『赤い高粱』莫言
[赤が泣く]
Mo Yan 紅高粱家族 Hong GaoLiang JiaZu,1987.
- 作者: 莫言,井口晃
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2003/12/17
- メディア: 文庫
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万物はすべて、人の血のにおいを吐くこともあるのだ。
赤、赤、赤、どこまでも一面の赤である。赤いのは見わたす限りの高粱畑であり、酒に酔った男の顔であり、多情多恨に踊る女の手であり、ほとばしる鮮血である。白い紙と墨色の文字を見ているはずなのに、少しくすんだ赤が常に目の前をちらついた。
希代の中国作家が描く、どこまでも赤い世界。全八部作のうち「赤い高粱」「高粱の酒」2編を収める。
フォークナーはアメリカ南部にヨクナパトーファを、マルケスはコロンビアにマコンドを、中上健次は日本に路地を幻視したように、莫言は中国に山東省高密県東北郷を生みだした。そこは世界の片隅でありながら、世界そのものである。この地には生と死、暴力と無垢、愛と憎悪が満ちている。
時は抗日戦争、語り部「わたし」の父と祖父、祖母を中心にして物語は進む。父と祖父は、侵略してきた「鬼子」日本軍を撃退するために、真っ赤な高粱の中で息をひそめて時を待つ。
日本軍を待つ間に高粱はさざめいて、父の記憶を呼び起こす。たくましい羅漢大爺と一緒に蟹を大量に取った記憶、高粱から作る酒の記憶、父と母の記憶、高粱畑の中で死体にうじがたかる記憶、羅漢大爺が皮を剥がれてなます切りにされた記憶……その記憶の断片のどこにでも高粱はある。
王文義はまだ泣きわめいている。近づくと、王文義の怪物めいた顔が見えた。濃い青色をしたものが一筋、頬に流れている。手で触ってみると、ねっとりした熱い液体がついた。墨水河の泥と同じようで、それよりもずっと新鮮な、なまぐさいにおいがした。そのにおいは薄荷のかすかな香り、高粱のほろ苦い香りを圧倒した。それはより間近にせまってくる父の記憶を呼び覚まし、墨水河の泥と、高粱の下の黒土と、そして永遠に死ぬことのない過去と、永遠にとどまることのない現在とを数珠玉のように一筋の糸でつなぎあわせた。
「生」と「死」がとにかく鮮烈な印象を残す。登場人物たちは清廉潔白にはほど遠いもののまっすぐ生きていて、見ていて気持ちがいい。特に、祖母のしたたかさと美しさは一読に値する。そんな彼らの「死」も劇的だ。徐々に身体の一部を削ぎ落していく処刑や銃弾に誰もかれもが倒れ、誰ひとりとして楽には死なない。なのに、それでも不思議と世界は美しい。
祖母は赤い高粱を見つめた。かすんだ目に映る高粱は奇妙に美しく、不思議な姿をしていた。高粱たちは呻き、ねじれ、叫び、絡み合い、化け物の姿をしたり、親しい人の姿になったり、蛇のようにとぐろを巻いたかと思うと、またするすると伸びていった。その声は、言いようもなく美しい。高粱たちは赤や緑、黒や白、青や緑とさまざまに色を変え、声をたてて笑い、泣き叫んだ。その涙が雨粒のように、祖母の胸に広がる荒れ果てた砂漠をたたいた。
もはや、高粱の中に人がいるのか、人そのものが高粱なのか、だんだん分からなくなってくる。高粱の野の中には、人の営みすべてが隠されている。男女は高粱の茂みで交わって子を孕み、高粱の陰で待ち伏せして人を殺し、死体は腐乱して土にかえり、ざわざわと高粱は育つ。
空はいかにも高く、そして低かった。天と地と、人と高粱とが一つに織りなされ、そのすべてが途方もなく巨大な覆いにおおわれているような気がした。
人は生きものなのだと、今さらながらに思った。未完作品のため、尻切れとんぼで書き散らされた印象をうけるが、この強烈な色彩は忘れがたい。言う莫かれなどと言わず、これからもどんどん饒舌に世界を語ってほしい。
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