上がりになっている。

 「パリの憂鬱」ではなく、「巴里の憂鬱」である。このことからも分かる通り、本書にはほとんどカタカナが出てこない。「瓦斯灯」とか「硝子」はまだしも、「麺麭」「恰も」「阿諛」「大廈高楼」あたりになると、ちょっとした漢字検定のよう。「阿諛」なんて言葉、はじめて見た。

 以下、気に入ったものの一口感想。


「異人さん」:まずはこれから。これ立ち読んで気になったら、買っても損はないと思う。

「けしからぬ硝子屋」:これは印象的だった。ラストの映像美がやばい。けしからんのはお前だ、というつっこみは不在。

「時計」:「中国人は猫の眼のうちに時間を読む」。この一文がいい。

「スープと雲」:「異人さん」と対で読むと、ボードレールの美意識の一端が見える。

「貧民を撲殺しよう」:すごいタイトル。ドストエフスキーの「罪と罰」の発想。

「寛大なる賭博者」:あの有名な悪い人とおしゃべり。

「どこへでも此世の外へ」:「この人生は一の病院であり、そこでは各々の病人が、ただ絶えず寝台を代えたいと願っている」という名高い一文がある。


 物語に酔うのも魅力的だが、言葉に酔ってみるのもまた良し。ちょっと読みにくい部分もあるが、海外文学&日本語大好き、という人にはおすすめ。


recommend:
日本語と訳者の絶妙なるコラボレーション。海外文学なのに日本文学。
上田敏『海潮音』…ヴェルレーヌ、マラルメ、ボードレール。フランスの同時代の作品を読んでみる。もはや上田作品だけど、日本語がすばらしい。
ボードレール『悪の華』…堀口大學訳。こちらも名訳と誉れ高い。
井伏鱒二『厄除け詩集』…こちらは中国詩。「さよならだけが人生だ」という、有名な詩はこちら。(知っている人の半分は太宰ファンなのでは)

『カリギュラ』アルベール・カミュ

[不可能!]
Albert Camus Caligula ,1944.

アルベール・カミュ (1) カリギュラ (ハヤカワ演劇文庫 18)

アルベール・カミュ (1) カリギュラ (ハヤカワ演劇文庫 18)

  • 作者: アルベール・カミュ,Albert Camus,内田 樹(解説),岩切正一郎
  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 2008/09/25
  • メディア: 文庫
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 月を手に入れようと手をのばしても、願いは叶わない。ならば?

 カミュによって『異邦人』『シーシュポスの神話』とともに、「不条理三部作」と位置づけられた戯曲。2007年に、小栗旬主演、蜷川幸雄演出で公演した舞台で、話題になった。ハヤカワのすごいと思うレーベル「ハヤカワ演劇文庫」から出ている。なにがすごいって、恐ろしくニッチであろう分野をレーベルとして、しかも文庫として出してしまうこの漢気。

 カリギュラは実在のローマ皇帝で、悪役の権化として名高いネロと並ぶ暴君とされている。いわゆる暴君の中の暴君を、本書は題材にしているわけだが、カミュはさすがカミュであり、ただの狂人としては描かない。カリギュラは、前後不覚の狂人ではなく、理性をもった上で、きわめて論理的に狂ってみせる人間として描かれる。

 月を手に入れたいと、手をどれだけのばしても、それは不可能だ。だけど、カリギュラは全力で手を伸ばす。持てる力の限りを尽くして、「不可能」に挑もうとする。あまりにちっぽけな人間は、世界に対してどれほどの抵抗力も持たないが、カリギュラには権力があった。だから権力を全力で使う。「死ね」と命令し、「国を飢饉にする」と言い放って実行する。

「私は論理に従うことに決めた。私には権力がある。論理がどれほど高くつくか、お前たちはみることになるだろう」

 命はどうでもいい。自分のものも、他者のものも、等しくどうでもいい。だから殺すし、自分の死もなんとも思わない。ここらへんのロジックの立て方がすごい。極めて論理的に正当で、ある意味平等精神だが、結果としてはやはり大いに狂っている。

 カリギュラは、世界に抵抗するひとりのちっぽけな人間だが、また他者へ降りかかる「災厄」ともなる。『ペスト』では、人々を強制的に、死の名のもとにまっ平らにする災厄は、「ペスト」という病気だった。病気はそれ自身の意思を持たない。またそれに立ち向かうことに、罪の意識はない。しかし、『カリギュラ』の場合、まっ平らにするのは「一人の人間」である。
 圧倒的質量をともなってせまってくる悪、恐怖に、人はどのように、どのような理由をもって立ち向かうか?人民のため、愛する人のため、利益、自分の存在のため。いろいろ理由はあるが、要するに自分の存在のために、他者の存在を殺すことに変わりはなくて、それぞれの人がそれぞれの選択をしていく。

 いろいろと壮絶だった。やっぱりカミュは好きだ。『異邦人』が、その短さのせいか、よくカミュ入門編のように言われるが、『カリギュラ』の方がいいと、個人的には思う。短い作品で、カミュらしい。倫理とか常識とかでごまかしきれない淵まで、穏やかに、しかし鋭く突きつめてくる。
世界は容赦もなく、呵責もなく。

『人間ぎらい』モリエール

[みんな嫌いだ!]
MolièreLe Misanthrope ou l'Atrabilaire amoureux、1666.

人間ぎらい (新潮文庫)

人間ぎらい (新潮文庫)

 17世紀のフランス劇作家による、性格喜劇。

 主人公アルセストは、潔癖でおべっかが大嫌いで、正直を美徳とし、正義は勝つと思っている、自称「人間ぎらい」の青年貴族である。他の人間は見下すけれど、自分には目をつぶるという、若い頃によくある過剰な自己意識が、戯画化されていて、なかなか見ていて笑える(そして時々ぎくりとする)。アルセストは、おそらく現実にいたら、かなりイライラすると思われる人間なはずだが、彼の性格のせいで引き起こされる悲劇(裁判に負けたり、失恋したり)とあいまって、からりと明るい笑いを誘う。

 というか、アルセストは人間ぎらいではないだろう。恋だってするし、なんだかんだと見捨てないでかまってくれる友人がいる。特に友人フィラントが、いい人すぎる。彼に恋している女性だっているし、ずいぶん恵まれている。山に隠遁しますとか突然言ってしまうあたりも、悲劇ぶる若造さがよく出ていて、なんかどの時代でも国でも、若者はあまり変わらないなあと思う。

 とはいえ、お国柄が出るなと思ったのは、恋の熱情を語るシーン。「頭では分かっているけど、どうにもならない!」とすがるとか、不平不満をぶちあげながら愛の言葉を語るとかのあたりは、現代日本ではなかなか味わえない場面である。訳文の古めかしさもおもしろかった。「打っちゃっといてくれたまえ」なんて言い回し、久しぶりに見た。最後の台詞まで、明るく笑わせてくれる作品。


recommend:
フランス古典劇作家。
ラシーヌ『フェードル・アンドロマック』…恋の悲劇。
コルネイユ『嘘つき男・舞台は夢』…喜劇。恋のために大法螺ふいて。