ボヘミアの海岸線

海外文学を読んで感想を書く

『水いらず』サルトル

[生きるために死ぬことについて]
Jean-Paul Charles Aymard Sartre Intimite, 1937.

水いらず (新潮文庫)

水いらず (新潮文庫)


 この前、風の文字がつくバーで、隣のおじさんたちが「サルトルかカミュか」論争を繰り広げていた。実存主義、マルクス主義が一世を風靡する時代に青春を送った人はなら必ず出会ったであろう会話に、まさか自分が立ち会うとは思わなかった。「ぼくはねえ、あの頃からカミュ派だったんですよ。サルトルは好きじゃなかった」と、赤ら顔のおじさんは言う。

 「実存は本質に先立つ」「アンガージュマン」など、サルトルをめぐる言説は一通り読んだけれど、なんというか、どうもいまいち肌になじまない。全体的に漂う坊ちゃんくささに辟易しているのかもしれない。マロニエの木の根に吐き気を催す本は、最後まで読まなかった。
 というわけで、わたしの中でのサルトルの位置づけは、じつに微妙である。で、今回もやっぱりいろいろとつらかった。読み応えがあったのは、「壁」「エロストラート」ぐらいなものだろうか。肉体への嫌悪を示す「水いらず」「部屋」は、正直もういいよという感じ。
 
 「壁」は、戦争で捕虜になった男が、自分の死と他人の命を天秤にかけて、自分が死ぬことに決めた話。死ぬのを決めた途端に、世界が希薄になって、死を部屋のあちこちに感じとるようになる。

自分は他人をも自分自身をもあわれむことはできない。きれいに死にたい、わたしは心にそう言った。

 そういえばかつてわたしの傍に、うまく死ぬことばかりを考えている人がいた。自尊と自虐と、執着と無関心が同居するような男だった。読んでいて、久しぶりに彼のことを思い出した。命には価値がないと言いながら、自分より他者の命を優先させる。つまりこれは意地である。「エロストラート」は、ラスコーリニコフのように、犯罪によって自分を高めようとする男の話。これもまた、自尊と自虐に強烈に縁取られた心情を描く。
 彼の作品が不条理ではないと思うのは、ラストが両方とも明るいからだ。カフカのような惨めな犬死にがない。「きれいに死にたい」とか言っちゃったり、最後に楽天的になるあたり、やはりサルトルはお坊ちゃんだと思う。
 サルトルは、哲学史で読むぐらいでちょうどいいんじゃないだろうか。時代の寵児であったことは確かだし、実存主義の主張を知るには、彼の哲学は外せない。しかし海外文学としてはどうだろう? 
 やっぱり今回も微妙だったサルトル。たぶんわたしの中で、彼はずっとそういう位置付けなのだろう。


recommend:
サルトル/カミュ「革命か反抗か」…革命はついに成らなかった。
セリーヌ「夜の果てへの旅」…「ノン」を突きつける。