ボヘミアの海岸線

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『バラバ』ラーゲルクヴィスト

[信じない]
Par Fabian Lagerkvist Barabbas,1950.

バラバ (岩波文庫)

バラバ (岩波文庫)

 ――なぜ、祈っているんだ、お前は、と彼はその奴隷に尋ねた。……
 ――お前のために祈っているんだ、と奴隷は闇のなかから聞きなれた声で答えた。……
 けれども目が覚めて床の上を手さぐりで鉄鎖を探すと、鎖はなかったし、その奴隷もいなかった。彼は誰ともいっしょにつながれてはいなかった。広い世界中の誰とも。


 祈る神がいなくとも、人はひざまずく。だが、願いは届かないし、その祈りを共有する人もいない。闇の中に石を投げても、誰も何も返してくれないように。


 スウェーデンのノーベル賞作家が描く、「放免された男バラバ」の残りの人生。バラバはイエス・キリストとともに命を天秤にかけられ、そして救われた男である。罪人の恩赦をめぐる裁判は、聖書の中でも特に印象的な場面の1つだ。「バラバかイエスか」、この問いに対して人々はバラバの釈放を望み、イエスは磔刑になった。ここまでが聖書の記述、そして本書はその後の「語られなかった物語」である。


 バラバは信じない。キリストが神の子であることも、彼が説く「人を愛せよ」という教えも、ローマ王が神であるという教えも、奇跡と呼ばれる事象も。特定の国家宗教を持たない現代日本人は、キリスト信者より、神の存在に懐疑的なバラバの方に共感を覚えると思う。

 無信仰なバラバは、しかしたったひとつ「キリストが死んだときに世界が暗闇になった」奇跡を見た。だから彼は迷う。揺れる。だが、彼が迷うのは「信仰の正しさや真理性」ではない。誰とも何も共有できない己の孤独さを知るとまどいだ。


 最後まで読み終わって思った。バラバにとって、キリストは「死、あるいは闇」であったのではないかと。
 キリストが生きている間の言葉や所業をバラバは知らない。知っているのは、死んだキリストだけ。バラバにとって、キリストは最初から「死」を体現した存在だった。かつて子供を産ませた女、一緒に生死を共にした奴隷サハク、バラバがつかの間一緒にいた人々はキリスト信仰のために処刑された。キリストは、彼らを死の向こうへ連れ去った。
 だからバラバは、灯りひとつない闇の中に、そして世界を燃やす火事にキリストを見いだしたのではないだろうか。火の手を見て「キリストが帰ってきた!」と狂気じみた確信を持つシーンは圧巻の一言に尽きる。

 磔刑男がもどって来たのだ。ゴルゴダの丘の上の彼がもどって来たのだ! その約束どおり、人間を救うため、この世界を滅ぼすために!……
 悪党バラバ、ゴルゴダ以来の罪深い兄弟である彼は裏切らない! いまは裏切らない! 今度は裏切らない! いまは!


 何も信じなかった彼は、キリストを信じた。だが「世界を燃やしつくすキリスト」は、キリスト信者が信じる「人を愛せよと説くキリスト」とは違う。彼は彼の信じたいようにキリストを信じたが、それは誰とも共有できないキリストだった。
 最後にバラバが発した一言が誰に向けられたものなのか、いろいろ議論があるらしい。私は、「彼が信じたキリスト=死」に向かって言ったのではないかと思う。


 バラバは誰とも心を分かち合えずにキリストの元へ向かった。それが寂しい。だが、自分が寂しいことを知らずに生きるよりも、自分は寂しい人間であると知ってから死ぬ方が、まだ救いはあるのではないだろうか?


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